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ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(5)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、年内に読了。

この巻は、作品そのものはエピローグだけなので短い。その後は、訳者によるドストエフスキーの生涯と本作品についての解題。

印象的なのは、この小説は未完である、という点。むろん著者自身が冒頭で、これは今から13年前の事件を描く「第一の小説」であって、本当に大切なのは「第二の小説」である云々と断っているので、この先があるなという感覚は当然なのだけど、とはいえ、これを完結した「第一の小説」として扱っていいのかとさえ思うほど、ラストの「放り出され」感は強い。だからこそ、いろいろ解釈の余地のある作品として名を残しているのかもしれないが。

賛否の分かれる新訳ということで、訳者・亀山郁夫の解釈を押しつけすぎというレビューも目にしたが(「妄想」とまで断じる見解もある)、私としては(もちろんロシア語は分からないのだけど)特に文句はない。「解題」も、なるほどと思わせる部分は多々あるし、何より、他のドストエフスキー作品も読んでみたいと思わせるところが優れている(危険とも言う…)。もっとも個人的には、いくつもの愛称が錯綜するロシアの小説でよくある状況は苦にならないし、そもそも海外小説の翻訳そのものに抵抗がないので、まぁ以前の訳でも問題はなかったかもしれないけど。

まぁ端的に言って実に面白い小説だし、再読は必至なので、恐らくこの訳を購入することになると思う。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(4)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

そういえば追加していなかった。

というわけで佳境の第4巻。この後にエピローグ(5巻)が続くわけだが、ひとまず大団円という感じ。「事件の真相」はもちろん、その後の「悪魔」との対話、巻の後半を占める法廷劇など、おなかいっぱいという感じである。

亡母が文句を言っていたとおり、全編を通じて、やはり皆、怒鳴り散らし、叫びまくっていが、この第4巻の法廷劇はまさにその最高潮という感じである。スメルジャコフの癲癇はもちろん、女性陣のヒステリーも含めて、メンタルが不安定なのは民族的な背景があるのだろうか。

引き続き最終の第5巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(3)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

物語が激しく進行する部分なので、一気に読む(実はこれを書いているのはこの巻を読了してしばらく経っており、すでに4巻も半分くらいまで読んでいる)。

しかし、改めて思ったのだが、たぶんこの作品、高校くらいのときに最初に読んで、その後1回くらい再読したかもしれないと思っていたが、たぶん再読はしていないのだな。だって、話を全然覚えていない。「兄弟」がどういう構成で、作中で誰が死に、誰が殺されるかは覚えているし、この巻冒頭のゾシマ長老の死去に伴う、いわば「逆・奇跡」については記憶があったが、「事件」に至る経緯や男女関係とかはまったく記憶にない…。

というわけで、「ある程度の予備知識はあるけどストーリーはほぼ知らない」という、恵まれた状態で読み進めております。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

件の大学時代の同級生によれば、この第2巻に含まれる「大審問官」と「ゾシマ長老」はこの作品の最大の難所とのこと。確かに「大審問官」の部分は、中断せずに一気に読み通さないと、またその節の冒頭に戻って読み直すことになるような気がする。とはいえ、何がテーマになっているかは明確なので、そこまで読むのに苦労はしないかな…。

ところで、主役級の1人である、「兄弟」の父フョードル。もう老人なのに女の尻を追いかけ回し、道化じみた無礼きわまりない振る舞いでひんしゅくを買う好色爺、みたいな設定なのだが…。

年齢の設定は、なんと55歳。私と同じか、数え年だろうから私より若い。

まぁ『サザエさん』の磯野波平が54歳とか、もうその手の話には事欠かないのだけど。

それにしても、年末恒例の『メサイア』を控えて、こういうキリスト教が重要な主題になっている作品を読むというのは、なかなか味わい深い。せめて福音書くらいは読み返さないといかんよなぁという気になってくる。

とりあえず、勢いをつけて、第3巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(1)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

たぶん最初は高校生の頃に読み、大学に入ってからか、その後の20代の時分に一度は再読しているのだが、そろそろちゃんと読み返さないと、と思っていた作品。

誰の訳で読もうか迷ったのだが、この作品が世界最高の傑作であると主張する大学時代の同級生が、とりあえず亀山訳で読んでおけと言うので、この新訳への賛否は分かれているようだが、アドバイスに従う(彼は複数の訳を読み比べているはず)。

かつて読んだのは江川卓訳のように思っていたが、新潮文庫だったという記憶もあるので原卓也だったかもしれない。家には旧仮名遣いの古いものもあったはずだが、それは米川正夫かな?

亡母が「ドストエフスキーは登場人物がみな叫んだり怒鳴ったりしてばかりで読んでいて疲れる」と悪口を言っていたのを懐かしく思い出す(本人の専門はチェーホフ)。まぁ、確かに(笑)

で、やはり再読して正解と思える面白さ。この第1巻から、さっそく歯応えのある宗教論的な部分があるにはあるが、そういう部分も味わい深く読めてしまうのは、やはり読者としてもそれなりに馬齢を重ねてきた効果なのだろうか。どの訳にするか迷っていたこともあって図書館で借りて読み始めてしまったのだけど、これは買い直すかな(しかしそうすると、どの訳を買うかでまた迷う)。

昨今の情勢を理解するうえで有効かどうかはともかく、「ロシア的」という概念に注意しつつ読み進めていきたい。

勢いがつきはじめると読むのは速いので、すでに2巻に進み、それもそろそろ終わりが見えてきた…。

J.D.サリンジャー『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(金原瑞人・訳、新潮モダン・クラシックス)

下北沢駅東口駅前、ピーコックのビルは建替えの予定があるのだったか、わりと寂れた感じというか、退店してしまった店舗も多いように見えるのだが、3階にある三省堂書店も、同じ街で「B&B」や「日記屋 月日」といった面白い書店が元気な一方で、やや時代遅れの駅前大型書店という雰囲気が漂っている。先日ふと立ち寄ったときも、何かこれといった本が見つかる期待もしていなかったのだが、近々買おうと思っていた本書が目について、何となく「記念」に買ってみた。

竹内・朴『謎ときサリンジャー』影響下でのサリンジャーMyブーム。

サリンジャーの読者にはお馴染みのコーフィールド家とグラース家の物語が共鳴し合うように綴られているという印象。思ったより読みやすいというか、すんなりと話に入っていける感じの短編が並んでいる。ただし、最後の『ハプワース16、1924年』を除けば。

で、その『ハプワース16、1924年』について、訳者あとがき(サリンジャーはそうしたものを付加することを拒否していたはずだが)に「じつに難物で、手がかかった」とあるが、さもありなん、という感じ。ただ、父母に対して「レス」「ベシー」とファーストネーム(の愛称)で呼びかけているのを「父さん」「母さん」に訳してしまうという訳者の決断は、あまり感心しない。確かに訳者が言うように「日本ではありえない」かもしれないし、英語でもそれほど多くないかもしれないが、いくら違和感があるといっても、ここは原作に忠実に訳すべきではないかと思う。その違和感も含めて作品に流れる空気なのだから。村上春樹の『フラニーとズーイー』では、ズーイーは母親に「ベッシー」と呼びかけていた。

そういえば、勤務先の外注翻訳者の家庭では、子ども(当時確か小学生くらいだった)に親をファーストネームで呼ばせていたなぁ。確かに違和感はあったが、そういう教育をする家もあるのだろう、と受け止めていた。思えば、親がサリンジャーファンだったのかも知れない。

岸本聡子『私がつかんだコモンと民主主義 日本人女性移民、ヨーロッパのNGOで働く』(晶文社)

今年6月に杉並区長選挙を僅差で勝利した岸本聡子区長によるエッセイ。

これまで彼女がどのような道を歩んできたかよく分かる本なのだが、まぁ、正直に言って、意外な部分が多い。

海外のNGOでの経験が長いというのはもちろん区長選のときにも紹介されていたのだが、そうするとやはり、帰国子女か留学経験があって英語(またはその他の外国語)が堪能な人で、他国の先進的な事例をよく知り、「日本は今のままじゃダメだ」みたいな義憤に駆られて、一念発起して帰国して選挙に…みたいなイメージを抱くし、私自身、そういう人もいいなと思って彼女に投票した部分はある。

が、全然違った。

さすがに仕事では英語を使っていたようだが、いまだに「読むのも書くのも遅」く、「書いたものはネイティブの編集者にしっかり直してもらわないと外に出せない」し、メールはパートナーに添削してもらう。20年間オランダで働いても、結局オランダ語の習得は諦め、「『少し』わかっているフリをして[おとなしくて喋らない人のキャラで]会話に参加している素振りをしてきた」。一節のタイトルに「人生は言語ばかり勉強するほど長くない」とある。また「自分をアピールすること、時には自分の能力以上を表現することは当然」であるヨーロッパで、「『はったり』を含めた自信」がないままに過ごしてきたという。

読んでいくうちに、「この人、別に突出した能力のある人ではないのだな」と感じる。言っちゃ悪いが、この人より才能や手腕に恵まれた人はいくらでも思い浮かぶし、ひょっとすると私自身だって、そうかもしれない。何というか、どこか割り切ったり、何かを諦めることで、いろいろハンデを克服してきた人のように思える。

とはいえ、もちろん「筋」はしっかりしている。

彼女が「絶対に忘れないし、許さない」と強い言葉で批判するのは小泉純一郎であり、竹中平蔵については「今も政界にはびこる」と表現されている。つまり、敵は新自由主義なのだ。

その一方で、自分が原発や在沖米軍基地などの面では抑圧者・加害者の立場にあることも認識している。

ひとことで言えば、「まとも」である。

冒頭で触れたように、6月の区長選は得票差が187票という僅差で決着した。しかしこの本が選挙前に出版され、多くの人に読まれていたら、もっと大差がついていたに違いないし、もっと大差をつけて勝利すべき人だったと思う。

 

松本清張『点と線』(新潮文庫)

先に川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』を読んでいて、ふと、そういえば松本清張って一冊も読んだことがないなぁ、と思い至った(川本三郎には、松本清張を主題にした著書もある)。

名前は非常に有名だし、作品もいくつも思い浮かぶ。が、読んだことはない。どんな作家だったのかも知らない。調べてみたら、芥川賞作家であった。推理小説・歴史小説のイメージが強かったから直木賞なら驚かないのだが…。そして、高等小学校までしか出ていない。それでいて、文筆でこれだけ名を残すとは…。

というわけで、初・松本清張。世に出るキッカケとなった芥川賞受賞作も気になったが、ここはやはり有名なこの作品。

まぁ、とにかく読ませます。文章がうまい。簡潔なのだけど、描写に味がある。もちろん、技術的なことも含めて社会状況という面では、今の若い人が読めばもはや「時代劇」の範疇に入るのかもしれないけど、1960年代後半の生まれとしては、十分にリアリティを感じつつ読める。

もっとも、肝心の(?)推理小説としての側面では、けっこう不満がある。

以下、ネタバレが多いので、これから読む方はご注意。

本作が、時刻表を駆使したアリバイを見破る話(『点と線』という表題からして鉄道のダイヤグラムをイメージしているとも聞いた)であるということは、さすがに知っていた(し、読んでいれば早い段階で分かる)。本書の解説でも指摘されているように、アリバイ破りがテーマになっている推理小説というのは、ある意味、「真犯人」が早い段階で読者にも分かってしまうので、読み進めさせる工夫はなかなか難しかろう。

ただ、この作品では、アリバイを成立させるために「口裏を合わせる」人間が多すぎるのではないか。黒幕的存在の人物はしかたないにしても、作中で名前も出てこないような人間までが因果を含められて嘘の供述をしているのでは、やや興醒めである。それではアリバイができて当たり前ではないか。やはりアリバイというのは、捜査の対象になるすべての人が善意の証人として「嘘を言わない」、少なくとも別の手掛りから見て「噓は言っていない」と思われる、ということが前提であってほしい。

もっとも、社会派リアリズムの作家として「組織」としてのドロドロ(汚職や癒着)が背景にあることが前提であるならば、関与する人間が多くなるのは必然だったのかもしれない。

続けて一気に、ではないにせよ、他の著名な作品もいくつか読んでいこうかと思っている。

 

 

川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』(平凡社)

雑誌『東京人』に連載されているコラムをまとめたもの。2019年から2021年にかけての文章なので、後半はコロナ禍で行動を制約されている嘆きが多く読んでいて辛くなるが、いや、それでもけっこう動き回っているなぁ。

「誰某がこの駅で降りている」「誰某がこの街について書いている」、だからここを訪れたくなった、というパターンがたびたび出てくるのだが、いずれ「川本三郎が書いていて興味を惹かれたので来てみた」という人も、それなりの数、出現するのではなかろうか。いや、すでにそういうファンはいるのかもしれない。

こういう本を読むときには、Googleマップなどパソコンで眺められる(検索できる)地図を片手に(という表現は変だが)読むと、さらに楽しめるような気がする。もちろん、著者自身は絶対に使っていないはずではあるが。

それにしても、読んでいない作家がいろいろ出てくるなぁ。野口冨士男は読んでいなくてもしかたなかろう(少なくとも私の周囲でこの作家を読んでいる人を知らない)。林芙美子は少しくらい読んでおくべきかもしれないし、紹介されている台湾の作家はなかなか面白そうだが、そこまで手が回るかどうか。

しかし、松本清張を一冊も(!)読んだことがないというのは、さすがに自分としてもどうかと思う。調べてみて、松本清張が芥川賞を受賞していることを初めて知った(というか、むしろ、それで世に出た作家である)。

ひとまず、この本を買ったのと同じ駅前の書店で、『点と線』を買ってきて読み始めている。そういえば、この本が9月末に出たことを知ったキッカケも、その書店のツイートだった。

 

五野井郁夫『「デモ」とは何か- 変貌する直接民主主義』(NHKブックス)

著者のツイートに惹かれて、読んでみた。

刊行が2012年4月ということは、脱原発官邸前抗議や、SEALDsを中心とする若者のデモ・抗議行動が高揚を迎えるより少し前である。

したがって、そうしたデモがその後かなりの程度沈静化してしまった状況やその原因を分析するには至っていないのは決して本書の不備ではない。とはいえ、現時点で本書を読んでも、「そりゃ、確かにあの頃はそうだったのだけど」という印象が強く、そこからどうして今の状況に至ったのかという点に思いを馳せざるをえない。もちろん新型コロナ禍で「人が集まる」こと自体が避けられるようになったという要因は大きいのかもしれないが、当然、それだけではないような気はする。

そもそも、自分で何かを考えたり自分の意見を表立って主張することが忌避される、とまでは言わずとも積極的に評価されない社会においては、著者のいう「暴力から祝祭へ」というデモのイメージの変化も、それほど決定的に社会を変える勢いにはつながらなかったのではないか。そもそも、広告代理店主導の国家的イベントで皆と一緒に盛り上がる状況を別にすれば、「祝祭」を自分たちで作り上げていくこと自体、この社会の人々はあまり得意にはしていないようにさえ思うのである。