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松本清張『点と線』(新潮文庫)

先に川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』を読んでいて、ふと、そういえば松本清張って一冊も読んだことがないなぁ、と思い至った(川本三郎には、松本清張を主題にした著書もある)。

名前は非常に有名だし、作品もいくつも思い浮かぶ。が、読んだことはない。どんな作家だったのかも知らない。調べてみたら、芥川賞作家であった。推理小説・歴史小説のイメージが強かったから直木賞なら驚かないのだが…。そして、高等小学校までしか出ていない。それでいて、文筆でこれだけ名を残すとは…。

というわけで、初・松本清張。世に出るキッカケとなった芥川賞受賞作も気になったが、ここはやはり有名なこの作品。

まぁ、とにかく読ませます。文章がうまい。簡潔なのだけど、描写に味がある。もちろん、技術的なことも含めて社会状況という面では、今の若い人が読めばもはや「時代劇」の範疇に入るのかもしれないけど、1960年代後半の生まれとしては、十分にリアリティを感じつつ読める。

もっとも、肝心の(?)推理小説としての側面では、けっこう不満がある。

以下、ネタバレが多いので、これから読む方はご注意。

本作が、時刻表を駆使したアリバイを見破る話(『点と線』という表題からして鉄道のダイヤグラムをイメージしているとも聞いた)であるということは、さすがに知っていた(し、読んでいれば早い段階で分かる)。本書の解説でも指摘されているように、アリバイ破りがテーマになっている推理小説というのは、ある意味、「真犯人」が早い段階で読者にも分かってしまうので、読み進めさせる工夫はなかなか難しかろう。

ただ、この作品では、アリバイを成立させるために「口裏を合わせる」人間が多すぎるのではないか。黒幕的存在の人物はしかたないにしても、作中で名前も出てこないような人間までが因果を含められて嘘の供述をしているのでは、やや興醒めである。それではアリバイができて当たり前ではないか。やはりアリバイというのは、捜査の対象になるすべての人が善意の証人として「嘘を言わない」、少なくとも別の手掛りから見て「噓は言っていない」と思われる、ということが前提であってほしい。

もっとも、社会派リアリズムの作家として「組織」としてのドロドロ(汚職や癒着)が背景にあることが前提であるならば、関与する人間が多くなるのは必然だったのかもしれない。

続けて一気に、ではないにせよ、他の著名な作品もいくつか読んでいこうかと思っている。

 

 

川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』(平凡社)

雑誌『東京人』に連載されているコラムをまとめたもの。2019年から2021年にかけての文章なので、後半はコロナ禍で行動を制約されている嘆きが多く読んでいて辛くなるが、いや、それでもけっこう動き回っているなぁ。

「誰某がこの駅で降りている」「誰某がこの街について書いている」、だからここを訪れたくなった、というパターンがたびたび出てくるのだが、いずれ「川本三郎が書いていて興味を惹かれたので来てみた」という人も、それなりの数、出現するのではなかろうか。いや、すでにそういうファンはいるのかもしれない。

こういう本を読むときには、Googleマップなどパソコンで眺められる(検索できる)地図を片手に(という表現は変だが)読むと、さらに楽しめるような気がする。もちろん、著者自身は絶対に使っていないはずではあるが。

それにしても、読んでいない作家がいろいろ出てくるなぁ。野口冨士男は読んでいなくてもしかたなかろう(少なくとも私の周囲でこの作家を読んでいる人を知らない)。林芙美子は少しくらい読んでおくべきかもしれないし、紹介されている台湾の作家はなかなか面白そうだが、そこまで手が回るかどうか。

しかし、松本清張を一冊も(!)読んだことがないというのは、さすがに自分としてもどうかと思う。調べてみて、松本清張が芥川賞を受賞していることを初めて知った(というか、むしろ、それで世に出た作家である)。

ひとまず、この本を買ったのと同じ駅前の書店で、『点と線』を買ってきて読み始めている。そういえば、この本が9月末に出たことを知ったキッカケも、その書店のツイートだった。

 

五野井郁夫『「デモ」とは何か- 変貌する直接民主主義』(NHKブックス)

著者のツイートに惹かれて、読んでみた。

刊行が2012年4月ということは、脱原発官邸前抗議や、SEALDsを中心とする若者のデモ・抗議行動が高揚を迎えるより少し前である。

したがって、そうしたデモがその後かなりの程度沈静化してしまった状況やその原因を分析するには至っていないのは決して本書の不備ではない。とはいえ、現時点で本書を読んでも、「そりゃ、確かにあの頃はそうだったのだけど」という印象が強く、そこからどうして今の状況に至ったのかという点に思いを馳せざるをえない。もちろん新型コロナ禍で「人が集まる」こと自体が避けられるようになったという要因は大きいのかもしれないが、当然、それだけではないような気はする。

そもそも、自分で何かを考えたり自分の意見を表立って主張することが忌避される、とまでは言わずとも積極的に評価されない社会においては、著者のいう「暴力から祝祭へ」というデモのイメージの変化も、それほど決定的に社会を変える勢いにはつながらなかったのではないか。そもそも、広告代理店主導の国家的イベントで皆と一緒に盛り上がる状況を別にすれば、「祝祭」を自分たちで作り上げていくこと自体、この社会の人々はあまり得意にはしていないようにさえ思うのである。

 

近藤康太郎『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)

以前、何かのきっかけで同じ著者の『おいしい資本主義』を非常に面白く読んで、甥やもう1人他の誰かにもプレゼントするために購入した覚えがある。自分は図書館で借りて読んだきり買っていなかったので、自分用にも買っておこうと思ったら、版元品切れ…。

で、続編に当たる本書を読むことにした。

これまた実に面白い。

思想的な部分は、少しばかり冷静に読む必要がある。たとえば、

頭でっかちの平和主義者の非戦の声も、軽く、実体がない。平和主義者こそ銃を取れ。

という一節があるのだけど、アジテーションとしては一流なのだが、文字通りに受け止めるとナンセンスなことになってしまう。「銃を取れ」は、別に「自衛隊に入ろう」ということではなく、猟をやって生き物の命を奪う経験をしてみろということなのだけど、世の平和主義者が皆、一時的な体験であれ猟銃を手にしたら、国内の猟場は荒廃してしまうだろうし、逆に言えば、国内の猟場が受け入れられる猟師の数より何桁も多い人間が非戦を唱えなければ、そもそも戦争など防げるはずもない。

こういう部分は、一種の思考実験を強いる挑発と受け止めておくのが妥当であるように思う。

「貨幣の物神性から逃れる唯一の武器」として提示される、「人と人がつながる」「無償贈与による交換形式」にしても、そもそも都会的な消費生活こそ、逆にそういう「人と人とのつながり」から解き放たれるための希望だったことも否定できない。だから著者自身、それですべてをひっくり返す革命を志向しているわけでは全然なく、そこで「経済活動の二、三%」を置き換えてみてはどうか、という示唆に至る。

というわけで、そういう刺激的・挑発的な部分については注意深く咀嚼する必要があるようには思うけど、それはともかく、めっちゃ面白いのですよ、この本は。

序盤の「堤」探しのあたりから(ネット地図を駆使するあたりが現代的で非常に面白い)、「完全人力田植え」のあたりなど、とにかく「あの本に書いてあったんだけどさぁ」と人に話したくなるネタの宝庫なのだ。

おすすめである。図書館で借りた上でkindleで買っちゃったけど、これは紙で買い直してもいいかもしれない。