月別アーカイブ: 2020年3月

葉室麟『花や散るらん』(文春文庫、kindle版)

蔵人・咲弥夫妻もの、二作め。

いわゆる「忠臣蔵」、つまり「松の廊下」刃傷沙汰から赤穂浪士討ち入りに至る事件をバックに、本編の主人公たちの活躍がサイドストーリーとして進行するような構成。したがって、浅野内匠頭、吉良上野介、大石内蔵助といった著名な人物も登場し、興味深い描かれ方をしている。

この作品もタイトルは和歌から取られたもので、あれ、「久方の…」だったら「花ぞ散るらん」だよなぁと思っていたら、別の歌だった(謡曲「熊野」に出てくるということは、元は「平家物語」にも出てくる歌なのかな?)

引き続き、新聞連載で読んだ第三作へ。

 

 

葉室麟『いのちなりけり』(文春文庫、kindle版)

珍しく剣豪小説など読んでみる。

東日本大震災のときもそうだったのだが、時事翻訳を中心にやっていると、このようなご時世では何かにつけて関連の記事ばかり翻訳しており、もちろん自分でもいろいろ情報を収集するので、「そういう話」ばかり目にすることになる。いいかげんウンザリしてくるというか、けっこう真面目な話、精神的に負担がかかってくる。

そういうときには、身体を動かすのと(これは自転車通勤の頻度を高めているので足りているとして)、ストーリー性の高い、中程度の長さの小説を読むのがよい。震災のときは『初秋』を皮切りにスペンサー・シリーズに救われた。先般読んだ『イリアス』『オデュッセイア』も、まぁその部類の読書に入れてもいいのだけど、じゃっかん長いし、教養主義すぎる(笑)

葉室麟は、何年か前の新聞連載小説をわりと面白く読んだ。と思ったらまもなく急逝してしまい、愛読者でもないのに残念に思ったものだ。連載されていた『影ぞ恋しき』は、雨宮蔵人・咲弥夫妻もの三部作の三つめ、ということなので、せっかくだから最初の本作から読む。

時代小説、剣豪小説は、吉川英治『宮本武蔵』『鳴門秘帖』や、子ども向けだが『鞍馬天狗ー角兵衛獅子の巻』、途中までだが中里介山『大菩薩峠』あたりを読んだことがあるのだけど、最近では上述の『影ぞ恋しき』以来だし、中編を一気に読み通すのは久しぶり。

で、翻訳小説が苦手な人とは逆に「わ~、人の名前が漢字ばっかりで辛い~」「なんで途中で名前が変わるの~」と戸惑うこと頻り(『大菩薩峠』とかは牢人・市井の人物ばかりなのでそうでもないのだが、大名とか侍はけっこう名前が変わるのだ)。

とはいえ、愉快に読める。表題の『いのちなりけり』は古今集の和歌の一節から来ていて、教養ある美女(咲弥)が、夫となった無骨な武士(雨宮蔵人)に対して、「あなたの心を示す、好きな和歌を教えてくれるまでは寝所は共にしない」と問うが、蔵人は「無学なもので…」と俯いてしまう。で、紆余曲折あってその後長くに渡って夫婦は離ればなれになるのだが、そのあいだ蔵人は健気に和歌を勉強して、自分の心に合う歌を探す、というお話。もちろん剣豪小説ゆえ、その間、斬り合いや陰謀はいろいろあるのだけど。

既存の有名作品と同じ時代を舞台にしているので、水戸黄門・助さん・格さん(と後に呼ばれるようになった2人)も出てくるし(ただし、本作での水戸光圀は好悪の別れる描写である)、吉良上野介も出てくる(彼は次作でも重要な登場人物になるようだ)。

当然ながら、さっそく次作へ。

野矢茂樹『哲学の謎』(講談社現代新書)

「世界は実在するのか」「時間とは何か」「自由意志はあるのか」などなど、哲学の基本的な「謎」を対話形式で考えていく、「さまざまな哲学的問題に対する私の思考のドキュメント」(あとがき)。

二人の人物の対話になっているが、まぁこれは「私」の自問自答なのだと思っておけばいいだろう。この手の構成にありがちな、しょうもないボケ&ツッコミはまぁご愛敬ということで。

これも特に「最終的な結論はこれだ!」という流れにはなっていないので、そういう意味ではオープンな印象で、悪くない。

『はじめて考えるときのように』を先に読む方が良さそうだが、これも悪い本ではない。それなりに読書の習慣のある人はいきなりこちらでもいいかもしれない。

ただ正直なところ、私が『「自分で考える」ということ』を入り口にして哲学にハマったように、これらの本を読んでハマっていく人がいるのかどうか、ということはよく分からない。当たり前のことで、どこにドアが開いているかは人それぞれ違うのだろうし。

それと平行して、では、自分が哲学の何に魅力を見いだしたのかを自分なりに伝えるとすれば、どんなふうに書くのだろう、という思いも湧いてきた。もちろん私は専門家ではないので「個人の感想です」程度のものになってしまうのは避けがたいのだけど。

 

野矢茂樹・植田真『はじめて考えるときのように』(PHP文庫)

池田晶子『14歳からの哲学』に続き、「哲学とはどういうもので、何がその魅力なのか」を人に伝えるとしたら、どんな伝え方があるだろうか、というテーマでの選書。

ほぼ並行して読んでいた同じ野矢さんの『哲学の謎』と合わせて、なかなか良い本で、『謎』よりもこちらの方が読みやすい。『14歳からの哲学』と違って「答えを言ってしまう」という押しつけがましさも薄いような気がする。「ことば」についての思索の比重が大きいのは、論理学に強い著者の面目躍如といったところか。

哲学史的な知識はほとんどまったく出てこないが(わずかにプラトンが引用されているくらい)、すなおに、ただし徹底的に考えるとはどういうことか、は分かるのではないか。

あまりにもやさしい言葉で書かれているので、この本を読んでから、では何か他にも読んでみようと哲学書を手にとっても、ちょっとギャップが大きくて辛いかもしれない。しかしある程度哲学書を読んでから、ふとこの本に戻ってみると、まさに「はじめて考えるとき」はこのようであった、という原点に戻れるようにも思う。

植田真の挿絵は、言ってみれば、この本の「謎」である。私はつい野矢さんの書く本文だけを追ってしまうのだけど、この挿絵がどういう位置づけで何を意味しているのか、というのをじっくり考えてみるのもまた一興だろう。

 

ホメロス『オデュッセイア(下)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

波瀾万丈の冒険を潜り抜けて、故郷のイタケに帰還してめでたしめでたし、という話のように記憶していたが、そうではなかった。帰還して、その後の話がけっこう長いのだな。

ただ正直なところ、その部分はさほど面白いとは思えない。何というか、女神の助力による部分が大きすぎるような気がして、そりゃまぁうまく行くよなぁとは思うけど、ご都合主義に過ぎるのでは、という印象。

これもやはり『ホメーロスのオデュッセイア物語』を子どもの頃に読んでいるのだが、『イリアス』に比べて読み返した記憶が薄い。やはり『イリアス』の方が面白かったのかな。

さて『オデュッセイア』を読んだところで、この作品についての熱心な分析があった『啓蒙の弁証法』を読み返すと、また違った印象が得られるのだろうか…。

 

 

ホメロス『オデュッセイア(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

少し寄り道したものの、『イリアス』に続いて、『オデュッセイア』へ。

言わずと知れた、トロイア戦争の英雄の一人であるオデュッセウスが苦難の長旅の末に故郷に帰着する物語。困難な長旅や探求をodysseyと称するのは、ここから来ている。2001:Space Odyssey(邦題『2001年宇宙の旅』)みたいに。これもやはり、たぶん小学生の頃に子ども向けのバージョンで読んでいるので、あまりハードルは高くない。

で、オデュッセウスが主人公のはずなのだが、100ページ以上読んでも本人は登場しない。そして知略並ぶ者なき英雄であるはずなのに、オデュッセウスくん、けっこうお馬鹿な失敗もやっている(笑)

それにしても、こういう時代的にも内容的にも浮き世離れした作品を読むのは楽しいなぁ。以前にも触れたように、3.11のときにはロバート・パーカー『初秋』に救われたものだが、今回もやはり、こうした作品に逃避しているのかもしれない。

引き続き、下巻へ。しかしもう、覚えのある冒険はだいたい済んでしまったような気がするのだけど、あと何だっけ?