月別アーカイブ: 2019年5月

リスンイル『ラグビーをひもとく』(集英社新書)

レフリーの視点から、あるいはレフリングという観点から、ラグビーの法(Law)と精神(Sprit)を解説した本。

いや、大変に面白かった。といっても、これからラグビーを観てみようという人には全然お勧めできない。この本の内容をほとんどまったく分かっていなくても、ラグビー観戦は十分に楽しいものだし、そうやって気軽に楽しめるラグビーの魅力をこの本が紹介しているわけではない。プレースタイルや戦術や具体的なスキルについてもほとんどまったく触れていない。

ただ、それなりに観戦経験のある人(※)なら、(理想的な)レフリーがどのように試合を進めていくのかが良く伝わってくるし、これまで試合を観てきて微妙に疑問だったポイントが、「ああ、あれはそういうことだったのか!」と説き明かされる部分が多々ある。

恐らく、プレイヤーであってもちゃんと理解していないルールの細部に踏み込む内容なのだけど、それでもなお、「だからラグビーは面白いのだな」と思わせてくれるという意味で、実に楽しい本である。

早く次の試合を観たい、そしてルールブックをダウンロードしなきゃ、と思わせる。

刊行は2016年6月。その後のルール改正もあるので、「あ、ラックの定義が今とは違うな」「ラインアウトモールへの不参加については運用が変わったはず?」みたいな古さがすでに散見されるのだが、なぜ、どのような方向でそうやってルールが頻繁に改正されるのか、という点にも言及されている。

※ それなりに観戦経験のある人、というのがどの程度かというと、まぁこれまでに10試合以上は観ている、くらいだろうか。少ないって?(笑) いや、人によってはそれで十分「知らない」ではなく「分らない」部分が見えてきているはず。

(著者名の漢字表記は「李淳馹」。最後の字(馬ヘンに日)が、きちんと表示されるか分らなかったので片仮名表記にした)

 

安田浩一『団地と移民』(KADOKAWA)

あいかわらず重いテーマを扱っているのだけど、達意の文章ゆえハイペースで読める(自分にとって相性がいいだけかもしれないが)。

これまでの著書から一貫する「差別」問題への関心はこの本にも強く現れているのだけど、それだけに留まらず、高齢化~「団地」の限界集落化という問題が前面に出てきていることが、いっそう今日性を高めていると思う。

 

橘玲『朝日ぎらい』(朝日新聞出版)

なかなか面白いネタが詰め込まれた本。ただし、その根底には極左から極右(及びその劣化コピーとしてのネトウヨ)に至る一連の態度の類型化があり、紹介される種々の「実験」も、どうもサンプル数からしてそこまで信頼性が高いものではないように見えるので、まぁ話半分に面白がるくらいがよいのだろう。

結局のところ、現実のたいていの人間は複数のアイデンティティを兼ね備えているのだし、したがってリベラルや保守といった(本書ではもっと細分化されているが)類型にはフィットしない。むしろそうしたマルチなアイデンティティに注目することこそが分断の緩和~共生への道につながるようにも思う。著者は、リベラルに対する批判に抗するには、さらにリベラルに徹するしかない(というときの「リベラル」はもう少し細かく言えばリバタリアンなのだが)、という選択肢を提示するのだけど、それは原理主義的な「無理筋」だろうなと思う。「リベラルはダブルスタンダードを批判される」という指摘は的確に見えるけど、むしろ、ダブルスタンダードではない、マルチスタンダードだ、とある意味で開き直る、というか、スタンダードが複数であることに対してオープンである方が優るのではないか。

まぁ、複数の(多数の)アイデンティティやスタンダードを備えるというのは、要するに教養主義的な方向なのだろうけど。

 

 

吉田守男『日本の古都はなぜ空襲を免れたか』(朝日文庫)

Twitterで知人が言及していて、そういえば以前買ったような気もするが手許にないので、図書館で借りて読了(出版時期からして、買ったのは単行本の方だったかもしれない…)。

「京都や奈良がほとんど空襲を受けなかったのは、米国が両都市の文化遺産を尊重して攻撃しなかったからだ」という伝説が虚構であることを、米軍側の史料と実際の空襲の記録に基づいて明らかにしようとする本。

実際には、京都や奈良が空襲による壊滅的な被害を受けることはなかったという結末を知っていても、淡々とした叙述のなかに、「その日」が近づいてくる緊迫感はひしひしと伝わってくる。

実際のところ、あの戦争にそのような美しいエピソードがあったと思いたがる心性は、次の「それ」に対するガードを甘くすることになりはしないか。戦争は何よりもまず当事国の国益を最優先して進められるものであり、ほとんどの場合、それ「だけ」で終るのだ。

 

 

マイケル・ボンド『くまのパディントン』(松岡享子・訳、福音館書店)

競馬好きの女性と付き合い始めた頃(それがつまり今の家人だが)、彼女が自分の好きだった競走馬のぬいぐるみをいつも持ち歩いていたので、対抗上、自分も何かぬいぐるみを持ち歩こうと決めた(よく考えると、別に対抗する必要はなかった)。たまたま、J Sportsオンラインショップでラグビー日本代表仕様のテディベアを販売していたので買ったのが、初代だ。そのクマは半年ほど後に東京競馬場でなくしてしまったが、彼女がプレゼントしてくれた二代目を今も連れ歩いている。

そんな経緯で何となくクマ好きということになってしまった私なので、先日訪れた箕面の古書店で、昔読んだこの本を見つけて買ってみた。しばらく前にkindleで原書は買っていたのだけど。

子どもの頃は、パディントンがひっきりなしに「やらかす」のを面白がって読んでいたに違いないのだが、どうも大人になってしまった悲しさというか、「うわ~、少しはおとなしくしていてくれ~、可愛いだけでいいから!」などと思ってしまうのが我ながらおかしい。

その一方で、子どもの頃には分らなかっただろうなぁと思う面白さもある。たとえば芝居を観に行くエピソードで、登場人物の行動に憤激した(つまりお芝居であることを理解していない)パディントンが楽屋を訪れ、忙しそうなスタッフの一人と「あの男はどこにいる?」「男って?」「あのいけすかない男だよ」「ああ、ミスター・シーリーか。楽屋だよ」という会話を交わす。話はズレているはずなのに「あのいけすかない男」で通じてしまうところが笑えるのだけど、たぶん子どもの頃はこういうおかしさには気づいていなかっただろうな。

 

 

スージー・モルゲンステルヌ(文)、セルジュ・ブロック(絵)『パリのおばあさんの物語』(岸恵子・訳、千倉書房)

友人がやっている古書店(既存の古書店で棚借りしているので「古書棚」?)で、目に止まった1冊。

辛いことの多い、というか、たとえば私に比べたら「壮絶な」といってもいいほどの人生と、その末に訪れた老いを、それでも肯定的に受け止める話。少し前に読んだ『私が生きた証はどこにあるのか』にもつながる話。

以前、母方の伯父母・叔父母の傘寿・古希・喜寿のお祝いをまとめてやろうということで集まったとき、司会を務めた従兄が「今まででいちばん嬉しかったこと」というお題を振ったときに、伯母たちの口から、まず「苦しいこと、悲しいことが多くて」といった言葉が出たことを思い出す。

いずれ、原文で読みたい。

 

ポール・オースター『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳、白水Uブックス)

職場で「やみくろ」の話が出る(←どんな職場だ)

それがキッカケで後輩が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読し始めて、『最後の物たちの国で』を連想した、という。

ふむ、それは読んだことがないので読んでみよう。

と、軽い気持ちで読み始めたら、えらくハードなディストピア小説でびっくりしてしまった。

書かれた時期(原著の出版は1987年)からして、ソ連末期あたりにヒントを得ているのかなとも思うが、まさに今日この日も、内戦の続くシリアやイエメンといった国々では、これがフィクションと呼べないような状況があるのだろうな、と想像する。訳者が「あとがき」で触れているように、オースターはこの作品が「近未来」を舞台にしていると思われるのを望んでおらず、「現在と、ごく最近の過去についての小説」だと主張しているのも、そういう意味なのだろう。残念ながらオースターから見て「近未来」でもあった、ということになってしまっているわけだが。

訳者が言及しているデフォー『ペスト』や、Fama『サラエボ旅行案内』にも興味を惹かれる。

作品の内容とは関係ないが、字が小さい。老眼という点では平均よりも進行が遅いような私でさえ、ディストピア小説で字が小さいのって何の拷問だよと思ってしまうが、けっこう慣れるものだな……。

 

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

う~む、難しかった。

というわけで、この本に関する私の理解は、たぶん的外れであることを最初に断っておく。

と言い訳をした上で、ではあるが……あまり納得がいかない。

たぶんそれは、私が(日本語はさておき)おそらく世界で最も近代化された言語であろう英語と(辛うじて)フランス語くらいしか知らないために、能動/受動といった「態」に、そこまで敏感ではないからなのかもしれない。

しかし、そのような立場から考えると、能動態/受動態という対立がそこまで支配的なものであるようには思えない。能動態/受動態という対立が意味を持つのは「他動詞」が用いられる文脈に限定されているような気がする。そして、たとえば現代の英語においても、それ以外の文脈というのはかなり広い。「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」(本書p88)と著者はまとめているのだけど、主語が過程の「内にある」状況は、現代の言語においては、単に「自動詞」(あるいは再帰動詞)で表現されているというだけの話に思えてしまう。

前半から中盤にかけて、「それ、いちいち中動態に言及しなくても、自動詞ってことでいいんじゃない?」と思えてしまい、その後、自動詞(及び再帰動詞)的な表現と受動態が中動態から生まれてきたことも説明されていて「なるほど」と思うのだけど、では敢えて起源である中動態に遡って考えなければならない必然性が私にはよく分からなかった。能動態/受動態という対立構造が支配的になって中動態が抑圧されていく(それに伴って思考の可能性が変容していく)というより、中動態が自動詞(再帰動詞)/受動態に順調に発展していった、と考えてしまうのは安易なのだろうか。

「意志と責任の考古学」という副題からすれば、むしろ、他動詞にせよ自動詞にせよ、「主語」の存在が要請されていくプロセス(本書では第6章でそこへの言及があるが)を手厚く考えていくほうが有益なのではないか、という気がする。

……と、このように書いてしまうということは、要は、この本はとても面白かったのですよ。特に第6章「言語の歴史」はワクワクする。

そして、教養課程で結局1単位も取れなかった古典ギリシャ語・ラテン語も、やっぱりちゃんと勉強しておけばよかった/今からでも勉強してみたい、と痛切に感じてしまう。

あとがきで著者が触れている、古典ギリシャ語の再学習に取り組んだり、『エチカ』ラテン語暗唱に励んだりするあたり、学問することの楽しさが横溢していて、本当によいなぁと思う。

 

三浦豊『木のみかた 街を歩こう、森へ行こう』(ミシマ社)

「コーヒーと一冊」という、コーヒー片手に読み切れるくらいの体裁をコンセプトとするシリーズ(詳しくは→ http://www.mishimasha.com/coffee/ )

このシリーズの本を読むのは2冊めなのだけど、最初に読んだ『透明の棋士』と同様、この本も、軽い体裁とは裏腹に内容はかなり濃い。再読必至。

銀杏や松、欅といった、都市に住んでいてもわりとよく目にする木はもちろん、名前はよく知っているがあまり意識しない楠や桐、椋、榎、さらにはあまり聞いたことのない神樹や臭木といった木に至るまで(他にもいろいろ)、別に深山に踏み入ることなしに体感できる「森」を案内していく。

公園や神社仏閣など、緑のある身近な場所に行きたくなることはもちろん、もっと分厚い樹木図鑑がほしくなることは必定の一冊。ただし、歩いたり運転したりする際によそ見が増える危険はあるが。

これを読んで、京都に行く際に訪れたい場所が1つ増えた(糾の森)。

 

黒田日出男『絵画史料で歴史を読む』(筑摩書房)

近々京都に行く予定があるのだけど、先日知人夫妻が訪れたという京都国立博物館の特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」の会期に引っかかっているので、覗いてみようかなと(未定ではあるが)。しかし何の予備知識もないので、件の知人が勧めてくれたこの本を読んでみた。

歴史観が変わるような驚きとまでは行かないのだけど、これまた、歴史の深い部分に惹きこまれる面白い本だった。しかし、このサイズの本で、しかもモノクロというのは、絵の細部まで見るにはやや辛い。やはり生を見ないと、か。