月別アーカイブ: 2019年3月

磯田道史『天災から日本史を読み直す 先人に学ぶ防災』(中公新書、kindle版)

歴史研究者の視点から、過去の天災(本書で扱われているのは地震、津波、台風による高潮)の記録に当たって、現代への教訓を読み取ったり、歴史の流れに与えた影響を分析する、という本。

文化的な要因が被害のありかたに影響したという分析がなかなか興味深い(瓦屋根が普及し、その重さに構造的な強度が追いつかずに建物の倒壊に至るとか、親孝行の道徳ゆえに老親を助けるため子どもを見捨ててしまうとか)。また、秀吉が家康を討伐しようとしていたところ、地震の被害のために戦争準備が阻害されて家康は命拾いしたとか、幕末の佐賀藩で高潮被害を防げず大きな被害を出したことで世代交代を強いられて改革が進んだとか、そういう話も良い。

ただ、そういう「日本史を読み直す」という表題にふさわしい部分をもっと語ってほしいし、災害が歴史の流れに与えた影響をもう少し巨視的にパターン化するようなアプローチも欲しかった気がする。

元は新聞(別刷り?)での連載だったものをまとめたようで、腰の入った一貫性のある著作というよりは、気軽に読める歴史コラム集のような体裁なので、そこまで期待するのは筋違いか。

とはいえ、章によって差があるのだけど、「妻が『朝ごはんぐらい食べていって』というのを振り切り、家を飛び出した」とか「私は、妻に手渡されたリンゴ一切れを口にくわえたまま浜松駅バスターミナル八番乗り場に急いだ」みたいな記述は、書籍にするときは整理してもよかったのではないかなぁという気がしてならない。

Amazonに掲載された書影を見ると、帯に「日本エッセイスト・クラブ賞受賞!」とあるが、エッセイとして読むのであれば、他にも魅力的なものはけっこうありそうに思うのだが……。

 

與那覇潤『知性は死なない-平成の鬱をこえて』(文藝春秋、kindle版)

ううむ、高い評価も聞いていたのだけど、これは期待外れと言うしかない。

うつ病、あるいは躁うつ病(双極性障害)に関する部分についてはなるほどと思わせる部分は多々あったが、それ以外の(というか肝心の?)、知性/反知性主義に関する部分はあまりにも乱暴という印象。そうやって乱暴な二項対立を設定しておいて、結論としてその二項対立を克服するような論法になっているので、「そもそもの設定に無理があったのでは」という印象が拭えない。

まぁそういうドラマはあちこちにありそうだが……。

が、いずれにせよ本書で言及されている何冊かの本は読んでおこうという気になったのは事実で、収穫はそれくらいかな……。

 

苅部直『「維新革命」への道:「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書)

先日『夜明け前』を読んだのを機に、ふと国学方面について書かれたものも読んでみようかなぁと思っていたところ、旧知の著者のこの本が目についたので読んでみた。

まるで橋下徹が著者でもおかしくないようなタイトルだが、そうではなく、これは真面目な本(第一章では「日本維新の会」の名称をマクラとして使っているが)。

ペリー来航を機に当時の日本が「文明」に初めて出会い、それまでとはまったく違う新しい社会へと変わっていったという通俗な維新観に疑問を呈し、明治維新を「含む」十九世紀という時期のなかで、すでに市場の発達や「経済」の前景化、それこそ本居宣長に代表される国学のなかでさえ、進歩史観の萌芽や「文明」観の変化が進んでいたことを説き明かす本。

幕末・明治維新について世に語られる個々のエピソードにはさまざまにドラマチックなものがあるのだけど、そういう派手な浮き沈みに目を奪われることなく観察すれば、結局のところ、伏在しているこの種の底流が歴史を動かしているのだろうなぁ、としみじみ思う。

これを読んで『夜明け前』の主人公に思いを馳せると、街道・宿場町の主たる担い手として、そうした勢いを感じうる立場にあった、それなのに…ということが、いっそうその悲劇を際立たせる気がする。主人公を親しく遇する江戸の庶民一家がそれなりに時代に適応していっている様子を見ると、やはり都市住民ではないという点が影響したのかなぁ…。

次に読み始めた本にどうにも「軽さ」を感じてしかたがないので、この著者の、狙いは鋭くとも鉈の切れ味とでもいうべき「重さ」に好印象を受ける。とはいえ、そもそも雑誌連載がベースであり、あくまでも一般向けということで読みやすくはあるのだけど。

 

野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室』(中公新書)

たぶんAmazonのお勧めに引っかかったのだと思う。

野矢氏についてはウィトゲンシュタイン関係の訳書や研究書を買うだけ買って、難しそうなので手を付けていない。『哲学の謎』は読んだ気がするが、あとは少し前にエッセイ『哲学な日々』を読んだくらい。

この本は、チョムスキーの生成文法論に対する批判から生まれた認知言語学という分野について、野矢氏が専門家である西村氏に入門していろいろ聞いていくという構えなのだけど、何しろ野矢氏も言語哲学の専門家なので、まるでウィルキンソンとベッカムがキックを蹴り合っているような趣がある(←分らん)。認知言語学という分野の特徴なのか、一般向けの本としての配慮なのか、分析の対象とする例文、表現がどれも身近で平易なもの(日本語だと、「雨に降られた」「彼女に泣かれた」「村上春樹を読んでいる」)なのでとても読みやすいのだけど、言っている内容自体は、けっこう人間の認識というか知性のありかたに踏み込むような深さがあるように思う。

こういう表現を使う言語と使わない言語があるといった部分はもちろんのこと、翻訳をやる身としてはかなり楽しめる本だった。

あと、各章の扉にあるペンギンのイラストが可愛い。イラストレーターは誰だろうと思ったら、野矢氏自身とのこと。やるな。

 

 

 

島崎藤村『夜明け前』(kindle版)

少しこのブログの更新が途絶えていたのは、またLinuxの入門書や将棋の本など読んでいたこともあるが、この大作(文庫本で4巻)に取りかかっていたため。

かつて母方の親戚が名古屋で商売をやっており、市内の住居は店舗兼用で手狭ということで、恵那に週末用の別宅を構えていた。中学生の頃だったか、そこに遊びにいく話になり、近くの馬籠・妻籠といった観光名所を訪れる計画を立て、その予習?として、一家4人でこの作品を回し読みしたのだと思う。このあたりがいかにも教養主義的な家庭である。

2010年に何がキッカケだったのか家人が図書館で借りて読破していたのだが、先日、kindleで無料でダウンロードできることに気づき(青空文庫版)、私も40年近くぶりに読んでみた。

幕末~明治維新期が舞台であり、作品中で流れる時間が恐らく30年以上に渡っている点も大河ドラマ的ではあるのだけど、主要登場人物として登場するのは、この日本史上でも指折りの激動期において「脇役」だった存在ばかり。

それだけに、時代の変遷がいっそう身に迫る痛切なものとして訴えてくる。

これを読むと、主人公が追い求める本居宣長~平田篤胤あたりの国学や、それと合わせて神道にも興味をそそられるのだけど、一昨年あった親戚の葬儀も含めて、神道というのは世界観ではあっても宗教ではないのかなぁ、という漠然とした印象を抱く。少なくとも何らかの救済を与えるものであれば、この小説もこのような結末にはならなかっただろうに。

なお、いちおう下記のリンクはkindle版(青空文庫版)を貼っておくが、やはり通常の文庫で注がついている(と思う)ものを読む方がいいのではなかろうか。宿場・街道関係の知識についてはいろいろネットで調べられる時代だから大丈夫だし、和歌はよいのだけど、それなりの長さの漢文を読むのはなかなか苦労する。