月別アーカイブ: 2017年6月

松木武彦『縄文とケルト:辺境の比較考古学』(ちくま新書)

近所の書店で見かけて気になり、図書館で予約してみた。新刊書は予約待ちリストが長い場合があるのだけど、これ(2017年5月刊)はわりとすぐに借りられた。

面白かった。

この本を参考にイギリス(正確にはブリテン島)の古代遺跡を見て回る人を想定しているのか、「レンタカーを借りて回るのがベストだろう」とか「ここは是非立ち寄りたいところだ」みたいなガイドブック的要素があって、「行かねぇよ!」とか思うのだが、でも遺跡巡りマニアみたいな人はけっこうたくさんいるんだろうな(笑) 自分はそこまで没入することはないと思うのだけど、それでも、著者が遺跡を追ってクルマを走らせる、その過程の風景描写には心惹かれるものがある。

ちなみに、タイトルに「ケルト」とあるが、ブリテン島に関する記述のかなりの部分は、実際にはケルト以前、先ケルト~原ケルトと著者が呼ぶ時代についてである。

比較考古学ということで、ユーラシア大陸の東端と西端の辺境=日本とブリテン島を対比し、「ここまではほぼ一緒なのに、どうしてその後の展開はこうも変わってしまったのか」と考察する部分がこの本のハイライトなのだけど、そこはやはり理屈になってしまうので、そこに至るまでの、文字資料のない時代の遺跡を推測を交えつつゆるゆると辿る部分が楽しい。

地図がやや小さいのと、現代の都市名などが記載されていないので、Googleマップとか見ながら読むといっそう楽しいかも。

 

沖浦和光『竹の民俗誌 日本文化の深層を探る』(岩波新書)

先日読んだ『幻の漂泊民サンカ』と同じ著者。同書で書名だけ触れられていたので気になった。

「海彦・山彦」の物語や『竹取物語』など、子どもの頃~高校生くらいまでに触れた物語に深く突っ込んでいるのが面白い。そしてやはり、サンカや被差別部落も含めて、賎民史というのは、ある意味魅力的なんだよなぁ。

松本博文『棋士とAIはどう戦ってきたか~人間vs.人工知能の激闘の歴史』(新書y)

読了して、「ああそうか、だからタイトルが過去形なんだな」という感慨を抱く。

もはや、人間がAIと将棋を真剣に指すことにはほとんど意味がないのだろう。あるとすれば、プログラムのバグを見つけるという形でAIに貢献するというくらいか。

しかし、だからといって人間にとっての将棋の面白さが薄れるわけでもなく、この本の前に読んだ羽生の本あたりに触発されて、三手詰めの詰め将棋をスマホのアプリで解いている私なのであった(笑)

人工知能全般については、羽生の本の方がはるかに面白いが、将棋ファンにとってはこの本もたいへん面白い。

羽生善治、NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』(NHK出版新書)

人工知能の研究・発達を通じて、「知性」とは何かという定義そのものが変わっていくのだろう、という洞察が印象深い。

「人工知能に自然言語は理解できない」みたいな主張をこのところ続けて2つほど目にしたのだけど、羽生はさらに「では我々人間は自然言語を理解できているのか、理解しているとはどういうことなのか」というところまで踏み込むのだよね。やはり凡百の頭脳とはレベルが違う。

もちろん、私も将棋ファンの端くれなので、羽生が語る棋士や将棋ソフトについてのあれこれも面白い。

 

 

沖浦和光『幻の漂泊民・サンカ』(文春文庫)

何がキッカケだったのか忘れたけど「読みたい本」にリストアップしていたことに先日気づき、図書館で借りてみた。

Amazonの紹介によれば、

一所不住、一畝不耕。山野河川で天幕暮し。竹細工や川魚漁を生業とし、’60年代に列島から姿を消した自由の民・サンカ。「定住・所有」の枠を軽々と超えた彼らは、原日本人の末裔なのか。中世から続く漂泊民なのか。従来の虚構を解体し、聖と賎、浄と穢から「日本文化」の基層を見据える沖浦民俗学の新たな成果。

という本。

著者がすでに採取した、かなり重要な証言が最終章まで伏せられているので、何だかズルい構成という気がしなくもない。とはいえ、なかなか面白い本ではあった。結論はつまらないと言えばつまらないのだけど、しかしそうやって差別や蔑視の感覚というのが生まれていくのだなぁという点では意義深い。

吉川一義『失われた時を求めて(8)』(岩波文庫)

挫折したと思われていても挫折していない。

読み進めるにつれ、「これ、もう一回最初から読み返さないと」という気がしてくる。しかし他にも読みたいものはたくさんあるし、そんな暇はないよなぁ……。

この吉川訳はまだ完結していないのだけど、5月に11巻が出たらしい(14巻で完結予定)。なかなか追いつけない。

小澤祥司『エネルギーを選びなおす』(岩波新書)

読み終わったのは5月中。

大筋としては著者の主張に賛同するし、紹介されている事例はどれも素敵なものなのだけど、いずれも、小さなコミュニティの範囲での「エネルギーの選びなおし」に限られているのが気になる。もちろん、そういう小さいコミュニティの実践も積み重なれば大きな違いを生むのかもしれないけど……たとえば東京などの大都市の営みや、鉄道などのインフラを支えるエネルギーを賄うには、やはり大規模集中タイプの発電(原発でなくてもいいけど)が不可欠なのではないか、という気がする。

まぁ突き詰めれば、そういう大都市とか大規模インフラを必要としないような生活が理想なのかもしれないけど、それにはたぶん百年~数百年スケールでの文明観の転換が必要になるだろうな……。