月別アーカイブ: 2020年2月

池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』(トランスビュー)

たぶんちょうど14歳の頃に「哲学」という考え方に魅了されて、途中で少し迷う過程はあったものの、結局、大学でも哲学専攻課程を選択した。あまり勉強しない不良学生だった(芝居ばっかりやっていた)こともあって、もちろん大学院に進むことはなかったし、当然ながらその後も、哲学とはほとんどまったく縁の無い仕事に就いている(というか、哲学に直接ご縁のある仕事なんて世の中にほとんどない)。

けれども、そういう形で哲学をかじったことは自分にとってすごく良かったと思っているし、今もいわばアマチュアとして楽しんでいる。あまりそういう言葉で評価されることのない学問分野だけど、「役に立っている」とさえ思っている。

そんなわけで、他人にも「哲学いいよぉ、面白いよぉ」とお勧めすることはためらわないのだけど、では何か手始めに読む本を紹介してくれ、と言われると、これがなかなか難しい。

私自身は上述のように中学生の頃、澤瀉久敬『「自分で考える」ということ』という優れた講演集に出会ったのだけど、残念ながら、とうの昔に絶版になっている。今も入手しやすい適当な本は何かないか、と思って読んでみたのが、この本。

う~ん、残念ながら、哲学への入口としては、あまりお勧めしない。

第一印象としては、中学生くらいの子どもに語りかけるという点を意識しすぎたのか、あまりにも饒舌である。「…なんだ」「…だよね」みたいな語尾が頻出していて、さすがに文章として読むにはクドい。そのわりに、「…するところの○○」といった一昔前の(刊行は21世紀に入ってからの本なのだが))表現も多用されていて、ちょっと辛い。

そして哲学への入口という意味でお勧めしない最大の理由は、本書は著者・池田晶子の考える哲学が「答え」として押しつけられてしまっているように見えるという点だ。オープンな問いではなく、ゴールになってしまっていて、その先がない。

池田晶子の提示する哲学自体はとても優れたものだと思うし、これを読んで「救われる」中学生がけっこうな数いたとしても不思議はない。その意味で悪い本ではないし、若い人が読むべき本であるとは思うのだけど、14歳「からの」哲学というよりは、ここで終ってしまうような気がする。本書には参考文献の類がいっさい示されていないし、過去の哲学者の名前も著作の名前も一つも出てこないので、こういうものの考え方に興味を持った人が「では次にこれを読んでみよう」という流れにはならない(というか、そもそもそういう思いを抱かないかもしれない)。

というわけで、「哲学ってどんなものかな」と思う人には、本書はお勧めしない。

望月昭秀『縄文人に相談だ』(縄文ZINE Books)

友人が読んでいるとのことで気になった。何しろゴールデンウィークや夏休みを過ごすことの多い茅野市は「縄文のヴィーナス」に象徴される縄文文化の聖地(?)なので、縄文と言われるとつい反応してしまう。

現代人のさまざまな悩みに、縄文人(になりきった著者)が回答するという作りなのだけど、寄せられる悩みも本格的なものはそれほど多くなく、回答もバカバカしいと言えばバカバカしい。

では、読む意味のないくだらない本なのかというと、そう捨てたものではなくて(まぁくだらない本かもしれないが・笑)、『僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう』のなかで羽生善治が言っているように、大事なのは「様々な種類の物差しを持つ」、つまり複数の評価軸を持っておくことなのだ。

その意味で、この本はふざけた調子で書かれてはいるけど、現代とはかけ離れた価値観で悩みを見直してみるというアプローチ自体はきわめてまともだし、ときには有効である場合もありそうに思える。そもそも、読書をする意味の一つは、自分とはかけ離れた価値観を知ることなのだしね。

星野道夫『旅をする木』(文春文庫)

先月、京都の古書店で購入。

美しい本。

「I」に収録された9編は、「今、……を旅しています」みたいな書き出しで始まる、まるで誰かに送った少し長めの書簡のような体裁。これは誰かに宛てた手紙なのか、それとも雑誌の連載か何かで読者に語りかけているという形なのか。巻末で初出を確認しようという誘惑に駆られるが、ふと「自分宛てに書かれた手紙だと思えばいい」と思い至り、そのように読めば、ひときわ味わい深い感じ。

「II」以下は通常の文体で書かれたエッセイなのだが、いずれも噛みしめて味わうに値する文章。もちろん若いうちにこれを読んでいれば(アラスカを訪れるかどうかはさておき)影響される点も多々あったかもしれないが、今さら夢を追うでもない年齢で読んでも、何とはなしに得るものの多い本だと思う。

しかし、著者が体験したようなアラスカの自然がこれからも残っていくのかというと、恐らくそれはかなり難しいのだろうな…。

解説は著者と親交あった池澤夏樹。彼は小説家で、エッセイの類いも多いが、文章は星野道夫の方がいいのではないか…。

 

 

ホメロス『イリアス(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

怒濤の勢いで読了。

以下、やくたいもない感想を並べる。ネタバレもあるけど、これだけ有名な作品なんだからいいよね。

(1)すべては神々が悪い。読みながら、「あ~、もうよけいなことするな~!」と叫びたくなることがしばしば。古代ギリシャの人々というのは、ある種の無常観というか、諦念を帯びた世界観を持っていたのではないだろうか。バカどもが偉そうな顔をして操っている世界なんだから、我々の運命が不条理でもしかたがないよ、みたいな。まぁ実際、ままならない自然現象に翻弄される程度も今よりはるかに大きかった時代なのだから、そういう世界観になるのが普通か。

(2)愛と美の女神アフロディテが戦いにおいて弱いのは無理もない。しかし軍神アレス弱すぎ。神格の低さゆえなのか。

(3)上巻でも感じたのだけど、比喩が面白い。特に、「いっかな退かぬ(ひかぬ)強かさ(したたかさ)」の比喩として、「蚊の如き」という比喩が使われている箇所があって思わず笑ってしまった。「人間の肌からいかに逐い払われようとも、人の血は何よりの美味、しつこく咬みついてやむことを知らぬ。女神がその蚊のような強かさを彼の胸中に漲らせれば…」(下巻p183~184) 古代ギリシャ人もしつこい蚊には現代人以上に悩まされていたのだろうな。それにしてもメネラオスの奮戦ぶりに使う比喩かね…。

(4)アキレウスは、強いと言えば強いが、およそ誉められた人物ではない。まぁこういう例はよくあって、たとえば『三銃士』に始まり『鉄仮面』に終わる『ダルタニャン物語』の主人公たち(つまりダルタニャン&三銃士)も、かなりろくでなしである。

(5)この作品の中ではアキレウスは死なないし、トロイの木馬も出てこない。したがって、トロイエ(トロイア)は滅亡しない。ちょっと驚いた。ちなみに戦争のキッカケになった、いわゆる「パリスの審判」の場面はないし、ちらっと地味に言及されているだけ。このあたりの状況は、岩波少年文庫の『ホメーロスのイーリアス物語』では描写されていたように思う。そういう背景知識があるから、この岩波文庫版をすらすらと読めたのだが、いきなりこれはキツいかもしれない。

(6)訳はかなり良いと思う。どうせ文字で黙読するのだから、この現代語訳で元の韻文が散文になってしまっているのは文句を言うべきところではない。抑制の効いた訳注もよい。

 

ホメロス『イリアス(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

先日読んだ『啓蒙の弁証法』が刺激になって、よし『オデュッセイア』を読もうと思ったのだが、それにはまずこれを読んでおかないと、と『イリアス』を購入。

いや~面白い。たぶん小学校高学年くらいで子ども向けの『ホメーロスのイーリアス物語』を読んでいたので、だいたいの展開は覚えているというのが大きいのだが、約450ページを2日と少しで読了。

『啓蒙の弁証法』で延々と『オデュッセイア』について論じられていたように、おそらくこの『イリアス』も西洋の思想的源流として分析的(思想の考古学的)に読める要素がたくさんあるのだろうけど、結局、そういう難しい話は抜きにして、娯楽作品として楽しんでしまっている。

かなりの部分は合戦の描写だが、口承文学ゆえに決まり文句、定型表現が多い。戦いで倒された者について「身に着けた物の具(武具)がカラカラと鳴った」「闇が〇〇の目を覆った」「四肢は萎えた」などが頻出する。日本でいえば「枕詞」の類も多い。「脛当て良きアカイア勢」とか「馬馴らすトロイエ勢」の類。こういうのをクドいと感じるか、そこにリズムを見出すかによって、この作品を楽しめるかどうかが分かれるかもしれない。

それにしても、この世界における神々と人間の距離の近さには改めてびっくりする。トールキンの作品世界でのマイア、エルフ、ノルドールの力関係は、これに近いものがあるのかもしれない。

そして、こういうのを読むにつけ、やはり自国の軍記物の白眉『平家物語』も原文で読んでみたいなぁという気持ちが高まってくる(もっとも下巻を読み終わったらもちろん『オデュッセイア』に進みたいし、自国の古典では『源氏物語』が一大目標ではあるのだけど)。

上述の子ども向け版の出来がけっこう良かったのか、原典(といっても翻訳だが)で読んでもそれほど違和感はない。ただ、冒頭の「凡例」で訳者が、「ホメロスの言語はイオニア方言系が主体となっているので、多くの読者には耳慣れぬ語形が少なくなかろうと思う。それらの語については、少なくとも初出の場合には、一般に知られているアッティカ方言系を括弧内に示した」と断っているように、固有名詞で戸惑うところもある。その最たる例を挙げれば「トロイア」ではなく「トロイエ」である、といった具合に。まぁそれも慣れる。

人名が、「〇〇の子」と父称で呼ばれていることも多いので、これも慣れが必要。子ども向けの方では、「アトレウスの子」はアガメムノン、「ペレウスの子」はアキレウス、「テディウスの子」はディオメデス、といった具合に初出を除けば統一を図っていたような覚えがある。

あと、子ども向けではかなり控えめにしてあったような気がするのだが、かなりスプラッタというか、えぐい表現も多い。「脳漿はすべて兜のなかに飛び散った」とか、「血塗れになった二つの眼球が足下の砂中に落ち」とか。このへんの表現については、古代のギリシャ人は人体解剖とかもよくやっていたのだろうなぁと思わせる。

ちなみに、時代はまだ青銅器時代。鉄は存在するのだが、金と並んで贈り物にカウントされるくらいの貴重品という位置づけ。そんな時代からこんな戦争をやっているのだから、人類が滅亡しなかったのが不思議である(笑)

 

稲葉振一郎『経済学という教養』(ちくま文庫)

Twitterで誰かが勧めていて気になった。新刊では入手できず、図書館で借りたが、kindle版も購入。

「素人の、素人による、素人のための経済学入門」を謳ってはいるが、読者が経済学の素人であるということを前提にしているというだけであって(※)、けっこう負荷をかけてくる本なので、とっつきやすさ、手軽さを期待しない方がいい(そもそも※の部分も若干怪しい気がする・笑)。

つまり、読み応えのある本、ということ。ネタバレになるが、「ここで労働組合に再び光が当たるのか~」というのはなかなか感動的であった(少し強引な印象もあるが)。

文庫版で追加されたという「経済成長擁護論再び」は、気候変動の影響が年々厳しく感じられているなか、さすがに楽観的すぎるだろうと思って読み進めていたのだが、ラストで、経済成長と環境負荷の低減を両立させる策として、ええ~っと思うくらいSF的な構想に至ったのでびっくり。それが希望である(きわめて楽観的ではあるが)という点にはもろ手を挙げて賛成するのだけど、ちょっと本書全体の流れからは浮いている気がする。いや、話としては面白いんだけど、相手が自然であるだけに、そこまで都合よく行くかなぁ。自由市場を前提とする資本主義が人類にとって最適の選択である、その選択を突き詰めて最適化していった結果、環境に適応できずに絶滅する、というシナリオの方が(残念ながら)現実的であるようにも思える。