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プルースト『失われた時を求めて(14)』(吉川一義訳、岩波文庫)

というわけで、完読。

読み始めたのが2015年11月末くらいなので、4年間。2018年1月にこの新訳の刊行に追いついて、その後は続刊が出るたびに買って読む、という感じ。

この読書記録用ブログ「冬の日の図書室」では「プルースト」というタグを作り、関連書も含めてまとめてあるのだが(→URL)、順に追っていくと、だんだん感想の量が増えていく様子が分かる。つまり、それだけ作品の世界にハマっていっている、ということ。だいたい8巻くらいから、「もう一度最初から読み返す」という考えがちらちら浮かんできているようだ。そして恐ろしいことに、というか予想通りというべきか、私はこの最終巻を読んで、「遠くない将来に、必ずもう一度読み返そう」と決意しているのである(笑)

この作品を読めば、人生は確実に変わる(恐らく&願わくば、少し有意義な方向に)。その意味で、名作であることに疑いはない。しかしもちろん、それだけの時間を費やすべきかどうかは、まぁ人によって違うとは思うのだけど。

この巻は、最終章「見いだされた時」の後半とあって、前巻をさらに発展させた感じで、「老い」というテーマが圧倒的な中心。「死」の影もけっこう重要。ところが最後の最後に出てくる比喩が、滑稽とまでは言わないが、なんとなく可笑しみがあって、ひょっとするとここには人生の喜劇的な悲しさが現れているのかもしれないが、しかし訳注で紹介されている図版に、またちょっと微笑を誘われてしまうのだ…。

 

 

 

プルースト『失われた時を求めて(13)』(吉川一義・訳、岩波文庫)

完結まであと2巻というこの段階に来て、う~む、やはりこれは凄い作品だと思えるようになってきた。

時間論・存在論という意味で、先日読んだフッサールの哲学に関する本あたりと共鳴しあう感じ(実際、さらにその前に読んだ『時間とはなんだろう』には確かこの作品への言及もあった)。

そういう非常に扱いにくいテーマを、難解な概念とか七面倒くさい論理展開を使わずに、小説の主人公による経験という文学/芸術表現で一挙に実感してしまおう……というより、それこそが文学/芸術なのである、というのが作者の立場なのだろう。

で、本巻のクライマックスでは、そういう主人公(本来、作家志望である)の悟りが縷々語られ、読者にとっては、ここに至るまでが長かっただけに、非常に感動的。

……とはいえ、ここまで延々と読んでこないと「これ」に到達できないというのは、普通の読者にとっては辛いよなぁ、とも思う(笑)

うむ、この悟りから出発して、できればその精髄を表現するような文庫本1冊くらいの中編を書いてくれれば世のため人のためになったのに、と思ってしまうのだが、現実がそれを許さなかったのが残念。

とはいえ、本来「長い小説」を好む傾向がある私としては、この巻でも、大長編の終盤ならではの魅力(たとえば「ああ、あの人がこうなってしまったのか」みたいな感慨)もたっぷり味わえたのであった。

残すは1巻。訳者あとがきによれば、この夏の刊行をめざすとのこと。そして、恐ろしいことに、もう一度最初から読み返したい誘惑に囚われている…。その意味でも、やっぱり名作なんだな。

 

鈴木道彦『プルーストを読む-『失われた時を求めて』の世界』(集英社新書)

岩波文庫の新訳は14巻完結予定で、すでに刊行された12巻まで読み、ラストもだいたい噂(?)には聞いているので、そろそろネタバレを恐れる必要もあるまいと思い、次の13巻が出るまでの繋ぎとして、これを読んでみた。

それでも、「え、あの人そうなっちゃうの?」というネタバレがいくつかあった……まぁそもそもストーリー展開にワクワクしながら読むというような小説でもないのだし、そもそも本書自体が、『失時求』に恐れをなして二の足を踏んでいる人のためのガイドブックを意図している部分もあると思うのだが、そうしたガイド無しで読み進めてきた身としては、ちょっと早まったかなという感じ。

とはいえ、『失時求』のどういうところを楽しめばいいかを的確にまとめているという点ではよくできた本。むしろ、作品自体を読む気はないけど、どんな作品なのかは知っておきたい、という人にお勧めしたい。

その一方で、これを読んだことで、また作品そのものを最初から読み返したい気になってしまったのも事実。危険である。

 

 

プルースト『失われた時を求めて(12)』(吉川一義訳、岩波文庫)

新訳の最新巻が出るのを待ちかねて書店に予約し、5月に買ったのだけど、ようやく読む(笑)

恋や記憶や忘却を中心に、人間の心理の精細な地図を狭く深く突き詰めようとしているという印象。だからたとえば愛する人を失ったときにこの作品を思い起こすと、これから自分の心はこんなふうな過程をたどっていくのだろうなぁという、ちょっと引いた視点からの見取り図が得られて、少し辛さが緩和されるのではないかという気がする。まぁこの作品に限らず、小説を読むことの効果(良かれ悪しかれ)の大きな部分はそういう想像力が養われることなのだろうけど。

それにしても、この巻で過剰なほど綿密に描かれている心の動きだけでも、優に1つの長編小説が構築できるくらいの濃密さ(そもそもこの巻だけでも600ページあるのだから当然なのだけど)。実に的確で「さもありなん」と膝を打つ描写も多々出てくるので、優れた作品ではあるのは確かだけど、「ぜひ読むといいよ」と人に勧める気には決してなれない…。

この作品を読んでいると、そこはかとなく「無敵感」が味わえる。これを読み通しているオレに読めない小説はない、という読者としての無敵感と、「ここはもっとこうすればいいのに」という改善や「こういう部分は別のあの作品のほうが優れている」という比較の可能性を全く与えないような、唯一無二の作品としての無敵感。「いや、いくら名作だからって、こんなの書こうとする奴は他にいないよ」と言う気がする。

残りはあと2巻。早く続きが読みたいのは事実。

プルースト『失われた時を求めて(11)』(吉川一義訳、岩波文庫)

2つのカップルに破局が訪れるのだけど、なんか「あ~もううざったいから別れてしまえ」と思うような関係なので、捨てられた方には同情も共感もできない……などという下世話な読み方は、たぶんこの作品の読者としてはふさわしくないのだろうけど、まぁ、これはこれでありかもしれない。

引き続き、随所に心打たれる部分はあるから、嫌いではないのだけど、決して他の人に勧めはしない(笑)

まぁこの巻は576頁あるけど1週間はかからなかったから、この作品だけに本腰を入れれば、まぁそれなりのペースでは読めるってことだな。

さて、まだ完結していない新訳、ようやくのことで先頭まで追いついてしまった。次の巻は1年待ってほしいとこの巻の訳者あとがきにあるから、順当に行けば5月。完結している既訳版のどれかで続きを読んでしまうという手もあるけど……。

そうか、続刊が出るまでのあいだに1巻から読み返せばいいのか!(やらない)

 

 

 

 

プルースト『失われた時を求めて(10)』(吉川一義訳、岩波文庫)

512ページの大半が、室内に引きこもって嫉妬を中心とする感情を持て余している主人公の独白。いいから仕事しろよ(と親にも言われている設定になっているようだが)。

最終的に自分がどのような読後感に着地するのか、まだ予想がつかないのだけど「読む必要のない名作」という言葉がチラチラと浮かんでくる(笑)

何だか、すでに刊行されている分は一気に読んでしまおうという気分になっていて、このまま11巻に突入(14巻で完結予定、12巻は5月の刊行をめざすと11巻のあとがきに書いてある)。

 

プルースト『失われた時を求めて(9)』(吉川一義訳、岩波文庫)

間を置きつつ、まだ読み続けている。半年くらい放り出していても、何となく「挫折した」感がなくて、また再開してしまう。読み進むにつれ、「ああ、これ最初から読み返したいなぁ」という思いが募ってくるのだけど(つまりけっこう嫌いではない)、たぶん刑務所にでも入らない限り、そんな暇はないのだろうな。

 

吉川一義『失われた時を求めて(8)』(岩波文庫)

挫折したと思われていても挫折していない。

読み進めるにつれ、「これ、もう一回最初から読み返さないと」という気がしてくる。しかし他にも読みたいものはたくさんあるし、そんな暇はないよなぁ……。

この吉川訳はまだ完結していないのだけど、5月に11巻が出たらしい(14巻で完結予定)。なかなか追いつけない。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて(7)』(吉川一義訳、岩波文庫)

フランス語教室(休会中)の仲間(たぶん少し年上の女性)が大学の卒論だかをプルーストで書いたということで、爾来、この作品を繰り返し読み、昨今で言う「聖地巡礼」も重ねているそうなのだけど、確かに、読み返せばまた全然違う印象があるのだろうな、という気がしてきた。まぁ他にも読みたい本はたくさんあるし、そんな暇はとてもないのだろうけど。

マルセル・プルースト『失われた時を求めて(6)』(吉川一義訳、岩波文庫)

昨年5月以来中断していたのだけど、突然、復帰。

7ヶ月も中断していたとは思えないくらい、すんなりとこの世界に戻れた。要するに、そこまでの流れを思い出さないといけないとか、登場人物を思い出さなければならないというほどのダイナミックなストーリーはないのだ(笑)

というわけで、この巻は一気に読了。やはり、なかなか悪くない。