演劇」タグアーカイブ

鴻上尚史『八月の犬は二度吠える』(講談社)

著者が主宰していた虚構の劇団/第三舞台のファンにとっては、「舞台にするなら、この役はあの人かな…」などと想像をめぐらせる楽しみのある作品。そうやって考えているとだんだん役者の数が足りなくなったり、時間的・空間的な移動の関係でなかなか演出が難しそうだったり、ああ、やっぱり舞台では難しいことを小説でやりたかったのかなぁと思わせる(舞台化もされているみたいだけど)。

しかしこの作品で本当に面白いというか興味深いのは、主人公たちの物語が最終的にはとても残酷で、その残酷さはむしろ滑稽とまで言えるのだけど、ひょっとしたらそれは作者が期待した解釈ではないのかもしれない、と思わせるところだ。もし「いや、その解釈は私の意図した通りですよ」と作者が言うなら、けっこう意地悪な書き方というか、読者の多くの部分は、それとは違う解釈のまま読み終わってしまうような気がする…。

ネタバレになってしまうけど、要するに、「彼女が命を絶った理由と、彼女がそのとき望んでいたこと」を、主人公たちは理解しないまま今に(つまり小説の末尾にまで)至っている、ということだ。しかし、「主人公たちは勘違いしたままである」という設定が作者が意図したものだ、と言えるかというと、これはまた問題である。

いずれにせよ、複数の解釈や読み方を許容するという点で、それが作者の意図したものであるかどうかはともかく、良い作品だと言える。

アーサー・ミラー『るつぼ』(倉橋健・訳、ハヤカワ演劇文庫)

先日翻訳した記事に「魔女」の話が出てきたと書いたら、知人の女優からこの作品を勧められた。

舞台は17世紀アメリカなのだけど、執筆された20世紀半ば、マッカーシズムによる「赤狩り」の嵐が吹き荒れていたころのアメリカ社会を想定している、とされている。

そういえば西部開拓時代の米国では、手つかずの自然という厳しい相手に直面する中で、ひときわ信仰に頼る部分が強くなったことが、原理主義的な教派が拡大する原動力になった、みたいな話を何かで読んだ。17世紀にもなって(あるいは20世紀にもなって)、この種の集団的狂信が生じてしまうというのは、そうした背景があるのだろう。

そういう時代設定だけに、最初のうちはけっこう違和感を抱きつつ読んでいくのだけど、第三幕・第四幕はまさに息もつかせぬという感じ。少女たちも、最初は悪戯心だったり計算高い部分があったのだろうけど、第三幕後半のあたりになると、自己暗示にかかって、本当に「悪魔」を見ていると信じ込んでしまう集団錯乱に陥っているようだ。舞台で観たらけっこう怖いと思う…。

『セールスマンの死』に続いて、アーサー・ミラーは2作目。リアリズム演劇と呼んでいいのかどうか自信がないけど、こういう作風というのは、日本の作家だと誰あたりになるのだろう。清水邦夫とか? ハヤカワ演劇文庫にはいろんな作家が収録されているみたいだから、機会を見つけて読んでみよう。

 

アーサー・ミラー『セールスマンの死』(倉橋健・訳、ハヤカワ演劇文庫)

先日観劇した作品。戯曲も読んでみる。

けっこう思い切った演出をしていたようにも見えたが(たとえば戯曲におけるラストシーンが先日の舞台では存在しなかった)、受ける印象に大きな差はなく、その意味では原作に忠実な演出だったとも言える。

それにしても、戯曲で読んでも救いのない内容である…。チェーホフの作品も憂鬱ではあるが、まだしも希望があるように思える(それでも希望を抱いてしまうこと自体が悲劇であるとも言えるかもしれないけど)。

第二次世界大戦の戦勝国でありながら、戦後間もない時期にこういう作品を生み出してしまうことが、逆説的ではあるが、アメリカという国の闇であると同時に懐の深さなのかもしれない。

 

 

 

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(浦雅春・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、映画『ドライブ・マイ・カー』繋がりで、この作品も。

亡母がロシア文学専攻でチェーホフが専門だった関係で家に全集があり、たぶん高校生の頃に代表的な戯曲は読んでいるはずなのですが、『ワーニャ伯父さん』は今ひとつ印象が薄い…。

新潮文庫だと『かもめ』とカップリングで、どちらにしようか迷ったのですが、数年前に『かもめ』の舞台を観た後で原作の戯曲を読んでいたので、それと被らない方がいいな、と『三人姉妹』が入っている方を選びました。ちなみにそのとき読んだ『かもめ』も浦雅春の訳でした。神西清の訳はkindleで無料で入手できるということもあり。

何というか、昨今の国際情勢もあって、二つの作品で描かれている「救いのなさ」と「希望」の両側面のうち、前者が切々と迫ってくる感じで、何だか憂鬱な気分にならざるをえません…。

ちなみに『ワーニャ伯父さん』の舞台はたぶん観たことがなく、『三人姉妹』の舞台は、30年(?)以上前にSCOTのものを観ただけ…。白石加代子の鬼気迫る演技が印象的でしたが、いま思うと、あれはきわめてチェーホフ的であったような気もします。その舞台での最後のセリフが「楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると…」だったので、「音楽は、」と訳されているのは少し違和感があります。

ところで、件の映画を理解するうえで、こちらも読んでおくべきかというと、それもあまり必要ないのではないかな、という気がします。ま、映画は映画で独立した作品です。当たり前だけど。

 

マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』(鴻巣友季子・訳、集英社)

いやぁ、とにかく面白かった。実はアトウッドを読むのはこれが初めてなのだけど、意外なほどにエンターテイメント。冒頭の、裏切り~没落~隠遁部分からして、お馴染みの進行とはいえ(何しろシェイクスピアなのだから)ぐいぐい引きこまれる。

そして『テンペスト』の稽古に入ってからは、妙な言い方だが「ああ、大学でこういう講義を受けてみたかったなぁ」という感じ。私は大学時代から零細社会人劇団に至るまで芝居に関わっていたので作品を作っていく過程はたいへん面白く読めるのだけど、デューク先生の指導は、演出家というより英文学の教授のようだ。私は文学部出身であっても、いわゆる「文学」の講義を受けたことはないのだが、大学ではこういう面白い文学講義もやっているのだろうか。

惜しむらくは肝心の復讐のシーン。さすがにそういう手段を使うのは(そしてそれが計算どおりにうまく行ってしまうのは)、ちょっと安易ではないか、という気がする。もっと心理的に追い詰めるような作戦を取ってほしかった…。

訳は期待どおりに素晴らしい。割り注がやや煩い気もするが、やはりこれは必要なのだろう。原文で(原文も)読みたいと思わせる翻訳だが、この場合は、良い意味の方である。

そして何より、『テンペスト』を読みたい(あるいは舞台で観たい)と思わせる点で、「語りなおしシェイクスピア」という企画は成功しているのだ。