月別アーカイブ: 2020年6月

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)

新型コロナによるパンデミックも大変だが、むしろ深刻なのはバッタの大量発生(蝗害)のほうかもしれない。中国がバッタ禍に備えてアヒルの大部隊を用意しているなんてちょっと面白いニュースもあったが(真実かどうかは不明)、どうもアフリカ~西アジアだけではなく、南北アメリカ大陸でも大量発生が見られるようだ。

で、そういえばこんな本が家にあったなと思って読んでみた。

『ファーブル昆虫記』に憧れて昆虫学者をめざす30代前半のポスドク研究者である著者が、無職無収入の恐怖に脅えつつ、単身アフリカに渡って蝗害の主力となるサバクトビバッタを研究するフィールドワークに身を投じる話。

この本を読めば今般のバッタ禍をより良く理解するための知識が得られるかというと、そういうわけでもない(それでもさすがに孤独相・群生相なんて言葉には馴染んでくる)。むしろ、現代において夢を追う若者の奮闘記という印象。その意味では少し肩透かしを食らった感はあるが、とはいえ、話は面白いし、「聖地訪問」のくだりにはなかなか涙を誘われた。

こういう本を読むと、そういえば自分は夢を追う人生を歩んではこなかったなぁ、としみじみ思ってしまう…。まぁそのときどきに興味のあるものを楽しんできただけなのだよね。それはそれで幸せだし楽しくはあるのだけど。

 

斎藤健『増補・転落の歴史に何を見るか』(ちくま文庫)

最近著者に会ったらしい上司が読んでくれと頼むので、読む。

前半、日露戦争からノモンハン事件に至る転落(と著者は言う)の歴史を分析していくところはなかなか面白いのだけど、後半の、現代日本のための処方箋の部分があまりにも陳腐で、どうしたものかという感じ。

「政」「官」のバランスを考えるのは官僚から政治家に転じた著者としては自然な流れなのかもしれないけど、国や社会のうち、その部分を弄ることでどうにかなる部分は思ったより小さいという点には思い至らないのだろう。結局のところ、「公」(public)がどのように構築されているか(あるいはそもそも存在しているのか)という点が決定的に大きいと思うのだが。

よく勉強するし分析もできるけど、そこから説得力ある結論や新味のある展望を導く能力に欠ける原因を、受験エリートとして歩んできた生い立ちに求めるのは偏見かもしれないけど、実際、そうなるよなぁという思いはある。

 

 

内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書kindle版)

「おうちでハードカバー」とはいえ、外出するときに読んでいた本もある。

この本は、だいぶ前に紙の本で読んでいたのだけど、人に貸して戻ってこなくなってしまった。kindle版が出ていたので読み直す。

「ポスト構造主義期」というのは、構造主義の思考方法があまりに深く私たちのものの考え方に浸透してしまったために、あらためて構造主義者の書物を読んだり、その思想を勉強したりしなくても、その発想方法そのものが私たちにとって「自明なもの」になってしまった時代(そして、いささか気ぜわしい人たちが「構造主義の終焉」を語り始めた時代)だというふうに私は考えています(第1章1)。

という著者の指摘は的確であって、私自身がそうした発想をすでにかなりの程度「自明なもの」と見なしているせいか、この本に書かれている内容は実にすらすらと頭に入っていくる。たぶん最初に読んだ頃(たぶん2000年代前半)よりも、さらにその傾向は強まっているのだろうと思う。

その意味で、この本は知的な興奮を与えるというよりは、現実的に「使える」ものに近づいているような気がする。哲学への入門という意味でも、このへんから始めるのがけっこう面白いかもしれない。

 

冷泉為人『円山応挙論』(思文閣出版)

ステイホームの流れを機に「おうちでハードカバーを」第二弾。1月には縁あって著者と同席する機会があったのに、この本を(すでに手許にあったのに)まだ読んでおらず感想をお伝えできなかった後悔もあり…。

さて、何年か前に「若冲展」が人気を呼び大混雑したようだけど、円山応挙も伊藤若冲とほぼ同時代に京都で活躍した大家とのこと。

「とのこと」というのも、私自身はこの分野にはまったくもって疎く、若冲も別に観に行こうという気にもならなかったし(そもそも行列するような展覧会は子どもの頃から大嫌いである)、せいぜい寺などの名所を訪れたときに襖絵などの作品があれば、そういうものかと思って眺めるくらい。

しかしこういう、いわば自分にとってまったくアウェイである分野の話を、分からないなりに淡々と読み続けるのは、恐らく他の人と比べて相対的には苦手ではない。もちろん好きとまでは言えないけど、自分が知らなかった世界が開けてくる楽しさがあるような気がする。

この本でも、見たことのない作品について縷々語られているわけで、図版が載っているものはそれを眺めながら「こういう絵か」と思いながら読めばいいのだが、ものによっては図版がない。図版があるものも、硬派な研究書ゆえ、モノクロだから色は分からない。もっとも有難いことに、きょうびはインターネットで作品名と作者を検索すれば、けっこうな確率で画像を見つけることができる。タブレットやPCを頼りにこういう本を読むというのも奇妙な話だが…。

完全な書き下ろしではなく、美術専門誌などに掲載された論文の集成という成り立ちなので、変奏曲のように画題別に(松、鶴、孔雀、鴨、流水、人物などなど)同じテーマが繰り返される感があり、著者の「応挙論」を丁寧に刷り込まれる印象である。

別に、この本を読んでこれまで自分が抱いていた応挙作品に対する印象が一変するとか、そういう話ではないのだけど(何しろ意識的に応挙の作品を観たことすらないのだから)、いずれ何か応挙の作品を目にする機会があったときに「ああ、これだったのか」と膝を打つのはもちろん、そういう明白に意識的な体験につながらずとも、こういう読書というのは、何かしら、ものを見る目や考え方に深い部分で微かな変化をもたらしているのだ。