月別アーカイブ: 2019年12月

プルースト『失われた時を求めて(14)』(吉川一義訳、岩波文庫)

というわけで、完読。

読み始めたのが2015年11月末くらいなので、4年間。2018年1月にこの新訳の刊行に追いついて、その後は続刊が出るたびに買って読む、という感じ。

この読書記録用ブログ「冬の日の図書室」では「プルースト」というタグを作り、関連書も含めてまとめてあるのだが(→URL)、順に追っていくと、だんだん感想の量が増えていく様子が分かる。つまり、それだけ作品の世界にハマっていっている、ということ。だいたい8巻くらいから、「もう一度最初から読み返す」という考えがちらちら浮かんできているようだ。そして恐ろしいことに、というか予想通りというべきか、私はこの最終巻を読んで、「遠くない将来に、必ずもう一度読み返そう」と決意しているのである(笑)

この作品を読めば、人生は確実に変わる(恐らく&願わくば、少し有意義な方向に)。その意味で、名作であることに疑いはない。しかしもちろん、それだけの時間を費やすべきかどうかは、まぁ人によって違うとは思うのだけど。

この巻は、最終章「見いだされた時」の後半とあって、前巻をさらに発展させた感じで、「老い」というテーマが圧倒的な中心。「死」の影もけっこう重要。ところが最後の最後に出てくる比喩が、滑稽とまでは言わないが、なんとなく可笑しみがあって、ひょっとするとここには人生の喜劇的な悲しさが現れているのかもしれないが、しかし訳注で紹介されている図版に、またちょっと微笑を誘われてしまうのだ…。

 

 

 

ミカエル・ニエミ『世界の果てのビートルズ』(新潮クレストブックス)

ラグ友が購入した数冊の本の書影をSNSにアップしていたのだが、そのなかで気になった本を図書館で借りて読む。

スウェーデンのなかでも限りなくフィンランドに近い僻村で暮らす主人公の就学前から十代くらいまでを描いた、いわゆるビルドゥングスロマン。ユーモアには富んでいるのだけど、取り立てて甘美でも痛快でもない。その分、リアリティが深い。現実と幻想とのあいだをわりと簡単に往来してしまうのが、徐々に、「あれを飲まされたから、こんな幻想に陥った」みたいに因果を把握できるようになっていくのが「成長」だろうか。

この作品に限った話ではないのだけど、このところ、いまの世の中(日本社会と言ってもいいのだが日本だけではあるまい)にひどく不足しているのは、「文学作品を味わう人」だろうと思うようになっている。人間の社会、それも小規模な部族社会ではない、ある程度の大きさとまとまりを持った社会を成立させている、唯一ではないにせよ恐らく最も大切な仕組みは、「文学」なのだろうとさえ思う。

それは要するに、社会を社会として成り立たせるのは、「自分と違う人生を歩む他者」についての想像力である、ということだ。そして、そういう想像力を育むために不可欠なのが、「文学」である、という意味で。ここで言う「文学」といってもかなり広い意味であって、詩歌や戯曲や小説は言うまでもなく、音楽や舞台表現、映画、もちろんマンガなども含まれる可能性があるのだが。

そのような他者についての想像力を育むという点では、身内の狭いサークルでウンウンと頷き合っているような作品(私が読んだなかでは『永遠の0』あたりが該当する)は効果に乏しいように思う。

だからこの『世界の果てのビートルズ』のように、自分がいま属している社会や時代とはかなりの程度隔絶した状況を描いた作品というのは、「文学」として大いに読むに値するような気がする。

 

メレディス・ブルサード『AIには何ができないか: データジャーナリストが現場で考える』(北村京子・訳、作品社)

何かのきっかけで知って、図書館に予約を入れてあったのだけどだいぶ待たされた(私の後ろにもだいぶ予約が入っている)。

で、たまたま例の大澤昇平の一件を考えるに良いタイミングで読むことに。大澤は、自身の下劣さを隠すためにAIに言及しているだけのように見えるが、この本を読むと、それは彼の個人的な資質ではなく、AI(というかSTEM=Scicence, Technology, Engineering and Mathematics)分野の社会的・歴史的な特性なのではないか、という視野が得られる。つまり、ジェンダーや人種・民族に関する差別意識やリバタリアニズムとの親和性、ということだが。

この本では、汎用型AIと特化型AIについて「想像」と「現実」を区別する必要を強調したうえで、「現実」である後者について、それがなぜ、どのように人間の介入を必要としているのかを説明していくのけど、技術的な部分よりも、社会的・歴史的な文脈に分け入っていく部分の方が面白く有益であるように思う。具体的には、第6章「人間の問題」と、第9章「『ポピュラー』は『よい』ではない」かな。

「当然知っているはずなのに、そこに触れないのはどうなの?」と思う部分はあるけど(コンピューターの歴史のなかでライプニッツに言及しつつ彼が2進法の元祖であることに触れないとか)、まぁ大きな傷にはなっていない。

特化型AIだけに絞って書かれたものなので、哲学的な考察がほぼ皆無なのが物足りないといえば物足りないけど、いまの社会が陥りがちな技術至上主義(テクノショービニズム)に対する批判という位置づけでは、良書だと思う。

ジャーナリストの筆になる本だけあって、読みやすい。訳も悪くないと思う(「ローンチ」の多用はどうかと思うけど、まぁ時代的に許されるか)。

【追記】あ、あと索引がしっかりしているのが有り難い。

 

ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法-哲学的断想』(徳永恂訳、岩波文庫)

先に読んだ『シンメトリーの地図帳』は一般向けとはいえ分野としてはかなり専門的な数学なのでわけが分からなかったけど、これは自分の領分である哲学・思想系なのだから行けるだろう…と思っていたら、かなり難渋した。なかなか進まず、二週間以上かかった(笑) 最近この手のものを読んでいなかったからかなぁ。

とはいえ、難解だと思いつつもゴリゴリ読み進めていけば、しだいに著者の世界に頭が馴染んでいくもので、訳者あとがきを読む頃には、「うんうん、そういう内容だったなぁ」と思えるくらいには理解できたような気がする。

晦渋ななかにも、なるほどと膝を打つ指摘はあちこちにあって、一つだけ紹介しておくならば、

「言うまでもなく被支配者たちは、上から与えられたモラルを、支配者自身よりももっと真面目に受けとるものだが、それと同じく欺かれた大衆は、今日では、成功した者たちよりはるかに成功神話に陥っている」(本書p276)

あと、「反ユダヤ主義の諸要素」の章は、いまの日本で見られる諸々のヘイトスピーチを考えるうえでも、もちろん大いに参考になる。

図書館で借りたのだけど、買うべきか…。

いずれにせよ、他の読書へとつながっていく本というのは嬉しいもので、来年は『イーリアス』『オデュッセイア』を読むことになるような予感。