読んだ本」カテゴリーアーカイブ

プルースト『失われた時を求めて(9)』(吉川一義訳、岩波文庫)

間を置きつつ、まだ読み続けている。半年くらい放り出していても、何となく「挫折した」感がなくて、また再開してしまう。読み進むにつれ、「ああ、これ最初から読み返したいなぁ」という思いが募ってくるのだけど(つまりけっこう嫌いではない)、たぶん刑務所にでも入らない限り、そんな暇はないのだろうな。

 

シリン・ネザマフィ『白い紙/サラム』(文藝春秋)

Facebookで見かけたWIRED.jpの記事が気になり、しかしその記事は読まずに(まだ読んでいない)、作品の方を先に読んでみた。

以前、芥川賞を受賞した楊逸『時が滲む朝』を読んだときと同様、日本語のおかしなところは散見される。しかし以前は「こういうのって編集者は何か助言しないのだろうか」と思ったものだが、今回は読んでいて何となく「あえて不慣れな日本語=外国語で、しかも『小説』として、これを書こうとした(書かざるをえなかった)というのは、どういうことなのだろう」と思ってしまった。楊逸の作品もいま読み直すと、同じように受け止められるのかもしれない。

「白い紙」は、イラン・イラク戦争のまっただ中、イランの小さな街での少年少女の恋物語。「サラム」は日本の大学に在学中のイラン人学生が、難民申請しているアフガニスタン女性の通訳をする話。前者の方が、馴染みの薄い世界だけに印象深いかな。

 

トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)

大学の教養課程の頃、必読のような扱いを受けていた本(といっても刊行が1971年だから、当時を基準に考えればそれほど前の本ではないのだが)。

もちろん、フマジメな学生だった私は読まなかった(笑)

少し前に読んだ『プラグマティズム入門』あたりでも紹介されていたので懐かしく思って(だから読んでいないんだってば)、今さらのように読んでみた。

現代の自然科学を相対化するという意味で、やはり読む価値のある本だと思う。「科学的に」云々という主張を目にしたときに、それを冷静にカッコに入れられるかどうかは大切なことで、もちろん少し哲学をかじればいいことなのだけど、ひとまず、自然科学内部から、こういう把握をしたということは、とても大きな業績だと思う。

それはさておき……「当時の学生はよくこんなのを我慢して読んでいたものだなぁ」というのが率直な感想(笑) 何しろ翻訳がひどい。訳者あとがきで少し言い訳めいたことも書いてあるけど、まぁ何というか、科学の専門家であって翻訳の(というか日本語の)専門家ではないのだよなぁ、と思う。

内容と直接関係がなくなってしまうのだけど、「そうか、自分は微力なりとも日本の翻訳の質を上げるための仕事をしてきたのだなぁ」という感慨を抱いてしまった。

翻訳に腹が立つときの常でkindleで原書も買ってしまったのだけど、まぁ確かに原書も読みやすい英文とは言いがたいのだけど……。

※ 結局、翻訳の方で読み通しました。

 

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)

何度目かの再々…読。ときどき読み返したくなる。いまでも「おお、ここはそういうことだったのか」とちょっとした発見がある。

発売は1988年か。大学3年。両親が死んだ年だ。物語には、まだ携帯電話もインターネットも出てこない(当時から存在はしていたはずだが)。「ゲイ」や「おかま」が多少なりとも差別的な言辞として出てくるのが時代を感じさせる。今でもそういう感覚でいる人は多いと思うけど。

そういえば彼の最新作は、義父から借りたきり読んでいない。その前の長編も買ってから数年放置していたしなぁ……。

 

 

 

 

村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』(学芸出版社)

これも疋田智さんのメールマガジンで知った本。

先日読んだ『集落再生~「限界集落」のゆくえ』との関連も深い内容。高齢化に伴い、自分で車を運転することが困難な人口が急増することが想定されるなかで、交通工学、というより都市計画の観点から、自動車依存の社会をどう変えていくかというテーマ。

いくつか面白い観点が得られた。

たとえば、「人口密度が高い」というと過密で窮屈な印象があって、「人口密度が低い」ほうがゆとりがあって暮らしやすいような刷り込みがあったけど、実はそうでもない。ある程度の人口密度がないと、たとえば商業施設は商圏を広く取らなければ採算が合わなくなり、広大な地域に大型店が一つだけ、したがってそこへのアクセスは基本的にクルマ、という状況になる。そうすると、クルマを運転できない人は生活が成り立たなくなる。医療にしても行政サービスにしても同じこと。そもそも、過疎とか限界集落とかいうのは、要するに人口密度が低くなりすぎちゃってコミュニティとして成立せず瓦解してしまう状況なのだから、まぁ当然か。

あるいは、シェアド・スペースという試み。自動車、自転車、歩行者などの交通をあえて区分せず、歩道もガードレールも設けず、交通標識も信号もなく、ルールなしに混在させる。必然的に、他の交通主体がどう行動するか気にしながら動かなければならないから、自動車の速度は落ち、お互いに配慮するようになり(教習所で言う「かもしれない運転」だな)、結果的に安全で快適な空間が生まれる、という発想。そんな無茶な、と思うけど、「自動車優先」という思い込みをえぐり出してしまえば、少なくとも市街地では成立する。不安感を高める方が安全になる、ということで、これは自転車は車道を通行した方が安全という話にも直結する(クルマに「邪魔だなぁ、危ないなぁ」と思ってもらった方がいい、ということ)。

というわけで、なかなか良い本なのだけど、最後の「締め」がないのがもったいない。数ページの「あとがき」程度でいいので、付けてほしかった。「あれ?」という感じでいきなり読み終わってしまう。

 

 

 

小島寛之『世界は素数でできている』(角川新書)

ときどき気になる素数モノ(笑)

著者はいったん数学研究に挫折して経済学に転じ、今は経済学者なんだけど、それまでの素養を活かした数学エッセイなどで人気がある、という人のようで、文章が巧みで面白く読めました。

とはいえ、以前読んだ『素数の音楽』(新潮文庫)同様、途中まではついていけても、本題のリーマン予想あたりまで行くと……というか、いや実際のところはもっと手前から、理屈のうえでの理解という点ではボロボロになります(笑)

まぁそれでも最後まで読ませてしまうところが著者の腕。

あと、量子論でもそうだけど、分からないなりに何冊か読み通すと、少なくとも観念的には把握できるし、少しずつ前進はしている気がする……(そうかなぁ?) 今回は「ρ元体」の話なんかもわりと楽しめたし。

ただまぁ結局のところ、先日読んだプラグマティズム関連で出てくる「数学の哲学」みたいな話のほうが本質的だよなぁという気がしてしまう哲学科出身。

大西隆、他『集落再生~「限界集落」のゆくえ』(ぎょうせい)

疋田智さんのメールマガジンで知って、興味を惹かれて読みました。

縁あってここ数年訪れることの多い八ヶ岳山麓にも、実質的に耕作放棄された農地はけっこうあるようで(家人の両親はそういう農地を借りていろいろ作っている)、高齢化は言うに及ばず、本書でも触れられている不在地主化(要は、都会に出てしまっている子どもが相続することで、住民以外が所有する土地が増えている)も進行しているはず。

我々が訪れる地域はけっこう前からの別荘地開発が成功していることもあって、そのあたりの人口による需要があるのか、若い世代が新しい飲食店をやっている例もかなりあって、あまり心配はなさそう。とはいえ、そもそも別荘族じたいの高齢化が進んでいる(若い世代は魅力を感じないらしい)ようなので、いつまでも当てにできるのかどうか。

そういう関心がもともとあったので、気になったのです。

基本的には真面目な論文集で、いちおう全体の流れはあるのだけど、一番面白かったのは最後の1本かな。いわゆる限界集落の問題は、石油依存・大量消費の都市中心文明じたいの病であって、再生エネルギー中心・循環型・持続可能な文明への移行にともなって、むしろ中山間地域の都市に対する優位がクローズアップされる、というビジョン。その文脈で、都市郊外の集合住宅などの高齢化ペースが、中山間地域のそれを上回るという展望は、けっこう衝撃的でした。

そういえば、上述の不在地主化について「こういう状況は荘園制以来ではないか」みたいな表現があって、その歴史的な視野に「おおっ」と思ったのも印象的でした。

さて、そんなわけでけっこう興味深く読んだのだけど、この本に限らず、なんかこういう論文集の類を読んでいると、「きちんと整った文章を書く」訓練って、学者・研究者と言われる人たちのあいだでもあんまりしっかり行われていないのだなぁとつくづく思います。編集者がきちんと介入していれば防げるはずの「てにをは」レベルの問題とか、修飾語の順序をもう少し考えれば読みやすくなるのにとか、読点の打ち方の問題とか(まぁ安倍首相の文節区切りの酷さよりはマシですが)……。

むろん、以て他山の石、なのですが。

 

伊藤邦武『プラグマティズム入門』ちくま新書

少し前に、元ラグビー日本代表の平尾剛史さんが勧めていた『物語 哲学の歴史』(中公新書)を読んだときに、「あ~やはりこの部分に馴染みがない」と特に思ったのが、プラグマティズム(と、論理実証主義)。

せっかくなので、上掲書と同じ著者の本で勉強しようかと思って、これを読んでみた次第。

けっこう面白かったです。特に真ん中の「少し前のプラグマティズム」のところ。クワイン、ローティ、パットナムといった顔ぶれ。私が大学に入った頃、必読書のような扱いを受けていた(でも読んでいない)トーマス・クーン『科学革命の構造』あたりも絡んできて、たいへん興味深い。あと、もっと前(プラグマティズムの源流あたり)だけど、大学の頃にけっこう中心的に読んでいたベルクソンなんかも、この流れと親和性が高い。

その名のとおり、実に現実的・実践的で、いろいろな分野に応用が効く、まさしく「有効な」思想なのだということはよく分かります。

というわけで、今後もこの流れには関心を持っていきたいなとは思います(ひとまずクーンを読むかな)。この本も、図書館で借りて読んだのだけど、買っちゃうかも。

ただ、その有効性ゆえに、なんというか「深淵をふと覗きこんでしまった」ヤバさがないんですな。そもそも出発点としてのデカルト主義への批判という意味では、結局のところ、有効な批判にはなりえていないという気もするし。

世の中に、ネットスラングに近いけど「中二病」という言葉があって、要するに中学二年生前後の、いわゆる思春期の頃に、自己愛をこじらせて空想・妄想が暴走するような状況を指すようです。

私が、『自分で考えるということ』というデカルトの思想を紹介する本を読んで、見事にハマってしまったのも、ちょうどそれくらいの時期。しかしあの頃、その代わりにこういうプラグマティズムの哲学に触れていたら、たぶん、そのようなハマり方はしなかっただろうと思う。そういうヤバさが不足している。不足しているというか、それが無いのが優れたところなのかもしれませんが。

そういえば、冒頭に触れた『物語 哲学の歴史』は、妙に現象学の扱いが軽いのも気になったんだよなぁ……。やっぱり、哲学に中二病的にハマるには、デカルト、カント、ニーチェ、現象学、実存主義ですよ!(何をオススメしているんだか)。

 

あきみち、空閑 洋平 『インターネットのカタチ もろさが織り成す粘り強い世界』(オーム社)

8月下旬に国内の広範囲でネット障害が起きたときに、あるTwitterユーザーが紹介していた本。事件・事故で「インターネットが壊れた」例を材料にしてインターネットの仕組みを解説するもので、なかなか臨場感があって読みやすかった。

といっても、これを一読しただけで先日の障害について「なるほど、これだったのか」と納得できるわけでもないので、著者のブログなどで、あの件についての具体的な解説を読んでおいた方が良さそう。

あと、インターネットの「国境」については、特に中国とかのネット統制など、別に詳しい本を読んでみたい気もする。

いずれにせよ、面白い本。

 

Terry Eagleton, “Why Marx Was Right” (Yale University Press)

邦訳『なぜマルクスは正しかったのか』(河出書房新社)を6年前に購入済みで、積ん読状態だったのを読もうかと思ったのだけど、Amazonのレビューを見たら「翻訳がひどい」という評判だった。「翻訳がひどい」は、実は複雑な内容を理解できない読み手の問題というだけの場合もかなり多いのだけど、どうもそうでもないみたい。

というわけで、いっそのこと原書で読んでしまうことに(もちろんkindle)。英語を読むのは職業柄それほど苦にはしないのだけど、それでもかなり時間がかかった……。イギリス人ぽい味わいのある(←婉曲表現)英語だからという理由もあるのだけど。

でも、内容はとても面白かったです。「マルクス主義は……である」という典型的な10の批判に対して、「それは誤解だよ」という解説を加える構図。マルクスの著書を読んでみたいという気にさせる。

確かにこれは優れた邦訳があってもいいかもしれないなぁ。