月別アーカイブ: 2019年1月

ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題~頭足類から考える意識の起源』(みすず書房)

タコやイカなど「頭足類」に分類される生物が、無脊椎動物であることや身体のサイズを考えると異様とも言えるほど発達した神経系を持っており、好奇心や遊戯、個体識別なども含めて、高いレベルの、ただし人間などの哺乳類とはずいぶん違うタイプの知能を備えている、という興味深い事実を中心に、主として進化という観点から「知能・知性はどのように生まれるのか」を考えていく本。

頭足類の生態については未解明の点も多いので、この本だけで何かの結論が出ているという種類の本ではないのだが、それでも非常に面白い。哲学というより生物学の比重が高いけど、たとえばAIについて考えるうえでも示唆に富んでいるように思う。何より、思わず人に話したくなるようなネタの宝庫。

翻訳も、ところどころ気になる部分はあったものの「まぁこう訳さざるをえないか」と思う程度で、全体としては読みやすくレベルは高い。訳者あとがきが、ウェルズ『宇宙戦争』に登場する火星人がタコ型だったことから語り起こしているのも面白い。

図書館で借りたけど、これは買ってもいいかも。

 

松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか:情報化社会における「知」と「生命」』(新潮選書)

「人工知能が人間の知能を越えることはあるのか」的な問いに、どちらかといえば懐疑的な方向で答えを出そうとしている本。

が、あまり納得できない。

人工知能を語るうえでは人間の(あるいは生物の)知能を深く理解することが重要である、というのは確かにそのとおりなのかもしれない。

しかし、よく言われるように「空を飛ぶために鳥を真似する必要はない」(あるいは「速く走るために四つ脚になる必要はない」でもいい)という点については本書でもしっかり言及しているにもかかわらず、なぜか著者は知能について語る際には「人間の(あるいは生物の)」知能に最後までこだわり続けるのだ。すると、人間の知能を越えるような人工知能は、少なくとも近い将来には実現しない、という結論になる。

でもこれは論の立て方としておかしい。「知能(あるいは知性)とは何か」という問いの答えが自明とされてしまっている(つまり、人間の知性のようなものが知性である)。確かに(今のところ)身体を持たない人工知能が、人間やそれ以外の生物と同じように世界を経験・認識することはできないかもしれない(人工知能は椅子に座れない)。でもそれは「認識している世界が違う」というだけの話であって、知能の優劣の問題ではない。

より根源的に考えるならば、「人間の(あるいは生物の)知性とは大きく異なる知性はありうるか。ありうるとすれば、それを人間が生み出す可能性はあるか。それが人間の知性を『越える』とすれば、何をもって『越えた』と見なすのか」という問いになるのではないか。

(というわけで、次、あるいは次の次に読むのは『タコの心身問題』の予定)

 

呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)

「仮に……黒幕がいたとしても、その事実は後世に何の影響も与えない。……単独犯行か共犯者がいるのかといった議論は、謎解きとしては面白いかもしれないが、学問的にはあまり意味がない」

「しかしながら、人々が日本史の陰謀に心を惹かれている以上、学界の人間も研究対象として正面から取り上げる必要があるのではないだろうか」

「悪貨が良貨を駆逐するというか、自称『歴史研究家』が妄想を綴ったものが大半を占めていることも、また事実である。それらの愚劣な本を読んで『歴史の真実』を知ったと勘違いしてしまう読者が生まれてしまうのは、憂慮すべき事態である」(以上、本書「まえがき」より)

「イデオロギー対立と直接関係のない中世の陰謀を題材に陰謀論のパターンを論じれば、人びとが陰謀論への耐性をつける一助になるのではないか」(本書「あとがき」より)

……という動機のもとに書かれた、日本中世のさまざまな「陰謀」について諸説を検証する本。扱われているのは保元・平治の乱、源平合戦と頼朝・義経の対立、北条執権政治の成立に至る鎌倉幕府の混乱、足利尊氏を軸とした建武の新政~室町幕府の成立、応仁の乱、本能寺の変、関ヶ原の合戦、といったところ。

中学・高校の時期に日本史は履修したし、それ以前に子ども向けの軍記物などはそれなりに読んでいたけど、それでも「そういえばそんな事件もあったなぁ」くらいの知識・記憶に留まっているエピソードも多いので、勉強になる。

……正直なところ、退屈に感じる部分もけっこうある。が、結局のところ、地道な歴史研究というのは傍から見ればそういうものなのだろうし、だからこそ、いわゆる「陰謀論」は知的負荷が低く、一般受けするのだろう。実は本書でも「こういう説もあるが」と紹介されている陰謀論の部分が読みやすく面白かったりするのだが(笑)、それ以上に「これは陰謀論にありがちな……という思考パターン」という指摘の痛快さが優る。

だいぶ前に読んだ秦郁彦『陰謀史観』とも共通する要素があるが、むろん同書への言及もあるし、参考文献としてきちんと明示されている。

「自称『歴史研究家』が妄想を綴った」「愚劣な本」がよく売れる時代だからこそ、読まれるべき本だと思う。

 

プルースト『失われた時を求めて(13)』(吉川一義・訳、岩波文庫)

完結まであと2巻というこの段階に来て、う~む、やはりこれは凄い作品だと思えるようになってきた。

時間論・存在論という意味で、先日読んだフッサールの哲学に関する本あたりと共鳴しあう感じ(実際、さらにその前に読んだ『時間とはなんだろう』には確かこの作品への言及もあった)。

そういう非常に扱いにくいテーマを、難解な概念とか七面倒くさい論理展開を使わずに、小説の主人公による経験という文学/芸術表現で一挙に実感してしまおう……というより、それこそが文学/芸術なのである、というのが作者の立場なのだろう。

で、本巻のクライマックスでは、そういう主人公(本来、作家志望である)の悟りが縷々語られ、読者にとっては、ここに至るまでが長かっただけに、非常に感動的。

……とはいえ、ここまで延々と読んでこないと「これ」に到達できないというのは、普通の読者にとっては辛いよなぁ、とも思う(笑)

うむ、この悟りから出発して、できればその精髄を表現するような文庫本1冊くらいの中編を書いてくれれば世のため人のためになったのに、と思ってしまうのだが、現実がそれを許さなかったのが残念。

とはいえ、本来「長い小説」を好む傾向がある私としては、この巻でも、大長編の終盤ならではの魅力(たとえば「ああ、あの人がこうなってしまったのか」みたいな感慨)もたっぷり味わえたのであった。

残すは1巻。訳者あとがきによれば、この夏の刊行をめざすとのこと。そして、恐ろしいことに、もう一度最初から読み返したい誘惑に囚われている…。その意味でも、やっぱり名作なんだな。

 

川端裕人『クジラを捕って、考えた』(徳間文庫)

日本のIWC脱退という「呆れて物も言えない」レベルのニュースに接するなかで、捕鯨といえば、この本が家にあるのに読んでいなかったなと思い出し、迂遠なようだが引っ張り出してみた。

1992~93年の調査捕鯨に著者が同行取材したルポルタージュ。

読み始めてすぐ、四半世紀前に「新人」としてこの調査に参加した調査員・船団員の青年たちは、いまどうしているのだろう、ということに思いを馳せる。もう40代半ばを越えているわけだが……。などと考えながら読み進めると、本書終盤で「10年後、20年後はどうしているのだろうね」と語り合う場面が出てきて感慨深い。これについては、「あとがき(調査から数年後)」「文庫版あとがき(調査から10年以上経過)」でも触れられているのだが、これから読むかも知れない人のために、その中身は伏せておこう。

さて、一読しての感想は、「頭のいい人だなぁ」という印象。

とにかく「現場」を見ることから始める著者は、そのうえで、「現場」の人々に感情移入してしまう傾向が強いようだ。

したがって捕鯨についても、最終的には「どういう理屈なら今のような(調査)捕鯨を維持できるのか」という点に収束する。基本的には著者も、現代的な都市生活者として捕鯨反対派の主張(環境保護、動物の権利という二本柱)にきわめて近いメンタリティを持っており、日本政府や水産業界に対する批判は辛らつなのだけど、「現場」を見る(見てしまった)ことで、鯨を捕る人たちの立場という観点を導入していくことになる。

調査捕鯨(著者は新たに「環境捕鯨」という言葉を導入するが)を維持するために著者が編み出した理屈は、なるほどと思わせるだけのものはあり、恐らくこの線で日本(などの捕鯨国)が押していけば、少なくとも調査捕鯨の維持は可能だったのではとも思うが、たぶん日本政府には(現政権に限らず)そのような才覚はなかったのだろう。

ただ、こういう頭の良さには危うい部分もあって、たとえば著者が犯罪組織やテロ組織に密着して取材したならば、そうした活動を部分的にでも正当化するような理屈を編み出してしまえるのではないか、という感もある。著者ほどではないが、自分自身にもそのような危うさを感じることはあって(たとえば私が原発容認に転じたらけっこうヤバいと思う)、以前「転向」に関する本を読んでみたりしたのも、そういう危うさへの意識によるものだ。

その意味で、「現場」を見て考えるという著者のスタンスは、どちらの立場でもそれなりの理屈をひねり出してしまう優秀さ/危うさを、「現場」のリアリティで担保するという意味を持っているのかもしれない。

【追記】もう一点、科学的/非科学的という評価軸について、科学的ではない=正しくない、ということではないということを指摘しているのは、科学史・科学哲学専攻という出自ゆえなのかな、と感心した。

 

横山秀夫『第三の時効』(集英社文庫)

2019年、最初に読了したのはこの本になった。

いくつかの作品はタイトルだけ知っていたのだが、この著者は未読。大学時代の友人がロングインタビューしていたのを読み、興味を惹かれた。その友人は「入り口としては『第三の時効』かなぁ」と言うので、図書館で借りて、読む。

さすがに読ませる。種も仕掛けも面白いし、キャラクターの描き分けも秀逸。

ただ、警察小説というジャンルが好きかと問われると、そうとも言いがたいものがあるので、他作品を読むかどうかは迷いどころである。

ロバート・A・ハインライン『地球の緑の丘』(矢野徹・訳、ハヤカワ文庫SF)

2018年最後の1冊はこれ。

先に読んだ『猫SF傑作選 猫は宇宙で丸くなる』の「あとがき」で、収録したかったけど果たせなかった作品として紹介されていたもののうち、興味を惹かれた『宇宙での試練』が収録されているので、読んでみた。

『猫は宇宙で…』の感想にも書いたことだが、「猫が猫のままでありながら重要な役割を演じる」というのが猫好きにとっては大事なポイントであって、その意味で、ハインラインは正統派の猫SF作家なのだということを再確認した。

他の作品も悪くない(←おざなり)。月並みな表現だが「詩情溢れる」SF作品がいくつもある。ハインラインの時代、1つの死のパターンとして「放射線を浴びて死ぬ」(本書の訳文では「放射能」になっているが)というのが有力だったのだなぁというところにある種の感慨を覚える。