月別アーカイブ: 2018年3月

尾形聡彦『乱流のホワイトハウスートランプvs.オバマ』(岩波書店)

いちおう例の暴露本『炎と怒り』も読まないといかんかなぁと思っていたのだけど、そういえばこれも読みたい本に入れていたことを思い出し、図書館で借りて読んでみた。

ふだんから英文記事の翻訳で米国政界の話題に接することはそれなりにあるのだけど(さすがに2016年はけっこう多かった)、その時々に入ってくる断片的な知識なので、この本を読んで少し見取り図的なものが得られたような気がする。今さらそれでいいのかという話ではあるが、少なくとも私のレベルの翻訳なんて、その程度のものだ(笑)

この本は、2016年の大統領選以前から、だいたい就任後半年に満たないくらいまでの期間を中心に、メディアとの確執を織り交ぜながらトランプ政権の迷走を描いているのだけど、ここに登場する政権幹部がもうほとんど残っていないというのが、いかにも象徴的(クシュナーとロスくらいか?)。著者も2018年の時点でここまで入れ替わっているとはさすがに想像していなかったのではないだろうか(笑) その一方で、最高裁裁判官の人事がいかに重要かという点がしっかり書かれているのが印象的。

そしてそれに対比するように、この本の後半、オバマの広島演説の背景に触れた部分は心を打たれる。著者はオバマとその側近たちが好きだったんだろうな。まぁそれが当然だが。

 

 

 

スタンダール『赤と黒(下)』(桑原武夫・生島遼一訳、岩波文庫)

読了。

まぁ面白くはあるんだけど……何となく、粗いというか雑というか……。よくいえばダイナミック?

若いうちに読んでおく作品、なのかもしれない。いや、まぁ私は若いうちに読んだといえば読んだのだが……(どこまで理解していたかどうかはともかく、楽しんだ記憶はある)

 

スタンダール『赤と黒(上)』(桑原武夫・生島遼一訳、岩波文庫)

言わずとしれた世界文学の名作。

中学3年生の2月、家族は何やら楽しい用事のために外出したのだけど、高校入試間近ということで私1人だけ家に残され、腹立ちまぎれに勉強もせずに読み始め、あまりにも面白くて没頭してしまい、入試の結果は(以下略)

ということで、35年ぶりくらいに読んでみたのだけど、う~ん、そこまでの作品だろうか。

翻訳があまり上手くない、というか古くさいという点はある程度割り引くとしても(本屋でパラパラめくってみたが新潮文庫のほうが優れている)、どうも造りが雑というか、登場人物の性格設定や話の展開にあまり現実味が感じられず、ナイーブすぎるような気がする。昔の小説はそんなものだ、とも、いや現実の人間のあり方もそうだったのだ、という考え方もあるだろうけど、でも時代的にさほど変わらない、先日読んだ『高慢と偏見』は(新訳のおかげもあってか)けっこう現代の目から読んでもすんなり感情移入できたように思うのだが。

(もちろん現代のイシグロや、スタンダールより100年ほど新しく、そもそも異常なまでの緻密な内面描写が売りのプルーストは別としても)

とはいえ、読むにつれてペースは上がり、続いて下巻へ。ま、面白い話ではあるのだ(これから読む人にはこの岩波文庫版はお勧めしないが)。

 

 

 

伊藤祐靖『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動 』(文春新書)

いったい何がキッカケでこんな表題の本を読もうと思ったのかは忘れた。たしか「こんな表題だけど実は……」みたいな感じで紹介されていて、気になったのだと思う。

結局のところ、「こんな表題」の本でしかなかった。

陸軍中野学校在籍時に蒋介石暗殺の命令を受け、終戦を迎えたけど命令は取り消されていないから有効だと思って、いつでも動けるように週末のたびに幼い息子(=著者)に手伝わせて射撃訓練を欠かさない父親(本書p53~56を要約)、

に育てられ(もちろん、その「命令」は、父親がそう称しているというだけであろう、そんな命令が実際にあったとしても証拠となる文書を残すとは考えにくいし)、

>中学後半から教科書自体を開いたことがない。高校にいたっては教科書を買ってすらいない。大学は、グラウンドと合宿所以外行ったことがない。(本書p76)

>高校、大学の七年間、私は活字すらロクに読まなかった。(本書p78)

……という人生を送ってくると、こうなってしまうのもしょうがないよね、という一つの例である。

もちろん、生物(動物)としての能力は私なんかよりはるかに優れているのだろうし、彼が見出した「戦いの本質」が求められる状況というのは残念ながら現在の(そして将来の)世界にもまだ残っているのだろうけど、人類というのは、そういう状況をなくしていく方向をめざしてきたのだし、今もめざしているのだ。

で、そういうことが分かっていない人というのは、ほぼ必ずと言っていいほど、民族や近代国民国家という物語はあっさりと信じてしまう。

こういう人が「国のため」を思って行動していたら、国がいくつあっても足りない。

自衛隊の現場にはこういう人もある程度は必要なのかもしれないけど、「やっぱり文民統制って大事だな」というのが結論。

帯の「改憲論議の前に必読の書」というのは、誇大ですらない嘘ですよ。著者の憲法に対する理解なんて小学生以下なんだから。

 

 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見(下)』(小尾芙佐訳、光文社古典新訳文庫、kindle版)

ひとまず、たいへん面白かった。

現代の読者から見れば、ありがちな人物造形、お約束の紆余曲折かもしれないけど、それは事の順序が逆と言うべきだろう。

下巻に入ってまもなく、「ああ、これが『執事とメイドの裏表』で紹介されていたところか」という場面に至り、平行して、ロンドン郊外のマナーハウスで、邸内や庭園を案内してくれた義妹の夫君の様子も懐かしく思い出される。そして事件が起きるのが浜辺の街ブライトンなのだなぁ(笑)

で、うまく説明できないのだが、この小説を読み終わってふと思ったのは、自分はたぶん結婚してから、以前よりもだいぶ善良な人間になったのかもなぁということ(自分で言うなよって感じですが)。

 

ジェイン・オースティン『高慢と偏見(上)』(小尾芙佐訳、光文社古典新訳文庫、kindle版)

有名な作品だが実は読んだことがなく、『執事とメイドの舞台裏』でも言及があったので気になっていたところ、Amazonプライムでこのkndle版の上巻が無料になっていたのでダウンロード。

どういう感じの作品なのかまったく予備知識がなかったのだけど、とっつきにくそうなタイトルとは裏腹に、やたらに楽しい。ファミリードラマであり、ラブコメ(笑)

翻訳もうまい。誰が誰に向かって話しているかによって、文体というか語調がくるくる変わるのだけど、それが良いテンポと雰囲気を作り出しているようにも思う。

一気に読んで、さっそく下巻を購入。こちらは有料だが、こういう「釣り」に引っかかるのは悪くない。

ええと、同じ訳者でブロンテ『ジェイン・エア』の上巻も読み放題になっているんですが、これも罠ですか、そうですか……。

 

山中伸弥・羽生善治『人間の未来 AIの未来』(講談社)

わりと最近の本なのに図書館で待ちが入っていなかったので借りてみた。羽生が語っている部分は『人工知能の核心』ですでに目にしている内容なので特に驚きはなかったので、収穫は山中伸弥の語っている部分かな。そういえばしばらく前にエピジェネティクスあたりの勉強をしたことを思いだした。名をなす前の山中さんが利根川進氏の講演のときに「思い切って質問して」みるくだりが良い。

 

 

 

野矢茂樹『哲学な日々 考えさせない時代に抗して』(kindle版、講談社)

野矢茂樹といえば、この人が訳したウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)や、『「論理哲学論考』を読む』(ちくま)を買ったのだけど(そしてそのまま読んでいないのだけど)、わりとムズカシイ本格派の哲学者という印象だった。『哲学の謎』を読んだような気もするけど、記録が残っていない……。

ところが、塾講師として国語を教えている友人から、この人の文章は中学入試だかによく出るという話を聞き、「え、あの人がそんな子どもに読めるような文章を書くのか?」と意外に思い、教えてもらったのがこの本。

確かにとても柔らかい感じで書いていて、省略の使い方がうまいのか、文章にリズムがある(印象としてはちょっと伊藤礼さんの文章に似ているかもしれない)。とはいえ内容はけっこうしっかりしていて、哲学者は何をやっているのか、ということも良く伝わってくる。

そうか、文系理系という分け方ではなく現実系妄想系という分け方はどうかという提案は、そういえばこの人だったか。

本書のなかに、論理的な話をするうえでの接続詞の大切さという、まぁ当たり前のことを改めて書いている一篇があるのだけど、それを読んでいて、ふと思い至った。安倍首相が「いわば」「いわゆる」を多用するのは、その頻度の高さからして、このへんの言葉を接続詞と勘違いして使っているのではないか。そしてもちろん、これらは接続詞ではないので、挿入しても、論理どころか何の意味もなしてはいない……。

 

 

 

バルザック『サラジーヌ 他3篇』(芳川泰久訳、岩波文庫)

いろいろご縁がある作品だが未読だったので、文庫に入っているのに気づいて、読んでみた。

う~ん、翻訳がよろしくない。学生に下請けでやらせたのか、という感じ。したがって、作品の魅力を味わうという気分に至らなかったのは残念。三つめの「ピエール・グラス-」だけはちょっと面白かったが。

こういうのを読むと、仕事を頑張らないとなぁという励みになる(笑)

 

 

新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(Kindle版、東洋経済新報社)

これは率直に言って期待外れ。

AIに関する論考で、知性(あるいは知能)=人間の知性ということを無反省に前提してしまっているものは、たいていつまらないように思う。

つまり、AIを研究するなかで「では、そもそも知性とは何なのか」と問い続けているかどうか、ということ。その観点がない論考は、この本の言葉を借りれば、AIについて語っているのではなく、AI技術について語っているにすぎない。著者は「真のAIはまだ存在していない、AI技術があるだけだ」と言うが、それは結局のところ、著者に語れるのはAI技術だけだと白状しているように読めてしまう。

後半は「教科書が読めない子どもたち」に関する調査・考察がメイン。読解力スキル検査というツールを開発して問題を可視化したのは大きな功績だし、どんどん発展させていくべきだと思うけど、どの教科であれ「教科書を読んで理解できるような言語能力」がすべての基礎であるという結論は、個人的には30年くらい前にはすでに実感していたことなので、あまり新鮮味はないなぁ。