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池内恵『サイクス=ピコ協定 百年の呪縛』(新潮選書)

たぶん政治的な立ち位置としては自分と著者とはけっこう乖離があると思うのだけど、専門領域における識見はもちろん敬意を払うに値する。Twitter(現X)上でのコメントでいろいろ絡まれているのを見ると、逆にこの人が真っ当な知識人であることが浮き彫りになってくるような感じ。

この本は2016年刊行なので昨年来のガザの状況とかにはもちろん触れていないし、地域的にももう少し北寄りに重点があるのだが、もちろん昨今の状況を理解する上でも有益。

クルド人をめぐる歴史や現状(といっても10年近く経っているので変化はあるだろうが)にけっこう比重が置かれていて勉強になった。

地図が豊富に挿入されているのもポイントが高いところで、いちいち前の方に戻って地図を参照するといった手間がかからず、読者に優しい。

ただしもちろん、「なるほど、そうすれば解決に至るのか」という分かりやすいソリューションを提示する本ではない。

 

北野充『アイルランド現代史-独立と紛争、そしてリベラルな富裕国へ 』(中公新書)

「八重洲ブックセンター」にバトンを渡した旧「書楽」に、新装開店後初めて訪れ、お祝い気分で何か買うかと思って書棚を見ていて、目についたのが、この本。テーマが今の私の関心にドンピシャなのだけど、レベル的にも新書ならちょうどいい。

ラグビーファンならご存知のとおり、ラグビーの「アイルランド代表」は、アイルランド共和国という国の代表ではなく、アイルランド共和国と英領北アイルランドでプレーする選手の代表。つまり、ここでは国境を越えて、ユニオン、つまりアイルランドラグビー協会が代表を出しているというわけ。

国際試合では試合前に「アンセム」、つまり通常なら国歌が演奏されるのだけど、アイルランド代表の場合、アイルランド共和国内(首都ダブリンとか)でやる試合の場合は、アイルランド国歌(「兵士の歌」)と、アイルランド協会の歌(「アイルランズ・コール」)の2曲、北アイルランド域内(ベルファストとか)や他国でやる試合の場合は「アイルランズ・コール」だけ、という慣例になっている。「アイルランズ・コール」は、「アイルランド島の4つの地方から集まった我々(選手)が、アイルランドの呼びかけ(召命)に応じて肩を並べて立ち上がる」というような歌詞である。

そういう歌に馴染みがあると、では、北アイルランドとアイルランド共和国、つまり「アイルランド島」の統一という話に現実味はあるのだろうか、という疑問が湧いてくる。

もちろん、今から30年ほど遡れば、北アイルランド紛争と称する暴力的な対立があり、テロの応酬があった。昨今のガザの状況などを見ると、ああ、これでまた一世代くらいは恨みが残って問題解決には至らないのだろうなぁなどと暗澹たる気持ちになるのだけど、では、アイルランドの統一もまだ遠い夢物語なのだろうか。

そのあたりを知りたくて読んでみたのだけど、このテーマに関して知識が深まるのはもちろんのこと、それ以外の点についても、いや、やはりなかなか面白い国である。

著者は日本の駐アイルランド大使を務めた方で、しかも、ちょうどアイルランド自由国建国から100周年が近い時期に赴任したので、関連のイベント等で知見を深める機会に特に恵まれたとのこと。

基本的にカトリックの保守的な価値観が優位にある社会で、政治的にも中道保守に相当する二大政党がときおり交代しつつ政権を担ってきた国なのに、世界でもいち早く同性婚の合法化に踏み切るなどリベラルな価値観の台頭が見られる、という面白さの背景をいくつか指摘しているのだけど、私などが読む限りでは、そりゃ、中道保守政党のあいだにせよ「政権交代」があったからでしょ、と思えてしまう。つまり、二大政党の勢力が拮抗していれば、連立によって過半数を占めるために、相対的に少数ではあってもキャスティングボートを握るリベラル左派政党の主張に妥協せざるをえない、と。

立場的に「政権交代があることが望ましい」と取られかねないことは書きにくかったのかなぁ、などと邪推してしまう。まぁそのへんも含めて興味深い。

著者は、自分自身は歴史の研究者ではない、と断り、あとがきではさまざまな専門家に謝辞を述べているのだけど、その中に高校時代の同級生や、年齢的には少し上だが同窓の人が含まれているところに奇妙なご縁を感じる。もっとも、この本を買った時点では、その同級生がこの分野の専門家になっているとは知らなかったんだけどね。

内田樹、中田考、山本直輝『一神教と帝国』(集英社新書)

『一神教と国家』で対談した内田、中田に加えて、トルコの大学で東アジア文化論を教える山本直輝を加えた鼎談。

前作に比べて「一神教」という視点は弱く、もっぱらイスラームの話で、偏りが気になると言えなくもない。

まぁ何よりも、脱線に近い部分が面白くて、特に、ムスリムのあいだでも日本のアニメやマンガが人気で、それを通じて日本語を覚えているので…といったあたり。私はアニメは苦手なのでそのへんの話には疎いのだけど、『ゴールデンカムイ』は読もうかなぁとか、『乙嫁語り』は気になるなぁとか、そっちを印象づけられてしまった。『ゴールデンカムイ』は家人が電子書籍で買ってしまったというが、重複するけど私も買おうかな…。

あとは、大学受験のときに少しは勉強した漢文を学び直してみようかなぁ、とか。

内田樹・中田考『一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教』(集英社新書)

先日『世界史の中のパレスチナ問題』を読んで、

たぶん、国民国家という枠組が有力なままであるあいだは解決できない

という感想を抱いたのだけど、そういえばウチダ先生がこんな本を書いていたなと思い、読んでみた。

対談形式ということもあって、いつものやや乱暴な、というか粗い展開に拍車がかかっている印象もあるけど、とはいえ、まじめに受け止めるべき内容もけっこうあるように思う。タイトルにある「国家」は、ほぼ「国民国家」を指しているのだけど、国民国家という擬制が何が何でもダメで全廃しろ、という話ではない。国民国家がうまくハマる地域や時代、状況もあるし、それがほとんどすべての災厄の原因になってしまうこともある、ということである。人権や自由や平等といった西欧近代的な価値観はかなりの程度普遍的なものだと個人的には思うけど、それを実現していくための体制はいろいろであっていいはずなのだ。

それにしても、国民国家の成立の過程では、ラテン語ではなく各国語による聖書の成立とか宗教改革とかが背景として大きかったと思うのだけど、ラテン語を域内共通言語とするローマカトリックの影響力が十分に維持されていたら、世界はどうなっていたのだろう、という気がする。この本では、キリスト教とイスラーム、ユダヤ教がそれぞれどのように違うのかという点は語られるのだけど、キリスト教に生じたことが、その是非はともかくとして、なぜイスラームでは生じなかったのか、それともこれから生じる可能性があるのか、という点については、残念ながら触れられていない。

臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社現代新書)

古くは古代ユダヤからキリスト教の誕生、そして現代に至るまでの歴史の中に中東・パレスチナ問題を位置づけるという、新書サイズでそれをやるか、という野心的な内容。いちおう知っている内容が多かったけど、平易さをめざして「ですます」調で書かれているせいで、却って読みにくくなっている印象もある。

本書の出版は2013年なので、今まさに展開中の事態について直接的な手がかりになるとは限らないが、かつてはアラブ(諸国)対イスラエルという構図だったのが、どのような経緯で「パレスチナ」に凝縮されていったのかは伝わってくる(何しろ情報量が多いので消化不良にはなるが)。

結局のところ、問題の大半はキリスト教国、もっとはっきり言えば欧米諸国の責任だよな、という話になってしまうのは必然なのだけど、それも数百年にわたる話なので、現代の欧米諸国がきちんとその責任を取るというのも現実的には無理筋。一方で、もちろん、イスラエルのここ数カ月の行為が許される理由は皆無である。

今回のイスラエルによるホロコーストで、問題の解決はさらに30年、あるいはそれ以上先送りされてしまったと思うのだけど、ひとまずは、できるかぎり流血の事態を防ぐ対症療法に徹して、新たな英知が芽生えるのを待つしかない、という気がする。たぶん、国民国家という枠組が有力なままであるあいだは解決できないのだろう。

 

宮沢和史『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)

良さそうだと思って買ったのに「積ん読」状態になっている本を片付けていく年にしようと思っていて、その第一弾。

12月に書いたことだが、沖縄について「恥ずかしくて行けない」という意識を抱いてしまう私のような人間から見れば、ある意味、その先駆者的な立場にある宮沢和史(THE BOOM)の対談集。対談部分も、相手の人選を含めて実に読み応えがあるのだけど、序曲・間奏曲的な宮沢自身のエッセイ部分もとてもよい。

THE BOOM「島唄」を知らない人はほとんどいないと思うのだが、20世紀終盤くらいに唄三線を始めた場合、

(1)「島唄」を聴いて、ああ、沖縄の唄っていいなぁと思う
(2)唄三線を始める
(3)「『島唄』なんて、あれはヤマトの人間が作った紛いもので、本当の島唄っていうのはね~」などと思うようになる(口にする人もいる)
(4)もう少し稽古を積む
(5)「そうか、『島唄』のイントロって…」などと思うようになる
(6)「『島唄』ってきちんと民謡をリスペクトしているよね」と思うようになる

みたいなパターンをたどる人がけっこういたのではないか。たぶん(3)で止まってしまった人も多いだろうけど。

本書には、その「島唄」が作られヒットしていった頃の経緯が詳しく書かれていて、上の流れで言えば、(7)のキッカケになるような気がする。

ちなみに対談部分で言えば、平田太一の章、「斜め」の立ち位置にいる大人についての言及が特に印象的だった。

三牧聖子『Z世代のアメリカ』(NHK出版新書)

かつて書籍翻訳の仕事でお世話になった編集者の方がFacebookで紹介していたので気になった本。

現在の米国の暗澹たる状況を分析しつつ、次代の担い手である「Z世代」による変化に希望を見出している内容。と、まとめてしまうのは粗雑すぎるかもしれない。2023年7月の刊行なので、10月以降のガザの情勢などは反映されていないのだけど、もちろんパレスチナ問題(というより「イスラエル問題」か)への言及もあり、実際に、今回の事態をめぐって報道される米国内の状況を見ると、なるほどと思わせる部分がある。

確かに希望は描き出されているのだけど、「世代」による変化に期待をかけていては間に合わないのではないか、という懸念もある。もっとも、そんなことを言うと英雄待望論に堕してしまって、それはそれでダメだと思うのだけど。

宮本勝浩『「経済効果」ってなんだろう?』(中央経済社)

最近だと大阪万博について「経済効果○兆円」みたいな試算が喧伝されているのは皆さんご存知のとおり。そもそも経済効果って何なのよ、と思って、お手軽にWikipediaを覗いてみると、関西大学名誉教授の宮本勝浩という人が、イベントなどの経済効果の試算を数多く手掛けているようだ。すると、この人の著書を読めば、経済効果の何たるかが分かるのではないか。

そう思って検索すると、『「経済効果」ってなんだろう?』という、そのものズバリの初学者向け啓蒙書があるようなので、さっそく読んでみた。

袖の部分に、

「ザックリこれくらい」「だいたいこんなもの」「このくらいはあってほしい金額」、なんて思っていませんでしたか。

実は、詳細なデータにもとづいて、かなり緻密に計算されているのです。

とある。

読み始めると、「はじめに」に、

私たちは、その数字を見れば、みんなが楽しく、元気になり、日本全体、地域そして業界が活性化するような経済効果の計算をするように心がけている。

とある。むむむ。そうすると「経済効果」というタームが出てくると、必然的に景気のいい話ばかりになるのではないか。

本編に入ると、その印象はますます強まる。阪神タイガースの優勝がもたらす経済効果を試算する例のところで、

また、阪神の優勝で、巨人や他の球団のファンの消費が代替的に減少するので、それらのマイナスの経済効果も考慮すべきであるとの批判も考えられたので、巨人ファンの多い関東地域や、中日ファンの多い東海地域のマイナスの経済効果は推計せず、阪神ファンが圧倒的に多い近畿地域の経済効果のみに分析を限定した(本書24ページ)。

とある(ちなみに2012年刊行なので、今回のタイガースの優勝ではない)。

えええええ! 「との批判も考えられた」のであれば、その批判に耐えうるような分析を行わなければダメなのに、まさにその批判を裏付け強化するようなことをやってどうするの(笑)

まぁこのへんですでに「このくらいはあってほしい金額」でしかないのだなぁということは容易に想像できるのだが、それ以外にも、首を傾げたくなる部分は随所にある。

たとえばAKB48の経済効果の節で、

AKB48の直接効果の推定額は約240億~300億円であるので、その平均値270億円をAKB48の直接効果と考えることにする(本書49ページ)。

とある。この著者は「平均」の意味を理解しているのだろうか。

大阪マラソンの経済効果の節では、冒頭に、

計算の結果、約124億円の経済効果があることが立証された(本書114ページ)。

とあるのだが、読み進めていくと、その「計算」とは「…と仮定する」「…と推定された」の積み重ねである。「立証」と称するには、誰もが同意する確かな根拠から論理的に導くべきではないか。

また、何を経済効果として加算していくかという選択もきわめて恣意的である。たとえばダルビッシュのレンジャーズ入団による経済効果の節では、レンジャーズがダルビッシュに支払った契約金まで経済効果に算入されている。しかしこれは、「ダルビッシュ入団」という出来事を実現するためのコストではなかろうか。

かように、要するに「経済効果」とは、まさに袖に書かれた「このくらいはあってほしい金額」そのもので、まともな経済学的・数学的素養すらない人が、恣意的に情報を選択し、希望的観測に徹して積み重ねた無意味な数字であることが分かる。

まぁ、こんな本を読まなくても、おおかたそんなものであろうと察している人は多いだろうが、人柱として最後まで読んでみた次第である。

安田浩一『なぜ市民は座り込むのか 基地の島・沖縄の実像、戦争の記憶』(朝日新聞出版)

かつて、一番多い年には年に5回も沖縄を訪れていたものだが、近年はすっかり行かなくなってしまった。フルマラソンを走らなくなったこと、コンクールを受験しなくなったこと、「飲み」の楽しみがわりと身近に充足されるようになったことが大きい。

もう一つ、自分にとってけっこう大きいのが、「恥ずかしくて行けない」という理由である。辺野古の新基地建設が始まってしまったからだ。旧態依然たる植民地支配を続けている国の人間であるという自覚があれば、のうのうとその土地に足を踏み入れることは躊躇せざるをえない。

しかしこの本を読んで、やはり、いずれ行かねば、という思いに駆られた。そしてもちろん、その折には辺野古を訪れるのだ(辺野古に限らないけど)。

日本社会が全身から発散している沖縄へ向けての差別と偏見が、真剣に闘っている者に対する嘲笑と冷笑が、それだけ行き渡っているということだ。(本書「あとがき」より)。

西村博之や堀江貴文、高須克弥といった下卑た薄笑いを絶やさない連中に象徴されるように、沖縄の問題に限らず、物事を真剣に考えない、それどころか真剣に考えること自体を嘲笑する風潮が、今のこの社会に広がっているように思う。「闘う君の歌を闘わない奴が笑うだろう」という歌詞そのままに。

 

 

飯野賢治『息子へ。』(幻冬舎)

以前、bookmeterというサイトでこの本の感想を書いたことがあったようで、どなたかが何の弾みで発見したのかツイートしてくれたので、「こんな本読んだっけ?」と。

せっかくなのでkindleで購入して再読。著者はゲームクリエイターとのこと。息子に宛てた手紙という形で、福島第一原発の事故と、原発の是非について語っている。

かつて読んだのは2013年だったようだが、そのとき私は「しごく真っ当な内容。これくらいのことが『常識』になってほしいものです」という感想を書いている。今回も本書の感想としてはそれに変わりはないのだけど、それから10年が経って、「これくらいのことが常識にはならなかったのだなぁ」という苦い感慨がある。もしかしたら、2012年7月にこの社会は後戻りのできない道を選び、未来を捨てたのかもしれないなぁ。