月別アーカイブ: 2020年1月

ギャヴィン・プレイター=ピニー『「雲」の楽しみ方』(河出文庫)

仕事(原稿)を通じて知った何かに興味を惹かれて関連の本を読む、ということをやっていると、何しろ「何でもあり」の翻訳屋稼業、対象が広がりすぎて収拾がつかない(そもそもそんな暇もない)のだが、たまに、つい読んでしまうことがある。これもその一冊。

良い本。

家人の影響で、昨年、野尻抱影の『新星座巡礼』を読んだけど、あれと同じように、やわらかなエッセイ調でもあるのに情報量が多く、楽しいのに読むのが大変、消化しきれない、という類いの本。

しかし、「雲」を楽しむという趣味が、たとえば「星」「樹」「野鳥」などを観る楽しみに比べてありがたいのは、「雲」はどんなに都市化されていても、それなりに楽しむことができるし、かなり特殊なものを除けば、特定の地域でなければ観られないというものもないし、ある意味、ほぼ天候にかかわらず目にすることができる(雲一つない快晴が続けば観られないが、それはそれで気持ちのいい話である)。

ただその分、歩いているときにふと空を見上げて雲に注意を奪われる頻度も高くなるだろうから、足下には気をつけた方がいいのだが。

いきなりこの本を読むと、雲の判別の説明について行けない部分が多々あるのだけど、「こういうところに注意するのだな」ということは分かってくるので、読了後、少し雲を観察する経験を重ねてから再読すると、たぶんもっと楽しめる(この本も、雲を見ることも)のだろう。

残念ながら写真はモノクロなのだけど、フルカラーで雲の写真が見たければ、訳者後書きでも示唆されているように、著者が立ち上げた「雲を愛でる会」のウェブサイトを覗けばよいはず。

 

 

小笠英志『高次元空間を見る方法~次元が増えるとどんな不思議が起こるのか』(講談社ブルーバックス)

Amazonで見かけて気になり、図書館の新着コーナーにあったので手に取ったのだが、これは期待外れ(ちなみに私の後に予約がたくさん入っている…)。

3次元ではほどけない結び目が4次元ではほどける、というところまではよく分かる(これはたぶん誰にでも分かる)。しかし、さらにその上の次元になると、著者の説明はとたんに乱暴になる。結局「直感力を働かせて気合いで想像してください」「想像を膨らませてください」というフレーズに頼るだけ。図は多用されているのだけど、「かなり気持ちを描いたものである」「かなり、気持ち重視で、…を描いた概念図」といった感じで、およそ参考にならない。

(もちろんこれは、著者が書いていることが間違っているとか無意味であるということではない。また、序盤の部分であまりにも重複が多く冗舌なのは編集者の責任だろう。)

どうしてこのようなことになってしまうのか、と考えると…。

著者は冒頭に近い部分で、「無定義語については語らない」旨を宣言している。そこで挙げられている無定義語の例は、「点」「直線」「2」「交わる」「大きさ」「位置」「もの」。その後のコラムで挙げられている「時間」も同じ。

そして、

定義が無い言葉があるのに、他人とそれらの言葉を使って意思疎通ができるのは、どうしてだろうか、と不思議に思う人もいるかもしれませんが、そういうことは数学や理論物理では考えません。真面目に数学や理論物理を研究している人達は、そんなことを考えるのは空虚なことだと思っています。そんなことよりも、たとえば、この本で紹介するような高次元の図形の形や動きについて考える方がずっと意味のあることです。(本書p18)

と言う。その後のコラム「時間について」でも、「『時間とはなにか?』というのは考える意義のない問いです」と断じている。

(「真面目に…理論物理を研究している人達」のなかにも、もちろん「そんなこと」を真剣に考えている人はいくらもいるので、その点においても見識が狭いようだけど、それはさておき。)

これは結局のところ、自分の学識の依って立つ根拠を問い直す姿勢がない、ということであって、端的に言えば非知性的である。念のため、頭がいいことと知性的であることは別ものであり、研究者としての能力とも(恐らくあまり)関係がない。知性がどうしても必要になるのは、まずもって「越境する」ときなのだ。

「自分の説明を読者は分かってくれるのだろうか」という疑問、突き詰めれば「自分の言葉は通じないかもしれない」という恐怖を(無意識にせよ)抱いていない人が書くものというのは、多かれ少なかれ(この本では「多かれ」)独善的である。

これもまた、高度で難解ではあっても素朴(ナイーブ)である一例かもしれない。

その点、『眠れなくなる宇宙の話』シリーズの佐藤勝彦や、先日読んだ森田邦久、それから『素粒子論はなぜわかりにくいのか』の吉田伸夫といった著者は、書き手として優れている。『フェルマーの最終定理』のサイモン・シンも良い。「自分の言葉は通じないかもしれない、だが…」というところから出発しているように見えるからだ。

そういえば、図やイラストを多用して「想像」させるという意味では、だいぶ前に読んだニュートンムックの『次元とは何か』はなかなか優れていたように思う。

 

 

 

 

岡田暁生『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』(中公新書)

年末に『メサイア』を聴いていて、こんな本を読みたくなった。

最初に「俗に『クラシック』と呼ばれている芸術音楽」を、「楽譜として残された知的エリート階級の音楽」と定義し、以下その歴史を、中世~ルネサンス~バロック~ウィーン古典派~ロマン派~世紀末~二〇世紀と、その折々の政治的な情勢と絡めつつ、通史的に検証していくという作り。

けっこう著者の主観が入っている(著者自身、そのように書くと宣言もしている)ので、特定の音楽家に思い入れのある人が読むとけっこう反発を感じる部分もあるのかもしれないが、私としては、馴染みのない作曲家や時代はあっても、特に偏愛する対象はないので、その点は問題なかった。もちろん、そういう馴染みのない作曲家の作品を聴いてみようという動機は十分に与えられる。

子どもの頃に少しピアノを習っていた身としては、ハノンやツェルニーが「西洋音楽史」のなかに確固たる意味を持つ存在として位置付けられているのが興味深い。

図書館で借りたのだけど、いずれ再読したいので電子書籍で買うかも。

 

森田邦久『量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』(講談社現代新書)

2019年最後に読み終わったのはこの本ということになった。

かなり読み進むまでは、今ひとつ哲学的な探求(反省)が感じられず、「いや、だからある物理量が実在するかしないかって、実在、存在の意味を問わなきゃ哲学とは言えないでしょ」などと文句を言っていたのだけど、終盤に差し掛かるにつれて、ああ、この著者はなるべく哲学的なタームを使わずに哲学的な内容に触れようとしているのかだなぁということが感じられるようになった。「未来が現在に影響を及ぼす」論に関して(いかにもスピリチュアル系の人が「量子力学で証明されています」みたいな形で持ち出しそうな話だけど、これはもっと真面目な文脈である、もちろん・笑)、因果関係が時系列に拘束されるというのは人間の思考の枠組みがそうなっているというだけであって(表現はこのとおりではなかったと思うけど)……というあたりは、まさに「哲学」の本領発揮という感じ。

面白い本だった。

結局、物理学もこの段階に至るとメタ物理学(metaphysics)を論じることなしには、自然科学の素朴性という限界を超えられないのだろうなぁ、という印象。結局、いくら高度で難解であっても、素朴なものは素朴なままなのだ。