月別アーカイブ: 2017年11月

鴻上尚史『不死身の特攻兵』(講談社現代新書)

舞台の方では30年来のファン(といってもいいだろう)である鴻上さん。へぇ、こんなテーマで本を書くんだ、とちょっと意外に思って読んでみた。全然チェックしていなかったけど、同じ題材に基づくフィクションもこの8月に発表していたのか(『青空に飛ぶ』)。

このノンフィクションの中心人物である佐々木友次氏をめぐるエピソードはもちろん印象的だが(「面白い」というのは語弊があるけど)、それ以外にも特攻をめぐる複数の論点が、著者らしい読みやすい文章で整理されているので(といっても先行文献からの紹介が多いのだけど)、特攻の問題をわずかなりとも考えるうえで良書だと思う。

ちなみに本書のタイトルと「9回出撃してすべて生還した」という触れ込みからは、ものすごい技量を持つ百戦錬磨のパイロットで、米軍と死闘を演じて生き延びたかのような印象を受けるが、実はそんなことはない。「9回出撃命令を受けた」ということであって、実際には離陸すらしていない場合もカウントされている。

が、それはむしろ些末なことであって、出撃命令の目的が、最初はもちろん「体当たり攻撃で米艦を撃沈すること」なのに、だんだん「佐々木伍長を死なせること」に転じていくところが、ほとんどホラーといってもいいくらい狂気である。そして、そんな命令を受けつつ、どうして彼は自暴自棄になって死ななかったのか、という点も実に面白い。

さて、内容的に重複する部分が多いことを承知のうえで、小説『青空に飛ぶ』も読んでみようと思うのだけど、ふと、ね。『永遠の0』も読んでみようかな、と。

むろん、いやーな読後感になるのは覚悟のうえなのだが、調べてみたら、百田尚樹と鴻上尚史の年齢は2歳しか離れていない(百田が年上)。世代の近さというのは思想に影響する要因のごく一部でしかないのは言うまでもないのだけど、どうしてそういう差が生じてしまったのかという興味が、ちょっとある(ま、知性とか教育の差と言ってしまえばそれまでだが)。

幸いなことに、『永遠の0』はすでに図書館でも順番待ちなしで借りられる(笑)

プルースト『失われた時を求めて(9)』(吉川一義訳、岩波文庫)

間を置きつつ、まだ読み続けている。半年くらい放り出していても、何となく「挫折した」感がなくて、また再開してしまう。読み進むにつれ、「ああ、これ最初から読み返したいなぁ」という思いが募ってくるのだけど(つまりけっこう嫌いではない)、たぶん刑務所にでも入らない限り、そんな暇はないのだろうな。

 

シリン・ネザマフィ『白い紙/サラム』(文藝春秋)

Facebookで見かけたWIRED.jpの記事が気になり、しかしその記事は読まずに(まだ読んでいない)、作品の方を先に読んでみた。

以前、芥川賞を受賞した楊逸『時が滲む朝』を読んだときと同様、日本語のおかしなところは散見される。しかし以前は「こういうのって編集者は何か助言しないのだろうか」と思ったものだが、今回は読んでいて何となく「あえて不慣れな日本語=外国語で、しかも『小説』として、これを書こうとした(書かざるをえなかった)というのは、どういうことなのだろう」と思ってしまった。楊逸の作品もいま読み直すと、同じように受け止められるのかもしれない。

「白い紙」は、イラン・イラク戦争のまっただ中、イランの小さな街での少年少女の恋物語。「サラム」は日本の大学に在学中のイラン人学生が、難民申請しているアフガニスタン女性の通訳をする話。前者の方が、馴染みの薄い世界だけに印象深いかな。

 

トーマス・クーン『科学革命の構造』(みすず書房)

大学の教養課程の頃、必読のような扱いを受けていた本(といっても刊行が1971年だから、当時を基準に考えればそれほど前の本ではないのだが)。

もちろん、フマジメな学生だった私は読まなかった(笑)

少し前に読んだ『プラグマティズム入門』あたりでも紹介されていたので懐かしく思って(だから読んでいないんだってば)、今さらのように読んでみた。

現代の自然科学を相対化するという意味で、やはり読む価値のある本だと思う。「科学的に」云々という主張を目にしたときに、それを冷静にカッコに入れられるかどうかは大切なことで、もちろん少し哲学をかじればいいことなのだけど、ひとまず、自然科学内部から、こういう把握をしたということは、とても大きな業績だと思う。

それはさておき……「当時の学生はよくこんなのを我慢して読んでいたものだなぁ」というのが率直な感想(笑) 何しろ翻訳がひどい。訳者あとがきで少し言い訳めいたことも書いてあるけど、まぁ何というか、科学の専門家であって翻訳の(というか日本語の)専門家ではないのだよなぁ、と思う。

内容と直接関係がなくなってしまうのだけど、「そうか、自分は微力なりとも日本の翻訳の質を上げるための仕事をしてきたのだなぁ」という感慨を抱いてしまった。

翻訳に腹が立つときの常でkindleで原書も買ってしまったのだけど、まぁ確かに原書も読みやすい英文とは言いがたいのだけど……。

※ 結局、翻訳の方で読み通しました。

 

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』(講談社文庫)

何度目かの再々…読。ときどき読み返したくなる。いまでも「おお、ここはそういうことだったのか」とちょっとした発見がある。

発売は1988年か。大学3年。両親が死んだ年だ。物語には、まだ携帯電話もインターネットも出てこない(当時から存在はしていたはずだが)。「ゲイ」や「おかま」が多少なりとも差別的な言辞として出てくるのが時代を感じさせる。今でもそういう感覚でいる人は多いと思うけど。

そういえば彼の最新作は、義父から借りたきり読んでいない。その前の長編も買ってから数年放置していたしなぁ……。

 

 

 

 

村上敦『ドイツのコンパクトシティはなぜ成功するのか』(学芸出版社)

これも疋田智さんのメールマガジンで知った本。

先日読んだ『集落再生~「限界集落」のゆくえ』との関連も深い内容。高齢化に伴い、自分で車を運転することが困難な人口が急増することが想定されるなかで、交通工学、というより都市計画の観点から、自動車依存の社会をどう変えていくかというテーマ。

いくつか面白い観点が得られた。

たとえば、「人口密度が高い」というと過密で窮屈な印象があって、「人口密度が低い」ほうがゆとりがあって暮らしやすいような刷り込みがあったけど、実はそうでもない。ある程度の人口密度がないと、たとえば商業施設は商圏を広く取らなければ採算が合わなくなり、広大な地域に大型店が一つだけ、したがってそこへのアクセスは基本的にクルマ、という状況になる。そうすると、クルマを運転できない人は生活が成り立たなくなる。医療にしても行政サービスにしても同じこと。そもそも、過疎とか限界集落とかいうのは、要するに人口密度が低くなりすぎちゃってコミュニティとして成立せず瓦解してしまう状況なのだから、まぁ当然か。

あるいは、シェアド・スペースという試み。自動車、自転車、歩行者などの交通をあえて区分せず、歩道もガードレールも設けず、交通標識も信号もなく、ルールなしに混在させる。必然的に、他の交通主体がどう行動するか気にしながら動かなければならないから、自動車の速度は落ち、お互いに配慮するようになり(教習所で言う「かもしれない運転」だな)、結果的に安全で快適な空間が生まれる、という発想。そんな無茶な、と思うけど、「自動車優先」という思い込みをえぐり出してしまえば、少なくとも市街地では成立する。不安感を高める方が安全になる、ということで、これは自転車は車道を通行した方が安全という話にも直結する(クルマに「邪魔だなぁ、危ないなぁ」と思ってもらった方がいい、ということ)。

というわけで、なかなか良い本なのだけど、最後の「締め」がないのがもったいない。数ページの「あとがき」程度でいいので、付けてほしかった。「あれ?」という感じでいきなり読み終わってしまう。