月別アーカイブ: 2021年11月

魯迅『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊)』(竹内好・訳、岩波文庫)、『故郷/阿Q正伝』(藤井省三・訳、光文社古典新訳文庫)

魯迅と言えば確か中学校の国語の教科書に載っていた『故郷』と、たぶん『藤野先生』くらいは読んだかはずだが、有名な『阿Q正伝』や『狂人日記』は読んだことがなかったなぁ、と思い、読んでみることにしたのだが、新訳も出ていることを知り、それほど長い作品でもないのでいくつかの作品だけでも読み比べてみよう、と両方に手を出した(結局二冊ともすべての作品を読んだ)。

いったいに短編小説というものは、読者にとっては読むのに時間を要さず気軽に読める一方で、「そもそもどういう話なのか」が捉えにくく難解に思えることも多いように思う。魯迅の作品集にもそういった難解さはあるが、それでもとにかく、その状況の中での人間の悲哀や愚劣さ、それに対する作者の冷徹でもあり温かくもある眼差しはまっすぐに伝わってくる。

代表作である『阿Q正伝』については、今回魯迅の作品を読むきっかけとなった、日頃お世話になっている自転車屋の主人のブログの作品評がまことに優れているので、それを是非読んでいただきたい。→「阿Qとその周辺・・・

定番である竹内好訳と新しい藤田省三訳の比較だが、なるほど「新訳を出さねば」という志にふさわしい成果は出ているように思う。竹内訳にどのような不満や異議を抱いて新訳に臨んだかについては、藤田訳のあとがきに詳しく書かれており、それを信ずるのであれば、むしろ新訳の方が取りつきにくいものになっても不思議はないのだが、そうはならないところが時代の差でもあり訳者の工夫でもあるのだろう。訳出の方針以外にも、藤田訳のあとがきは大江健三郎や村上春樹への言及など、なかなか面白い。

といって、竹内訳はもう捨て去っていいのかというと決してそのようなことはなく、とにかく、作品に描かれている社会の文化や慣習、制度などが訳注で丁寧に解説されているのが有難い(煩わしく感じる人もいるかもしれないが)。その竹内訳を先に読んだからこそ、藤田訳をすんなり読めた部分も大きいかもしれないので、藤田訳を上に評価するのはフェアではないかもしれない。もちろん、私も含めた、一定の年齢より上の世代が読んできた魯迅作品というのは、竹内訳がベースになっているのだろうし。

二つの訳の比較はともかく、ふと、国語の教科書に『故郷』を載せることを選んだ教科書編纂者が子どもたちに何を読んでもらいたかったのかというところに、思いを致してしまうのだ。

 

明日香壽川『グリーン・ニューディール』(岩波新書)

以前お世話になった編集者の方が勧めていたので読んでみた。

少し前に読んだジェンダー関係の書籍でも思ったことだが、これもやはり、ときどき知識や考え方をアップデートしていていかないといけないテーマ。

日本の常識は世界の非常識になっていたりするので。

現代社会のさまざまな問題に通底する宿痾が「資本主義」であることも、もはや新鮮味がないほど頻繁に指摘されているのだけど、本書はいちおう、新自由主義的な枠組みを否定しつつも、資本主義の枠内で地球温暖化・気候変動の問題を解決していくというのが基本的なスタンスになっているようで、「資本主義の克服」といった主張に忌避感を持つ人にも受け入れられやすいかもしれない。

ただしその理由は、楽観的な生温いものではなく、その正反対である。資本主義の克服といった長期的な視点で話を進めていっては、手遅れになるからだ。「ゆっくり勝つことは負けることである」という著者の指摘には、控えめに言って慄然とせざるをえない。

で、岸田首相がCOP26で「化石賞」を頂いたことに象徴されるように、まぁ現在の日本はこの問題においてもダメダメなわけで、産業も社会も世界に取り残されていくのだろうな、というのが残念なところ。まぁ何はともあれ、Fridays for Future TOKYOのTwitterアカウントをフォローしてみたりする(FacebookのFridays for Future Japanはすでにフォローしていた)。

著者自身も、希望的観測が難しいことを認めているのだが、本書末尾近くで紹介される、それでも微かな希望につながる動きの例がウェールズであるのは、あの国(本書では「国(カントリー)」と表現されている)に親しみを抱く身としては、少しばかり救われる思いがする。

 

『教科書名短編・科学随筆集』(中公文庫)

たぶん中学の国語の教科書だったと思うのだが、桜の花や松の葉が風もないのに音もなく散る情景から書き起こす随筆を読んだ記憶があって、最終的に何を言わんとする文章だったかも、表題も、著者の名前すらも覚えていない。

先日、まさに松の葉が音もなく散り落ちる様子を目の当たりにして、そんな文章があったことを思い出し、また読みたいと思ったのだが、そんなわけで探し当てられない。一つ年上で同じ中学に通っていた姉に聞いてみたのだが(そもそも姉が気に入っていた文章だったように思う)、確かにそういう作品があったことは覚えているが、やはり著者の名は覚えていないという。今も電話をする仲だという当時の国語教師にも問い合わせてくれたのだが、やはり分からない。

私は、詩人・歌人の筆になるものだと記憶していたのだが(すぐに浮かんだ名前は大岡信)、姉は、ひょっとしたら科学者による随筆だったかもしれない、と言う。

という経緯で読んでみたのが、この本(前置きが長い)。

残念ながら探していた作品はこの中には見当たらなかった。とはいえ、科学者による随筆といえばまずこの人、と名の挙がる寺田寅彦に始まり、中谷宇吉郎、湯川秀樹、岡潔以下、錚々たる顔ぶれによる名作揃い。特に中谷宇吉郎の数篇が良かったように思う。中学校の国語の教科書に収録されたものなので、どれも難解というほどではないが、しかし、このあたりをさらさらと読める中学生はなかなかいないのではないか。

 

※ そして巻末の既刊紹介の広告ページを見ていて、ふと、そうか、ドナルド・キーンの文章という可能性もあるかな、などと思いついてしまった。

 

『源氏物語(六)柏木~幻』(岩波文庫)

それにしても紫の上は、幼少時に拉致(?)されて以降、基本的には、いわば御簾の内だけで生活しているわけで、たとえば海を見ることなく死んでいったのだろう。対照的なのは玉鬘で、はるばる九州にまで渡り、船旅も経験したであろうし、おそらくはさまざまな見聞を重ねた上で帝に嫁いでいる。源氏自身も、不遇の時期がなければろくに海など見ることもなかったはずだ。現代においては、一般論としては、社会的に上位の人間の方が国外に足を運ぶなど見聞を広める機会に恵まれているところ、この時代には地元から一歩も離れずに生活できることが特権だったのだろう。「歌枕見て参れ」が左遷の辞令なのだからなぁ。

それにしても夕霧、父親に輪をかけてしょうもない奴…。

さて本編はこの巻で終わり。「宇治十帖」はどんな話なのだか、本編以上に、よく知らない。

小田中直樹『歴史学ってなんだ?』(PHP新書)

ふと見かけた著者のTwitter投稿がキッカケで読んでみた。

「事実(史実)を知ることは可能なのか」「歴史(学)は役に立つのか(役に立つとすればどのように役に立つのか)」といった問いを軸に、タイトルの「歴史学ってなんだ?」というテーマを突き詰めていく本。例として挙げられる従軍慰安婦論争というセンシティブな問題については、三者三様の立場をもう少し整理して提示してほしかったような気もするが、二つの問いへの取組み方は誠実な印象を受けるし、自然科学との対比はもちろん、哲学からサブカルチャーに至るまで、著者の幅広い関心を反映した考察は面白く、そこから引き出される結論も納得がいく。

何よりこの本が危険なのは、紹介されている参考文献が魅力的なこと。特に直接歴史に関わる文献は新書や○○ライブラリーなど著者の言う「啓蒙書」中心で、非常に取っつきやすそう。著者が「愛読書」という良知力『青きドナウの乱痴気』を筆頭に、網野善彦『日本社会の歴史』や松田素二他『新書アフリカ史』が気になるところ。

背伸び志向のある高校1~2年生がこの本を読んで歴史家を志してほしいものだが、さすがに難解だろうか。いや、けっこう読めるのではないかと思うが。

平尾剛『脱・筋トレ思考』(ミシマ社)

しばらく前から読み始めてはいたのだが、先に読んだ『スポーツ・アイデンティティ』で著者の名前が出てきたこともあって、一気に読了。

競技スポーツ界における筋トレ(ウェイトトレーニング)偏重の風潮に異を唱える本なのだが、単純に「筋トレはダメ、やらない方がいい」と断じるものではない。むしろ、特に序盤では、著者が若きラグビー選手として熱心に筋トレに励んだ時期に味わった筋トレの楽しさや喜びが実にイキイキと描写されていて、読んでいるこちらも「よっしゃ、腕立て伏せやるか」という気になってくるのが面白い。そういう点も含めて、著者の筋トレに対する視線が非常にフェアであることが、この本の価値を高めている。実際、「それでも筋トレが必要なら、こういう風に取り入れれば弊害も抑えられる」という処方箋をきちんと提示しており、「筋トレはいますぐ止めなさい」といった安易な内容にはなっていない。つまりこの本は筋トレの守るべき領分をきちんと画定し、その「越権行為」を戒めるものであって、要はカントの主著でいう「批判」の意味における「筋トレ批判」なのだ。

後半は「筋トレ批判」から少し離れ、筋トレによって失われる・損なわれる可能性の高い「身体知」を細かく見ていく構成。どこまで著者のオリジナルなのか、単に著者がこれまで学んできた内容を整理した部分が大きいのではないか、という印象もあるが、いずれにせよ興味深いことは間違いない。日常の立ち居振る舞いの中でも、そうした身体知を感じ、高める道は豊富にある、というのは、恐らく武道の修行にも繋がる考え方なのだろうと思わせる。