月別アーカイブ: 2023年2月

ジェフリー・ディーヴァー『コフィン・ダンサー(上)(下)』(池田真紀子・訳、文春文庫)

「リンカーン・ライム」シリーズ2作目。

前作『ボーン・コレクター』の感想で書いたように、殺害方法が陰惨で猟奇的なので、シリーズを読み進めるのはやめようかなぁと思っていたのだが、つい手を出してしまった。

軸になるのが鑑識というマニアックな分野なので、その分、前作を読んでいることは大きなアドバンテージになり、すいすい読み進められる感じ。登場人物もおなじみの顔ぶれが多いし。この作品ではそれに加えて航空関係の蘊蓄もけっこう出てきて、なかなか新しい世界が開けている。

が、肝心のプロットに関しては、矛盾とまでは言わないまでも、「ちょっとそれはさすがに無理なんじゃないの」という印象を受けた。容疑者から命を狙われる可能性がきわめて高く、しかもいったんは警察の保護下に入った重要な証人(と思われる人物)から警察が簡単に目を離してしまうことは考えにくいし、その人物が改めて警察の保護下に戻った経緯も描かれていない(どうせすぐ戻ってくるだろうという希望は語られるが)。その空白の時間のあいだに、それほどのことができたとも考えにくい。その意味で、この手の作品としてはちょっと欠陥があるのではないかと思う。

とはいえ、せっかくこの世界に馴染みができたので、これに続くシリーズ作品も読んでしまうような予感があるのだけど。

 

 

佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)

続いてシリーズ第2作。

語り手がコロボックルの若者に代わり、「せいたかさん」「(おちび先生改め)ママ先生」「えくぼう」など人間も出てくるが、基本的にはコロボックルのコミュニティ内の話。

その分、正統派ファンタジーではあるのだろうが、やや子供向けというか、物足りない感じはする。しかし「あとがき」によれば、作者自身が本来書きたかったのはこういう作品で、ただ、いきなりコロボックルを登場させても「不自然でおさまりが悪い」ので、しかたなく(?)先行する物語として第1作を書いたのだという。

もっとも、「理屈抜きの面白い小人物語」(あとがき)とはいえ、そこかしこに「作中の時代を証言する」(同)部分があって興味深い。特に、沖縄民謡とご縁のできた身として印象的だったのが、南米(本作ではブラジル)への移民とその子孫(つまり今で言う日系ブラジル人だ)の話。「親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。(略)できましたら、お写真も、送ってください」というところに胸を打たれる。

佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(講談社文庫)

家人も私も、子どもの頃に読んだ懐かしい作品。昨年末、10歳になる家人の甥にプレゼントしたのをきっかけに、我が家でもシリーズ4作を購入(私がかつて読んだのはここまでだったはず)。

子どもの頃の私は、読書という点では想定された対象年齢よりもかなり上の本を先取りして読んでいたのだけど、このシリーズを読んだのは、それほど幼い時期ではなかったように記憶している。

よく知られているように「コロボックル」と呼ばれる小人が出てくるファンタジーであり、もちろんかつてはそのような作品として読んでいたのだが、実は解説の梨木香歩が驚きをもって指摘しているように、「純度の高いラヴストーリーそのもの」だった。正統派の、いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」であり、伏線の張り方なども含めて実に巧みに構成された、幸せな涙を誘うお話である。

そして今回、直後に読んだ家人も指摘していたが、「虚構」(いちおう)としてはコロボックルの存在という大きな一つがあるだけで、あとは、物語の序盤に主人公が体験する戦争(父親は「空襲がはじまるころ、船といっしょに南の海にしずんだ」と書かれているが、これは著者の父親がミッドウェー海戦で戦死したことと符合する)、戦後の食糧難を窺わせる記述、里山や田畑を脅かす道路開発とその計画変更、発売予定の新車の愛称募集など、実にリアリティあふれる話になっている。「小山」を脅かすのも、またある意味で救うのも、同じモータリゼーションの異なる側面であるというのも、時代を反映していて面白い。別の本の感想で書いたことがあると思うが、「大きな嘘が一つだけ+周囲を固めるリアリズム」というのは、小松左京のSF作品について誰かの解説が指摘していたことに通じる。

著者による四つの「あとがき」、そして梨木香歩の解説まで含めて、再読、再々読に値する1冊。

 

筒井康隆『日本以外全部沈没 パニック短篇集』(角川文庫)

先日、小松左京『日本沈没』を読んだのだが、そういえばパロディ作品として、これがあったなと思い出して、読んでみた。パロディと言っても、小松左京本人に「書いてみれば?」と言われたという、いわばお墨付きである。この作品の末尾にも、小松がパロディ作品の執筆を認めてくれたことへの謝辞が付されている。

表題作を含め11篇が収録されているのだけど…。

あまりこういう書き方をしたくはないのだが、ビックリするほどつまらなくて意外なほどだった。昔はけっこう面白がって読んでいた記憶があるのだけど…。何というか、露悪趣味な部分が、当時は刺激的だったのかもしれないけど、今となっては単に悪趣味という印象しか与えないように思う。古くさい刺激と言うべきか。

そもそも「ネタ」として取り上げている、たとえば学生運動とか農協とかがすでにリアリティを伴っていないという側面もある。私が年を取ったからこういう作品を楽しめなくなったという部分はあるとしても、そういう一過性の「ネタ」に依存している分、若い読者なら今でも面白がって読むという状況も考えにくい。

そういえば、しばらく前に読んだ『さらば国分寺書店のオババ』の巻末対談で、著者の椎名誠が「思ったほどひどくないよ」「当時はオレも面白かったんだから、それがこんなに印象が違うとは思わなかった」と述べていたのを思い出す。

小松左京『日本沈没』は今も読むべき価値のある作品だと思うが、パロディ作品の方はすでに輝きをすっかり失っているのかと思うと、パロディのあり方というものを考えさせられる。

 

ジェフリー・ディーヴァー『ボーン・コレクター(上)(下)』(池田真紀子・訳、文春文庫)

この「リンカーン・ライム」シリーズを教えてくれたのは京都に行くたびに立ち寄っているバーの店主であるはずなのだが、どういう流れで教わったのかをすっかり忘れている。

今回、久しぶりに京都を訪れることになったのを機に、ふと思い出して、読んでみた。

「鑑識」という超絶マニアックな分野を軸に連続殺人犯を追い詰めていく話なのだけど、殺害方法がかなり陰惨というか猟奇的で、それに対応して鑑識の手法もかなり目を背けたくなるようなことになっているので、途中で受け入れられなくなる読者もけっこう多いのではないか。

それに耐えて(?)読み進めていくうちに、だんだんこちらも犯人の発想というかリンカーンの発想に共振していく部分が出てくるのが怖いところで、ネタバレになるので書けないのだけど、「あ、これは犯人によるトリックで、つまり誰かの○○を…」みたいなのは登場人物よりも先に看破できるようになる。

読み方が甘かったのか、最終盤では「ええと、それ誰だっけ」みたいに前のページを繰ることになってしまったのだが、まぁそのへんの謎解きというか犯人の正体は何者かみたいな部分は、この作品の面白さの核ではない、とも思える。

とはいえ、最後の最後のどんでん返しというか、「続く」的な展開には凄みがある。同シリーズ第2弾は、別にこの「続き」ではなさそうではあるが。

 

村上政彦『結交姉妹』(鳥影社)

新聞の小さなコラムで紹介されていて気になった作品。

漢字ではなく、女性のために、女性が作った、男性には知られていない文字「女書」。

その文字で書かれたメッセージで地縁血縁関係なくつながる女性のネットワークを軸に、古代から現代まで紡がれるストーリー。中心となる舞台は、日中戦争期の中国。

女書の存在も含め史実をベースとした部分とファンタジックな部分が交錯しているが、ややどっちつかずになった感がある。そういう文字の存在だけでもかなり想像力を刺激するので、あまりファンタジックな要素に走らなくてもよかったかもしれない。とはいえ、特に金魚のあたりなどはけっこう好きな雰囲気ではある。必読とまでは言わないが、まぁ読んでも損はない。

 

アーサー・ミラー『るつぼ』(倉橋健・訳、ハヤカワ演劇文庫)

先日翻訳した記事に「魔女」の話が出てきたと書いたら、知人の女優からこの作品を勧められた。

舞台は17世紀アメリカなのだけど、執筆された20世紀半ば、マッカーシズムによる「赤狩り」の嵐が吹き荒れていたころのアメリカ社会を想定している、とされている。

そういえば西部開拓時代の米国では、手つかずの自然という厳しい相手に直面する中で、ひときわ信仰に頼る部分が強くなったことが、原理主義的な教派が拡大する原動力になった、みたいな話を何かで読んだ。17世紀にもなって(あるいは20世紀にもなって)、この種の集団的狂信が生じてしまうというのは、そうした背景があるのだろう。

そういう時代設定だけに、最初のうちはけっこう違和感を抱きつつ読んでいくのだけど、第三幕・第四幕はまさに息もつかせぬという感じ。少女たちも、最初は悪戯心だったり計算高い部分があったのだろうけど、第三幕後半のあたりになると、自己暗示にかかって、本当に「悪魔」を見ていると信じ込んでしまう集団錯乱に陥っているようだ。舞台で観たらけっこう怖いと思う…。

『セールスマンの死』に続いて、アーサー・ミラーは2作目。リアリズム演劇と呼んでいいのかどうか自信がないけど、こういう作風というのは、日本の作家だと誰あたりになるのだろう。清水邦夫とか? ハヤカワ演劇文庫にはいろんな作家が収録されているみたいだから、機会を見つけて読んでみよう。

 

最相葉月『セラピスト』(新潮文庫)

新著『証し 日本のキリスト者』を紹介する記事を見かけて、そこで言及されていた本書を先に読んでみようかと思い、手に取った。

基本的には箱庭療法と風景構成法など「絵を描く」心理療法を軸として、カウンセリングが日本に紹介された歴史やその後の推移を辿りつつ、という構成の本。

そもそも自分自身はもとより近親者も含めて精神疾患とは縁が薄いこともあり、言葉によるコミュニケーションがうまく行かない状況でのこの種のアプローチにも今ひとつ実感が湧かない部分はあるのだけど、仮に自分が箱庭を作る立場になったら、どんなものを作るのだろう、とつい考えてしまう。もっとも、そんな状況を予期して自分が作る箱庭をあらかじめ想像してしまうような人間には、そもそもそういう療法は必要ないというか、意味がないのだろうけど。

もちろん、心身ともにまったく問題のない人間などほとんどいないわけで、私自身にも何か問題がないはずはないのだが、日常生活に支障が出るような事態にまで至ることがないのは、ひょっとしたら、

そんな彼らの認知世界を考慮すれば、診療においても日常生活においても、「(心理的に)空間的距離をとることによって、出来事を相対的に矮小化すること、(心理的に)時間的距離をとることによって、悪夢化しやすい長期的予測をさけること」(「精神分裂病状態からの寛解過程」)といった配慮が必要ではないか--(本書299頁)

という「距離の取り方」を自然に駆使してしまっているからなのかな、という気がする。

その他、いくつか印象に残った点。

昨今、一人のクライエントにじっくりと時間をかけて付き合う余裕がなくなって「一期一会」状態になってしまっている(したがって継続的に箱庭を見ていくような治療ができない)というのは、いろいろこの社会の現状を象徴しているように思う。

時代によって、いわば流行する精神疾患が移り変わっていくというのも興味深い。もちろん、診断区分等が変わって、これまで疾患とされていなかったものがカウントされるようになるという側面もあるのだろうが、それだけではないような気がする。たぶん人間にはあらかじめ「心の病」に至るゲートやルート(つまり脆弱性ということだが)がいくつもあって、周囲の環境(つまり社会だ)の変化によって、どのゲートやルートが多く使われるようになるかも変わってくる、という話なのではないかな。

あと、やはり、本書終盤で出てくる、「治る」ことが必ずしも幸福なこととは限らない、少なくとも嬉しいことばかりではない、という話は、ある意味、感動的でもある。