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周司あきら、高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(集英社新書)

けっこう前だがアイリス・ゴッドリーブ『イラストで学ぶジェンダーのはなし みんなと自分を理解するためのガイドブック』を読んでいたので、ある意味、トランスジェンダーに特化した復習という感じ。ただしこちらの方が日本の事情に密着していて、ある意味、生々しい印象はある。

性別というのは、世界を分節して認識する仕組みという意味で、一種の「ことば」なのだなぁと強く感じる。「ことば」だけに、そこから脱して/外れて思考することは、たぶんそれなりの訓練を受けていないと難しい。トランス男性/トランス女性も、その仕組みじたいを抜け出ることはないままに、その中で自分の位置付けを定めるのに苦心しているように見える。

もちろん、その枠組の中で苦しまずに済むような社会の構築が「とりあえず」急務なのは当然として、しかし根本的には、この本の中でも再三にわたって言及される、ノンバイナリーな考え方、二分法の仕組みに囚われない考え方が必要なのだという気がする。

 

アイリス・ゴッドリープ『イラストで学ぶジェンダーのはなし みんなと自分を理解するためのガイドブック』(野中モモ・訳、フィルムアート社)

しばらく前から、同業というか、翻訳関係の人をTwitterで積極的にフォローするようにしていて、その中のお一人の訳業とのことで、手に取ってみた。

まぁ何というか、自分は世間一般よりは多少はマシなのかもしれないけど、それでもやはり認識をアップデートする必要があるよなぁとも思っていたし。

人は多様であり、しかも変化する、ということ。これに尽きる。

もちろん「実はそれほど多様でもなく変化もしないのではないか」という省察は折々のタイミングで必要だとは思うのだけど、それでも、他の側面について「多様であり、変化する」ことが当たり前のように思われているのと同じ程度には、性的指向や性自認についても考慮されるべきだろう、という気がする。

翻訳については恐らく評価が分かれるのではないか。ただ、原著(こちらはkindleで購入した)の文体の雰囲気を活かそうという意志を強く感じる。そして、私自身もついやってしまいがちなのだけど、文章だけを追って読んでいると、その「ノリ」がしっくり来ない。せっかくそういう作りになっているのだから、しっかりイラストを見つめながら読まないとダメ(そしてその意味では紙の本で読む方がよさそう)。

あと、私が読みやすい/読みにくいと感じる文章を、他の人もそのように感じるとは限らないのは当然なのだが、そういう「読みやすい文章とはどういうものか」という評価軸にも、かなりの程度ジェンダーバイアスがかかってくる可能性はあるよなぁ、という気がする。

そうそう、私自身も翻訳業界の末席を汚す身として、「代名詞」の話はたいへん興味深い。もっとも、当然ながら英語で書かれたこの本では「一人称単数」については触れられていないのだが、日々翻訳の仕事をやっていて悩むのは、一人称単数を何にするか、だったりする。クライアントによってはきっちり基準を示してくれたりするのだけど。

シンジア・アルッザ 、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー『99%のためのフェミニズム宣言』(惠愛由・訳、人文書院)

常々、フェミニズムというのはもちろん女性だけの運動ではないし、そもそも、フェミニズムによって男性もまた救われ解放される、という認識をもっている。したがって「99%のための」であれば当然自分もそこに入っているはずだよなと思って、この本を手に取った(社会階層的には十分に恵まれている方だと自覚はしているが、いくら何でも1%の側ということはあるまい)。

本書の「リベラル・フェミニズム」(リーン・イン・フェミニズム)への批判や、「多様性」がネオリベラリズムに利用されてしまう構図の指摘などは、たいへん刺激になるし、今後の思考や行動を変えていくキッカケになるような気がする。「飛び散った破片の片づけを圧倒的多数の人々に押しつけてまで、ガラスの天井を打ち破ろうとすることに興味はない」という比喩は秀逸。

そういった意味でも、まさに今読まれるべき本だとは思うのだけど、残念ながら、翻訳がよろしくない。訳者はまだ若い人なので、これからということなのだと思いたいが、う~ん。まぁ私の過去の翻訳にも、すべて回収して焼き捨てたいほど酷いミスがあったからなぁ…。いちばんガックリ来たのは、テーゼ10の末尾、原文 “Not in our name.” が「私たちの名を語るな」になっているのだけど、ここは「騙るな」だろう。ボールド表記で強調されている部分だけに、この誤変換はちと辛い…。もちろん、翻訳の点を割り引いても良い本だとは思うのだけど。

というわけで、こういう場合のお約束ということで、原書をkindleで購入してしまった。

 

 

 

藤本和子『ブルースだってただの唄』(ちくま文庫)

何かで話題になっていて、タイトルにも惹かれて読んだ。

ただし、こういうタイトルではあるが、別にブルースについての本ではないし、音楽についての本でもない。Amazonの紹介にもあるように、1980年代の、米国の黒人女性たちへの聞き書きである。

内容は、とても良い。さまざまな差別を克服する経路として語られることの多い、「教育を受けて社会での地位を向上させ、(この場合は白人と)対等になること」が、必ずしも良い道ではないのだ、という一種の告発には迫力がある。「黒人」といっても一括りにできず、「私がもっと黒ければ、まだ良かったのに」という趣旨の発言などは、まさに当事者からでなければ聞き出せないだろうと思われる。ここで著者に向かって言葉を発した黒人女性たちが(まだ存命であるならば)、オバマ大統領の誕生やBlack Lives Matter、それにハリス副大統領の誕生などをどのように見るのだろう、という興味を抱かずにはいられない。

その一方で、「ああ、彼女たちの言葉は『女ことば』で記されるのだなぁ」という違和感というか、3~40年ほど前、恐らく最も進歩的であっただろう著者の時代に思いを致してしまう。

そういえば、「戦い」や「闘い」ではなく「たたかい」、「日本」「日本人」ではなく「にほん」「にほん人」という表記を好む書き手というのは、ある時期、確かにいたように思うのだが、それはどういう人たちがどういう趣旨でそういう表記を選んでいたのだったか。