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中井亜佐子『日常の読書学:ジョゼフ・コンラッド「闇の奥」を読む』(小鳥遊書房)

先日『闇の奥』を読んだのだけど、何がキッカケで読む気になったのかまったく自覚していなくて、ひょっとして、これの書評でも読んで気になったのかな、と思って本書を手にとった次第。実際には理由は違ったような気がするけど、ひとまずこの本もよい本であった。

以前に読んだ『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』と同様に、一つの作品をいろいろな方法で読んでいく試み。「日常」というタイトルのわりに、けっこう専門的な「批評」としての読みの比重が大きいのがちょっと残念な気もするが、それはそれで面白い。

しかし、ある「読み方」を選択することが、それ以外の読み方に対する否定にならないようにするのは、けっこう難題だよな…と思う。それにしても、たとえば欧米先進国がアジアやアフリカを蔑視していた過去というのは、そちらの人間にとってもこちらの人間にとっても、もはや拭い去ることのできない歴史で、誰もそこからはのがれられないのだよなぁと、昨今のご時勢を見るにつけても、なかなか辛い現実であるように思う。もちろん、それに耐えられずに修正主義に走ってしまう心弱い人たちもいるわけだが。

もんじゅ君『もんじゅ君対談集 3.11で僕らは変わったか』(平凡社)

図書館に行ったら、坂本龍一追悼のコーナーが設けられており、その中にこの本があった。区の図書館なのだが、そういうところがなかなか優れている。指定管理者制度のもとでの運営のはずなのだが。

それぞれの対談が行われたのは震災・原発事故から2~3年後と思われるので、さらにその後の社会の劣化を目の当たりにした後で読むと、この頃はまだ希望があったのかもしれない、とさえ思えてくるのが辛いところ。

とはいえ、そういうシリアスな認識とは離れて、特に奈良美智や鈴木心が語る内容には興味深いものも多い。もちろん坂本龍一も。國分功一郎については(甲野善紀も)、他の著作をいくつか読んでいるので、そこまで新鮮味は感じなかったが、とはいえ、これを機に未読だった『原子力時代の哲学』を購入してしまった。

内田樹『生きづらさについて考える』(毎日文庫kindle版)

久しぶりにウチダ先生の著作を読む。

あいかわらず、膝を打つ叙述はたくさんあって、読む価値のある本ではあるのだけど、これまでも、退却戦を殿(しんがり)に立って戦うことを旨としてきたと思われるウチダ先生だが、ここに至って、かなり諦念の比率が高まってきたような印象を受ける。そして、その気持ちは大変よく分かると言わざるをえない昨今の状況である。

 

山本義隆『日本近代一五〇年 科学技術総力戦体制の破綻』(岩波新書)

明治維新から今日に至る日本の近代史を、科学技術と国家体制の関係という1本の軸で通観する内容。

著者はよく知られているように東大全共闘の議長だった人物で、したがって、自身が専攻する物理学を含め、学問が人間を抑圧するものになっていないかという問題意識を当時から持ち続けているはず。その遺産と言うべきなのか、私が学生だった頃も「産学協同」に対する批判というのは身近に見聞きするテーマだった。といっても、すでに私の頃には、そんな批判があることすら知らないという学生が大多数だったかもしれないが。そういえば、当時はまだ「産学協同」であって、「産軍学協同」とまではあまり言われていなかった気がする。

教科書的な歴史観だと、第二次世界大戦の敗戦を境に日本の国家・社会はガラリと変わったという把握の方が普通だし、それを前提にして、あるいはその方向性を大切にして考え動いていくことも必要だとは思うのだけど、逆に、ある軸を基準にすれば(本書では科学技術)、明治維新以来の近代日本は一貫した流れの中に置かれている、という視野を持つことは、とても刺激的である(もちろん、タイムスパンの取り方はいろいろであって、たとえば「明治維新を境にガラリと変わった」という史観に対する批判的な検討というのもある)。

科学技術はこうであるべきだ、日本はこの方向に進むべきだ、という主張や示唆は意外なほどに希薄なのだが、その分、自分でいろいろ考えないとなぁと思わせる本。

有名な『磁力と重力の発見』あたりも読んでみたいけど、さすがに私には荷が重いかな…。

 

 

 

佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋)

『シン・ゴジラ』を観た流れはまだ続いていて(笑)、知人のツイートを介して、何となくタイトルには聞き覚えがあったこの本を手に取ることになった(といっても図書館で借りたのだけど)。

う~ん、幼稚にして雑、という印象。

諸悪の根源を「戦後民主主義の理念」に求める態度が露骨で、それゆえに無理なこじつけを繰り返している。もちろん「戦後民主主義の理念」に対する著者の捉え方がどこまで的確なのかは疑問だが、仮にそれが的確だとしても、すべてがそれで説明できると考えるとすれば、あまりに頭の構造が素朴すぎるというべきだろう。著者は「十二歳の男の子の堂々めぐり」をさんざん揶揄するのだが、それがどうも、「一足先に大人になった(つもりの)十四歳の男の子」の視点のような気がしてならないのだ。

著者は私と同い年。この本は1992年の刊行だから、せいぜい25歳くらいの若書きである。まぁ確かに、あの頃の私も、この本の著者と同じ程度かはともかく、幼稚にして雑だったと思うので、今の視点からこの本を批評するのはフェアではないかもしれない。

 

廣野由美子『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』

というわけで、これを読む準備としての『フランケンシュタイン』だった。

前半は小説がどういう構造になっていて、どういう手法が使われているのか、といった、まさに「解剖」と言うべき読み方の手ほどき。後半は、ある作品に対して、どういう視点や角度からの批評の仕方がありうるのか、こういう批評スタイルだったら、この作品のこういうところをこういう風に語ることになる、という例示。作品が1人の人間だとすれば、前半が医学的分析だとすれば後半は社会的評価といったところか。

副題にあるように、素材として取り上げられるのは『フランケンシュタイン』で、やはり先にこの作品を読んでおいた方が、この本もいっそう楽しめるように思う。もちろん、この本を読むことで『フランケンシュタイン』がいっそう親しみの湧く作品になることは間違いない。

主眼は後半にあるのだが、さまざまな批評のスタイルを並列的に紹介していくのを読み進めていくと、著者にその意図はないのだろうけど、何となくそれぞれの批評スタイルのパロディのような趣を感じてしまう。そんなわけで、ふと思い出したのが斎藤美奈子『文章読本さん江』。

本書で取り上げられている批評スタイルのうち、楽しんで読めそうだなぁと思ったのは、精神分析批評、フェミニズム批評、ジェンダー批評(アップデートの必要がありそうだが)、マルクス主義批評、あたりかな。

図書館で借りたが、これは家に一冊あってもいいなと思うので、たぶん買うことになりそう。

 

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)

9月上旬、いつもの駅前の書店でふとこの本が目に入り、サリンジャーはそれほど思い入れのある作家ではないのだけど、著者の名前に懐かしさを覚えて手に取った。パラパラと立ち読みしたところ、どうやら少なくとも『バナナフィッシュにうってつけの日』(『ナイン・ストーリーズ』所収)と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでおいた方がよさそうで、その二冊を読み終えるメドが立ってから、こちらも購入(『ナイン・ストーリーズ』の最後の一篇『テディ』も本書を読む上では重要)。

自転車通勤の最大の難点は通勤時間中に本を読めないということなのだが、本書を読み終えるまでは、天気が良くても自転車通勤を断念するほどだった。

つまり、それくらい面白い。

そして、読み終わった後、せっかく「予習」として読んだ二冊をまた読み返そう(というより、本書を読みつつ、座右に置いた件の二冊のページをめくることも多かったのだが)、さらには他のサリンジャー作品もすべて、ひょっとしたら原語で読もうかという気になっているのだから恐ろしい。本書の「謎とき」においては「そんなの、他の作品も全部読んでなかったら知らないよ!」と言いたくなる部分もあるのだけど、むしろ「それなら他の作品も全部読まなきゃ」と思わせるところ、著者としては英米文学業界に貢献するところ大と言えよう(といっても、上記二冊はさすがに読んでおいた方がいいと思うが、他は本書中で丁寧に言及されているので、先にこれを読んでしまっても大丈夫)。

小説を読むのは好きだが研究者ではないので、最近の文学評論の趨勢がどうなっているのかさっぱり分らないのだけど、素人ながら、この本はテクスト批評と作家理解のバランスが取れているように感じる。第二章・第三章あたりの時間論的な部分は読者によってはハードルが高いかもしれないが、曲がりなりにも哲学科出身としては、そのへんはむしろ馴染み深い領域なので特に興味深かった。

ビリヤードの比喩が何度も繰り返し出てくるのは、もちろんサリンジャーの作品中で言及されているからという理由が大きいのだろうけど、そういえば我々が大学に在学していた頃にプールバーなるものがやたらに流行っていたのだよなぁ、などということも思い出す。

ああ、この本を学生の頃に読んでいたら、ひょっとしたら私も文学研究を志していたかもしれない。たぶん著者の研究室は優れた文学研究者を輩出している(&することになる)のだろう。何より、「あとがき」で触れられている研究室の雰囲気がいかにも楽しそうで羨ましい。