月別アーカイブ: 2019年4月

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』(早川書房・クリスティー文庫、kindle版)

例の鴻上さんの人生相談コラムで紹介されていた作品。彼は以前からたびたびこの作品に言及していたような気がする。その影響で私もたぶん学生時代か20代の頃に一度は読んだはず。

なるほど、文学史に残る名作というポジションではないのだろうが、かなりの傑作。

元々はメアリ・ウェストマコットという別のペンネームで書かれた作品だが、日本では初版時からクリスティー名義で出されたみたい。その方が売れるから、ということだろう。

しかし、そのように別名義で書かれた非ミステリ作品で、殺人事件も盗難事件も起きないし、名探偵が出てくるわけでもないのだが、それでも、ミステリ作家ならではのストーリーテリングの妙が感じられる。ある意味で謎解きだし、背筋にゾクッとくる怖さもある。したがって、内容に触れるとけっこうネタバレになってしまう可能性があるので、ここではあまり踏み込めないが、かなりお勧めである(kindle版で283円って、お買い得感がある)。

ロンドンではない地方都市(クレイミンスターという場所は実在するのだろうか? まだ確認できていない)に暮らすイギリスの家庭(夫、妻=主人公、長男、長女、次女)という設定と、夫の(やや美味しいとこ取りでズルいとも言えそうな)キャラクターから、同じイギリスの『高慢と偏見』と同じ空気が漂っている気がする。

あと、「ううう、そうなるのか」という終盤の展開から『魔の山』を読んでいたときに感じた動揺(?)をふと思い出した。

残念だったのは、タイトルの出典ともなっているシェイクスピアのソネットを、学校時代に暗誦や朗読が得意だったという主人公が思い出そうとする場面があるのだけど、その方面に関して、自分がまったく疎いこと。現代でも、イギリス人なら多少は「ああ、あの詩か」と思い当たる節があるのだろうか。ひとまず、kindleでシェイクスピアのソネット集を入手してみた(英語なら0円)。

 

 

 

 

戸谷洋志『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』(講談社文庫)

先日読んだ『棋士と哲学者』が期待以上に面白かったので、「哲学者」側である戸谷洋志の単著を読んでみた。哲学的なテーマに沿って、いわゆる「Jポップ」(最初の方で定義される)15曲の歌詞を通して考えていく、という本。

テーマは、「自分」「恋愛」「時間」「死」「人生」の5つ。

曲は「名もなき詩」(Mr. Children)「私以外私じゃないの」(ゲスの極み乙女)「君の名は希望」(乃木坂46)「Story」(AI)「会いいたくて会いたくて」(西野カナ)「誰かの願いが叶うころ」(宇多田ヒカル)「天体観測」(BUMP OF CHICKEN)「キラキラ」(aiko)「閃光少女」(東京事変)「おしゃかしゃま」(RADWIMPS)「Dearest」(浜崎あゆみ)「A new one for all, All for the new one」(ONE OF ROCK)「Believe」(嵐)「RPG」(SEKAI NO OWARI)「YELL」(いきものがかり)。

このなかで私が聴いたことがあるのは1曲だけ。といっても基本的には歌詞分析で、歌詞は本文中に引用されているので、曲を知らなくてもまぁ問題はない。

なかなか面白かった。5つのテーマについての考察は、哲学の考え方というかアプローチを紹介するという上でけっこう的確であるように思える。

もっとも、テーマが「実存的な悩み」に偏ってしまっているのは少し残念。哲学という学問はけっこう幅が広くて、二本柱(?)の認識論・存在論も含めて、もっと頭のおかしくなるようなヤバいテーマもあるのに、ともったいない気もするけど、さすがにそういうテーマに触れるような歌詞のポップソングはなかなか存在せず、この本には盛り込めなかったのだろう。そんなテーマの歌、あまり聴きたくもないという気がするし(笑)

体裁としては、女子大生の麻衣ちゃんがアシスタント(聞き役)として、先生(著者自身だろう)と対話するという形になっていて、恐らく糸谷哲郎はそのへんに眉をひそめつつ読んだのだろう、と想像する。が、そもそもそういう舞台設定に目くじらを立てるような人を対象とする本ではないな。

【追記】読んでいるあいだは「別にこれを読んでも、取り上げられている歌を聴きたくはならないかなぁ」と思っていたのだけど、それでも何となく気になって、Spotify(無料アカウント)で聴ける曲を選んでプレイリストを組んでみた(3曲ほど見つからない曲があったのでそれは諦める)。生まれて初めてナンバー系グループの曲を通して聴いたな……。

 

渡辺明『増補・頭脳勝負』(ちくま文庫)

ときおり将棋関係の本を読むのだけど、ノウハウ本(「勝てる○○戦法」の類)はここには記録しておらず、書くのはこういう一般的な内容のものだけ。先日の『棋士と哲学者』には将棋の話の比重はそれほど高くなかったのだけど、何となく将棋関連の本も読みたい気分になっている。

この本は、「棋士はふだんどういう生活をしているのか」みたいな話も含めて、将棋にあまり詳しくない人にその世界を紹介する感じの本。スポーツ観戦と同じように、自分でプレーしない人でも「観る将棋ファン(観る将)」として楽しんでもらいたいという動機で書かれていて、将棋のルールの説明とかは巻末にあっさりまとめられている程度なのだけど、序盤・中盤・終盤にそれぞれどんなことを考えているか、それぞれの段階でどの程度の集中力を発揮しているのか、といったあたりに頁が割かれているあたりに工夫を感じる。

すでに将棋に詳しい人には物足りないだろうけど、「動かし方は知っている」くらいの人にちょうどいい本なのではないかな。2007年発行の単行本の増補改訂・文庫化なので、古さを感じる部分はあるけど。

【追記】書くのを忘れていた。本書の素晴らしいところは、最初の方で、タイトル戦終盤の勝負どころを描く観戦記の一節を引用し、棋士(著者vs佐藤康光)の奮闘ぶりを紹介しているのだが、本書の後半、「ではプロの将棋をごらんいただきましょう」的に数局分収められている自戦記で、その一局が丸ごと解説されているところ。これが最初の方で紹介したあの場面ですよ~と明示されていないところがニクい。

【追記2】何となくそんな気もしていたのだが、過去の記録を漁ったら、2007年の新書版も10年前(2009年)に読んでいた(笑)

 

 

ダーチャ・マライーニ『メアリー・ステュアート』(望月紀子・訳、劇書房)

そういえばこれも読んだのだった。『棋士と哲学者』の前だったかな。

先日、知人が出演したこの芝居を観に行ったので、戯曲も読んでみた。というわけで、内容は分っているので、それはさておき、訳者あとがきを読んで、作者は日本と不思議な縁のある人なのだなぁとちょっと驚いた。お父さんが民俗学者でアイヌ研究のために来日していて、ムッソリーニに反対していたために戦時中は日本で強制収容所に入れられていた、とのこと。

以前気になっていた『敵国人抑留―戦時下の外国民間人 』(歴史文化ライブラリー)を読んでみようかという気になる。

残念ながら書影無し。

 

ジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』(岩元正明・訳、白水社)

確かTwitterでどなたかが勧めていたのが気になり、読んでみた。最初、体裁だけ見て荷が重いかと思ったのだが、意外にすらすら読めてしまった。あとがきによれば一般向けを意識して書いた本とのことなので、そのせいもあるのだろうけど、やはり移民というのはそれ自体がダイナミックなテーマなので、著者の主張への賛否はともかくとして、引きこまれるものがある。

で、自らがキューバからの移民一世である著者は、「移民はすべての人に利益をもたらす」という移民受け入れ推進の論調に疑義を呈し、その結論を導くデータの選択や解釈に恣意性があることを明らかにする。

こうした批判から、必然的に移民がもたらすコストや、国内での格差拡大(※)を相対的に強調することになり、その流れでドナルド・トランプの選挙演説で著者の論文が引用されてしまったこともあるようなのだが、著者の真意はそこにはないし、移民排斥や人種差別・民族差別につながるようなトランプの政策とはむしろ正反対の立場とも言える。

※ 著者は、移民による経済的メリット/デメリットは長期的には差し引きゼロのように思われるが、企業経営者/労働者のあいだで’(前者に有利な形で)富の再配分が生じるとしている。

移民政策には困難で回避できないトレードオフがあり、そうしたトレードオフは専門家による数式モデルや統計分析だけでは測れないものだ。結局、どのような政策を選ぶかは我々の価値観や米国という国がどうあるべきかに対する我々の信念、そして自分たちの子供にどのような国に住んでほしいかという思いに左右される。(本書p220)

欧州の移民問題にごくわずかな言及がある程度でほぼ100%米国の話であり、日本の外国人労働者問題とはだいぶ違った状況とも言えるのだけど、とはいえ、移民問題一般を考えるうえで有益な一冊であることは確かだろうと思う。

 

戸谷洋志・糸谷哲郎『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』(イーストプレス)

書店で見かけて、対談ということもあって厚さのわりにスカスカな組み方という印象があり、面白そうではあるけど買うほどではないかな、と(スペースに余裕のない我が家としては、どうせ買うなら厚さのわりに濃い本の方がありがたい)。で、図書館で借りたのだけど、案に相違して、これがなかなか良い本だった。

SEALDsもそうだったけど、自分より大幅に若い人たちがこれだけしっかりしている(いや、当然ながら自分よりも頭が良い)というのは、非常に心強いというか、希望を感じる。特に糸谷は、自ら原理主義と称するほど人権重視の立場を貫いている(といっても頭のいい人なので、自分のような立場は白人文化至上主義だと批判される、と笑うようなメタな視点も備えている)。

「棋士と哲学者」というタイトルにはなっているが、「棋士」側である糸谷も大学院まで行って哲学をやっている人なので、その方面でも互角以上に渡り合っているのが面白い。AIをめぐる議論においては、むしろ戸谷の方がナイーブに思えてしまうくらい。そして、むしろ将棋の話はもう少しツッコんだ部分があってもよかったのではないかと思う(戸谷はどれくらい指せるのだろう?)

ところで、この本を読んでふと思ったのだけど、「棋士と哲学者」、つまり将棋と哲学というジャンルにおいて、私自身は、将棋でいえばアマ初段には及びもつかず、良くて3~4級程度(いや5~6級?)だろうと思うのだけど、哲学に関しても、まぁその程度かなと。プロの作品(哲学なら関連の著作、将棋なら棋譜)を、流れを追いつつ楽しむことはできるけど、100%理解できるわけではない。いわんや、自分でそのレベルのものを生み出すことはできない。その意味で、棋士と哲学者の対談というのは、どちらに対して理解が偏るということがなく、ちょうどよく楽しめたようだ。

 

 

キャス・R・サンスティーン『スター・ウォーズによると世界は』(山形浩生・訳、早川書房)

よく行く図書館には貸出カウンターの前に「返却されたばかりの本」が置かれているワゴンがあるのだけど、そこでふと目について借りてみた本。

訳者の名前をチェックするべきだった。どうも私はこの訳者が苦手……というか、いや、この人、下手でしょ。『クルーグマン教授の経済入門』は誤訳がめだったのですぐに放り出して原書を読んだのだけど、本書については誤訳は(たぶん)なさそう。しかし、原書の(学者らしからぬ)くだけた文体の雰囲気を伝えようという試みは、スベりまくっている。

たぶんこの翻訳者は、英語がたいへんよくできる人なのだろう。そして、「私は英語がよく分かっている、原文はこんな雰囲気だ、その雰囲気を再現するぞ~」と頑張っているのだけど、その分(あるいはそのせいで)、日本語が疎かになっている。

(翻訳ではなく)オリジナルで、そういうくだけた雰囲気の(そして面白い)日本語の文章を書ける人ならば、良いのかもしれない(たとえば小田嶋隆だ。賛成しない人もいるだろうが)。

いや、もしかしたらこの本は下訳者を使っているのかもしれない(使うよね、普通)。学生とか。というのも、章によって出来にバラツキがある。「父と子」というテーマに関する章は日本語もそれほど悪くない。他がひどい。東大の入試ならば受かるレベルだ(30年前ならね)。でも、それは「英文和訳」ではあっても翻訳ではない。

おっと、内容については何も触れていなかったね。つまらないはずがない。だってスター・ウォーズだもん。英語が苦にならない人は原書で読んだ方がいいだろう。そこまでする価値があるかどうかは疑問だが。

 

H. S. クシュナー『私の生きた証はどこにあるのか-大人のための人生論』(岩波現代文庫)

優れた宗教論『なぜ私だけが苦しむのか』の著者による「人生論」。

旧約聖書に含まれる「コヘレトの言葉」を手掛りに、人生の空虚さを克服することはできるのか、できるとすれば、どう考えることが可能かを探求する本。

10章構成のうち、第7章までは「有力そうに見えるが人生の意味をもたらすことのできない」要素(たとえば財産、名声、学識、信仰)の批判的検証。もっとも、そういう要素を獲得できない、そもそも追求することにも縁の無い人も多いのだから、「そういうのを試してみられるだけでも恵まれているんじゃない?」とひねくれた見方もできる。

第8章で「なるほど、これなら」と(私には)思える解が示されるのだけど、さらに第9章以降では、「あれあれ、そうなっちゃうの?」という印象。

第9章「私が死を恐れない理由」では、そこまでの検証の結果として、「人々の一員になる」「痛みを人生の一部として受け入れる」「自分が違いを作り出してきたことを知る」という三つの指針を挙げ(p209~210)、またタルムードでは「人生にはその途上でなすべきこと」として「子をもうけること」「木を植えること」「本を書くこと」の三つが挙げられていることを紹介するのだけど(p225)、残念ながら、著者やコヘレトと違って、そうした条件を満たせない人が世の中にはけっこういるのだ。

その意味で、第8章で止めておけば良かったのに、と思わざるをえない。第8章はいいんですよ。もちろん、それさえ得られない人もいるだろうけど、それでもだいぶ間口が広い。

翻訳は『なぜ私だけが苦しむのか』の方が優れていたが、そう悪い方でもない。