先日読んだ『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』で触れられていて、興味を持った本。図書館で借りた。
唄三線も泡盛も青い海もチャンプルーも出てこない、沖縄。
これを読むと、「沖縄は日本である」という考えがいかに安易なものか分かる。
それはさておき、全般的な状況に対する憤りがある一方で、こういう記憶そのもの、そしてこういう記憶が記録されたこと自体に対して、何か愛おしさのような感情が湧いてくる。
先日読んだ『沖縄の新聞は本当に「偏向」しているのか』で触れられていて、興味を持った本。図書館で借りた。
唄三線も泡盛も青い海もチャンプルーも出てこない、沖縄。
これを読むと、「沖縄は日本である」という考えがいかに安易なものか分かる。
それはさておき、全般的な状況に対する憤りがある一方で、こういう記憶そのもの、そしてこういう記憶が記録されたこと自体に対して、何か愛おしさのような感情が湧いてくる。
つい先日も、この人の別の著書について、単に「読んだ」ことをここに記録するだけで、何の感想も記さなかった。
何の印象もなかったわけでも、理解できなかったわけでも、ない。ただ何となく、感想が書きにくい本を書く人なのである。
この本は「現代詩を読むこと」を中心的なテーマ(全体の3分の2くらいかな)にしているが、私のように現代詩を(というか、そもそも詩というものを)読む習慣がない者にとっても、とても面白く読める本である。
ふと、中学3年の頃、実際には観ても読んでもいない芸術作品に関する評論集を、背伸びして面白がって読んでいたことを思い出した(大岡信『肉眼の思想』)。当時、私が通っていたのは地域でも名うての「荒れる中学」で、授業などろくに成立していなかったので、トイレの個室に籠って読んでいたのである。
というようなことは、特にこの本には関係がない。
現代詩以外の場面(たとえばTwitterとか)における「言葉」に触れた章も、もちろん、面白い。というか、そういう章の方がとっつきやすいかもしれない。
安田浩一の本だからどうせ面白いだろう、私が納得するような結論になるのだろう、と甘く見て(?)いたのだけど、予想を超えて凄い本だった。
沖縄の新聞は本当に「偏向」している、というのが本書の結論……と書いたら誤解を招くだろうか。
何しろ、当の「沖縄の新聞」の一つ、沖縄タイムスの記者は、著者の取材に対して、
「沖縄の新聞は偏向しているのかと問われれば、偏向してますと大声で答えたいです。」(本書108頁)
と答えている。
しかし、その「偏向」は、本書のタイトルがそうなっているように、カギカッコ付きの「偏向」なのだ。その文脈において、「偏向」の反対は「公正中立」ではない。
現在の沖縄2紙に対抗して創刊された保守系の新聞の話なども興味深い(その刊行に携わった中心人物がいま何をやっているのか、は非常に印象的)。
ナチスの御用学者として知られる著者。
それほど深く読み込んだわけではないけど、なんかこう、わりとよく見る思考パターンが表われているような気がする。
どういうことかというと、ある原理(理想と言ってもいい)が、現実にはうまく適用されていないというだけの理由で、その原理を「使えない」ものとして却下してしまう、というパターン。この本のテーマで言えば、議会主義を支える精神的基盤である「公開性」と「討論」が、現代(というのはつまりワイマール共和国時代だが)の議会ではうまく実現していない、だから議会主義はもうダメなんじゃないか、みたいな考え方(乱暴なまとめ方だけど)。
「独裁」がどのようにして台頭するかみたいな部分は(もちろん独裁を正当化する気味はあるものの)面白かった。