2017年に読んだ本」タグアーカイブ

井上智洋『人工知能と経済の未来 2030年雇用大崩壊』(文春新書)

アップが遅れたけど、2017年最後に読んだ1冊。

AI(人工知能)とBI(ベーシックインカム)のお話。

著者は経済学者のはずなのだが、生産要素として資本と労働の二つしか考慮されていないのはなぜなんだろう。私が古いだけで、今はそうなのか?(そんなはずないよね…)

そんなわけで、どうも浅薄な印象が拭えない。

これまでにAI関係の本を何冊か読んだけど、テレビ番組との連携でいちばん一般受けに配慮して作られていても不思議はない羽生善治・NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』が、最も哲学的に「深い」考察をしているというのが今のところの結論。

 

 

小島寛之『証明と論理に強くなる』(技術評論社)

哲学史の本を読んでいて、やはり論理実証主義あたりから格段に理解度が落ちるなと実感したのだけど、ウィトゲンシュタインに行く前に、何となくこれを。先日読んだ素数本と同じ著者だけど、確かこちらを購入したのが先だったような気がする。説明がわりと丁寧で読みやすいのは共通している。

とはいえ、けっこう難物であった。kindleで買ったのだけど、ちょいと失敗。後半、「第2章の○○ページを見ながら確認してください」みたいなのがときどき出てきて、kindleだと、そういう行ったり来たりがやりにくい(そもそもページの概念が紙の書籍と対応していない)。もう少し手を使って読み進めないとダメっぽい。

この本じたいは悪くないと思うので、紙で購入して再チャレンジするかも。

森田真生『数学する身体』で???だった「証明を数学する」「数学を数学する」あたりの話は、これを読んで何となくわかった。

大学生の頃に流行っていた『ゲーデル、エッシャー、バッハ』が出てきて(←読んでない)、へえ、そういう本だったのか、と。

さてこれに続いて『論理哲学論考』に進撃しようかと思ったのだが、同書の訳者である野矢茂樹さんの『入門!論理学』(中公新書)もちょっと読みたくなってきた。いずれにせよ、数冊先になると思うけど。

 

松山洋平『イスラーム思想を読みとく』(ちくま新書)

大学時代の友人がFacebookで勧めていたので、読む。

これは確かに良書。イスラーム方面は、井筒俊彦『イスラーム文化』中田考『イスラーム入門』などいくつか読んで勉強したけど、あえて新たに1冊加える価値のある本。

何が違うのだろうと考えると、類書がたいていはムハンマドに始まってイスラームとはどういう宗教なのかを語っていくのに比べて、これは、現代的な問題(それこそイスラーム国とか9.11とか)からイスラームの源流へと遡っていく感じ。

たとえば、いわゆる「テロリスト」による攻撃が「一般市民」を標的にすることに憤っている人はたくさんいると思うけど(というかたいていの人が怒っていると思うけど)、「どうしてそういう攻撃をするのか」という理由は、この本を読めば分かる(むろん、理解=容認ではないにせよ)。

結局のところ、イスラームではそれが顕在化しているけど、どの宗教にも共通する原理主義と自由主義/近代主義/世俗主義の対立構造がベースにあるようで、たとえばキリスト教に詳しい人だったら「ああ、これってキリスト教におけるアレと同じだな」みたいに思い当たる節もけっこうあるのではないかと思う(私は詳しくないので「アレ」を具体的に言えないのだけど)。

冒頭の「術の宗教/信仰の宗教」という対比を例外として、基本的にイスラーム(しかもスンナ派限定)についてしか語っていない本だけど、そういう意味で、比較宗教学的な面白さがある。

 

渡辺洋二『彗星夜襲隊-特攻拒否の異色集団』(光人社NF文庫)

私には何というか反戦軍事マニアのような部分がありましてな。

そこそこの判断力がつく年代になる前は、兵器を「かっこいい」と思う、わりとよくいる男の子だったわけです。幼少時に戦争を体験している世代である両親も平和主義者だったはずだけど、私が軍艦や戦車のプラモデルを作ることを別に止めはしなかったような。

物心ついた今はもちろん、反戦平和主義なのですが、いちおう、軍事的なことにも関心はあって、そういう知識は、時事翻訳系でけっこう役に立っていたりします。

この本はいわゆる戦記・戦史ものですが、鴻上尚史さんの『不死身の特攻兵』でも紹介されていて、気になりました。『永遠の0』でもこの部隊の指揮官についてはちょっと言及があります。特攻という戦術を批判する文脈では定番、ということなのでしょう。

中心的な機種である「彗星」が複座であるため、操縦員だけでなく偵察員に関する記述が多いこと、当時の日本軍の軍用機では珍しい水冷式で整備に不慣れだったようで、整備員に関する記述も多いこと、が目を惹きます。

基本的に、見識のある指揮官が、制約のあるリソースを最善の手法で活用して奮戦する、という事例ですが、結局のところ戦争の話なので、こういう事例が再現されることがあってはならないし、そういう話が読みたければスポーツの世界でいくらでも見つかるだろうな、と思います。

【追記】読んでいて、ふと心が痛んだのは、この部隊は、(結果論ではありますが)沖縄を爆撃しているんですよね……。

 

百田尚樹『永遠の0』(講談社文庫)

著者がどんな人物であろうと作品は別ものとして考えるべき、というのが私の原則的な立場。それでも、さすがにこの著者のものは読もうという気になれなかったのですが、鴻上尚史『不死身の特攻兵』を読んだ流れで、ふと興味を持ちました。一時はベストセラーだったようだけど、すでに図書館でも待たずに借りられる(たぶん人気があった時分にたくさん購入したのだろう)。

幸いなことに、この作品をそれ自体として味わう限りでは、著者の日頃の言説に抱くような嫌悪感は生まれないし、平和の尊さ、特攻という戦術の愚かしさ、軍上層部の無能さや冷酷さを訴えるのが本旨だというのなら、まぁ強いてそのように解釈できないこともありません。

ではこの本に読む価値があるかと言われると、残念ながら、それはない。

ひとことで言ってしまえば、稚拙。そして、長くて退屈。

「長くて退屈」なのは、この本の5分の4くらいを占める、特攻要員も含めた元日本海軍航空隊員の回想の部分。巻末に参考文献がいくつか挙げられているように、この部分は実際の回想録などがベースになっているのだろうから、基本的には史実に基づいているのでしょう(主人公の「祖父」をめぐる部分はフィクションだとしても、それに類似した人物やエピソードが現実にあったと想定しても、さほどの無理は感じない)。しかし、語り手である元帰還兵の体験だけでなく、ある程度歴史に関心のある人間にとってはよく知られた戦争・戦闘の推移が縷々語られて、実に長い。「あなた、それは戦後に何かで読んで知ったことですよね」と突っ込むべきところ。

とはいえ、戦争の話というのは、ドラマチックと表現するのは語弊があるけど、やはり物語としての強度が高いわけです。痛快な活躍も、手に汗握る部分も、悲劇に涙する部分も、不条理に憤る部分も、もちろんある。

それよりも辛いのは、本来は「地の文」とも言うべき、作者オリジナルの「物語」の部分。

これがまた何というか、ものすごく陳腐で、人物の性格付けや言動がひどく類型的なのです。主人公自身も、その姉も、彼女に仕事をくれる朝日新聞社(あ、書いちゃった)の社員も、姉弟の父のもとで働いていた青年も。

そもそもね、客を笑わせようとする落語家が自身は笑わないように。チャップリンの大まじめな演技が途方もなくコミカルな場面を作るように。

読者を泣かせようと思ったら、登場人物がそんなに簡単に泣いたらダメです。

いや、笑わせようと思っていたのか?

だって、「物語」のラストではもちろん、流れ星が一筋、夜空を横切るんですよ?(正確な描写は忘れたけど)

笑うさ、それは。

 

 

森田真生『数学する身体』(新潮社)

しばらく前から「数」の哲学みたいなものに興味を惹かれていて、といってもいきなり難しいものは読めないので、そのへんの手掛りになりはしないかと思って、以前から気になっていたこの本を読んだ。

前半の前半くらいは特に私の関心に直接ヒットするという感じ。言及されているアンディ・クラーク『現れる存在』を読んでみたい。「証明を数学する」「数学を数学する」あたりの話になるとさすがに難しくてよく分からないのだけど、でもこのへんに切り込んでいくと本当に面白いのかもしれないなぁ……。

後半の岡潔へのオマージュは、前半との関連づけという点ではもう少し書き足してほしい気もするのだけど、これはこれで面白い。『春宵十話』は入手しやすそうなので読んでみよう。

 

 

 

鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)

舞台の方では30年来のファン(といってもいいだろう)である鴻上さん。へぇ、こんなテーマで本を書くんだ、とちょっと意外に思って読んでみた。全然チェックしていなかったけど、同じ題材に基づくフィクションもこの8月に発表していたのか(『青空に飛ぶ』)。

このノンフィクションの中心人物である佐々木友次氏をめぐるエピソードはもちろん印象的だが(「面白い」というのは語弊があるけど)、それ以外にも特攻をめぐる複数の論点が、著者らしい読みやすい文章で整理されているので(といっても先行文献からの紹介が多いのだけど)、特攻の問題をわずかなりとも考えるうえで良書だと思う。

ちなみに本書のタイトルと「9回出撃してすべて生還した」という触れ込みからは、ものすごい技量を持つ百戦錬磨のパイロットで、米軍と死闘を演じて生き延びたかのような印象を受けるが、実はそんなことはない。「9回出撃命令を受けた」ということであって、実際には離陸すらしていない場合もカウントされている。

が、それはむしろ些末なことであって、出撃命令の目的が、最初はもちろん「体当たり攻撃で米艦を撃沈すること」なのに、だんだん「佐々木伍長を死なせること」に転じていくところが、ほとんどホラーといってもいいくらい狂気である。そして、そんな命令を受けつつ、どうして彼は自暴自棄になって死ななかったのか、という点も実に面白い。

さて、内容的に重複する部分が多いことを承知のうえで、小説『青空に飛ぶ』も読んでみようと思うのだけど、ふと、ね。『永遠の0』も読んでみようかな、と。

むろん、いやーな読後感になるのは覚悟のうえなのだが、調べてみたら、百田尚樹と鴻上尚史の年齢は2歳しか離れていない(百田が年上)。世代の近さというのは思想に影響する要因のごく一部でしかないのは言うまでもないのだけど、どうしてそういう差が生じてしまったのかという興味が、ちょっとある(ま、知性とか教育の差と言ってしまえばそれまでだが)。

幸いなことに、『永遠の0』はすでに図書館でも順番待ちなしで借りられる(笑)

プルースト『失われた時を求めて(9)』(吉川一義訳、岩波文庫)

間を置きつつ、まだ読み続けている。半年くらい放り出していても、何となく「挫折した」感がなくて、また再開してしまう。読み進むにつれ、「ああ、これ最初から読み返したいなぁ」という思いが募ってくるのだけど(つまりけっこう嫌いではない)、たぶん刑務所にでも入らない限り、そんな暇はないのだろうな。

 

シリン・ネザマフィ『白い紙/サラム』(文藝春秋)

Facebookで見かけたWIRED.jpの記事が気になり、しかしその記事は読まずに(まだ読んでいない)、作品の方を先に読んでみた。

以前、芥川賞を受賞した楊逸『時が滲む朝』を読んだときと同様、日本語のおかしなところは散見される。しかし以前は「こういうのって編集者は何か助言しないのだろうか」と思ったものだが、今回は読んでいて何となく「あえて不慣れな日本語=外国語で、しかも『小説』として、これを書こうとした(書かざるをえなかった)というのは、どういうことなのだろう」と思ってしまった。楊逸の作品もいま読み直すと、同じように受け止められるのかもしれない。

「白い紙」は、イラン・イラク戦争のまっただ中、イランの小さな街での少年少女の恋物語。「サラム」は日本の大学に在学中のイラン人学生が、難民申請しているアフガニスタン女性の通訳をする話。前者の方が、馴染みの薄い世界だけに印象深いかな。

 

トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)

大学の教養課程の頃、必読のような扱いを受けていた本(といっても刊行が1971年だから、当時を基準に考えればそれほど前の本ではないのだが)。

もちろん、フマジメな学生だった私は読まなかった(笑)

少し前に読んだ『プラグマティズム入門』あたりでも紹介されていたので懐かしく思って(だから読んでいないんだってば)、今さらのように読んでみた。

現代の自然科学を相対化するという意味で、やはり読む価値のある本だと思う。「科学的に」云々という主張を目にしたときに、それを冷静にカッコに入れられるかどうかは大切なことで、もちろん少し哲学をかじればいいことなのだけど、ひとまず、自然科学内部から、こういう把握をしたということは、とても大きな業績だと思う。

それはさておき……「当時の学生はよくこんなのを我慢して読んでいたものだなぁ」というのが率直な感想(笑) 何しろ翻訳がひどい。訳者あとがきで少し言い訳めいたことも書いてあるけど、まぁ何というか、科学の専門家であって翻訳の(というか日本語の)専門家ではないのだよなぁ、と思う。

内容と直接関係がなくなってしまうのだけど、「そうか、自分は微力なりとも日本の翻訳の質を上げるための仕事をしてきたのだなぁ」という感慨を抱いてしまった。

翻訳に腹が立つときの常でkindleで原書も買ってしまったのだけど、まぁ確かに原書も読みやすい英文とは言いがたいのだけど……。

※ 結局、翻訳の方で読み通しました。