わりと良い評判を聞いていた、猫絵本。
まぁ悪くはないんだけど、実際に猫と暮らしている身としては当たり前というか、うん、そんな感じだよね、という印象。
私事ではあるが(ってここに書いていることはほとんどすべて私事だが)、家人は小学生の頃アメリカで過ごした時期があって、教育が日本語で行われていれば同等かそれ以上に優秀な生徒であっただろうに、現地校では単に英語ができないというだけの理由で、周囲の生徒たちに「ちっちゃな子ども」としてミソッカス扱いされた悲しい経験があるという。まぁ、子どもの目から見れば言語の壁なんて分からないのだから、「ちゃんと言葉を喋れない」というのは「自分たちより幼い」と同義であると考えてしまうのも無理はないのだが。
この本は、演出家・劇作家の鴻上さんがロンドンの名門演劇学校に「1年生」として飛び込んで、かの地で蓄積された演劇訓練の体系を学んでくる体験記…なのだけど、言葉の壁に苦労するという意味で、英語学習奮闘記としての側面がかなり大きく、そして面白い。状況としては上記の家人に近いものがあるのだが(それどころか、何しろこちらは母国では大成功を収めた人気劇団の主宰であり、イギリスでの公演も成功させているのだ)、幼い子どもであった家人とは違って、自覚して飛び込んだ大人なので、自分自身と周囲の状況に対する観察は徹底している。それも英語とそれ以外(著者自身の日本語や、ロシア語やイタリア語)という軸だけでなく、英語内部の多様性にも言及されていて、そこからイギリスの階級社会・文化にまで話が深まるところが良い。
当然ながら最後には「別れ」が来ることは予想できるので、読んでいるうちにだんだん切なくなってくる。この人が書くものは(「ごあいさつ」もそうだけど)たとえフィクションでなくても良質のフィクションのように心を揺さぶる。
あ、もちろん本題のもう一つの側面である演劇訓練の方もとても面白かった。私は大学~社会人の初期に零細劇団でいろいろやっていたけど、既存の劇団に「新入生」として入ったわけではないので、公演に至る前段階としての基礎訓練みたいなのってほとんどまったく経験がない(常に、具体的な公演に向けた準備でしかない)ので、そうかぁ、こういうことをやるのねぇ、という感じ(まぁ話には聞いたことがあるけど、というくらい)。
先月、無名塾による上演を観たのを機に、同公演で採用された訳で読んでみた。むろん内容については、最近舞台で観たばかりなのでそのときの感銘が再現されるだけで、改めてということは特にないのだけど、訳者による解説が情報量豊富で「なるほど」と思わせるところが多く、たいへん面白かった(少しばかり、決まった見方を押しつけるような雰囲気がなくもないが、それは何というか、大学の講義のような感じなのかもしれない)。
編集面で二点、注文を付けたい。
巻末に訳注がまとめられているのだが、これを参照しながら読み進めるために訳注の最初に栞を挟んでおくと(ということを私はよくやるのだが)、向かいのページにある終幕の台詞が目に入ってしまう。まぁ非常に有名な作品でもあるし、その「結末」がどこまで重要かと言えなくもないのだが、とはいえ何かしら配慮があったほうがいいのではないか。もちろん私個人には実害はなかったのだが、初読(舞台も未見)の人は、とりあえず注は気にせずに読み進めた方がいいかもしれない。
第2幕最初の方(本書p49)のアルカージナの台詞にある「コム・イル・フォー( comme il faut かな?)は訳注をつけた方がいいような気がする。直後に「つまりきちんとしているわけ」と本人が言っているので意味は伝わるけど、第4幕のソーリンの台詞「ロム・キ・ア・ヴリュ( L’homme qui a voulu )」に訳注が付いていることを思えば、バランス的に…。
岩波文庫の新訳は14巻完結予定で、すでに刊行された12巻まで読み、ラストもだいたい噂(?)には聞いているので、そろそろネタバレを恐れる必要もあるまいと思い、次の13巻が出るまでの繋ぎとして、これを読んでみた。
それでも、「え、あの人そうなっちゃうの?」というネタバレがいくつかあった……まぁそもそもストーリー展開にワクワクしながら読むというような小説でもないのだし、そもそも本書自体が、『失時求』に恐れをなして二の足を踏んでいる人のためのガイドブックを意図している部分もあると思うのだが、そうしたガイド無しで読み進めてきた身としては、ちょっと早まったかなという感じ。
とはいえ、『失時求』のどういうところを楽しめばいいかを的確にまとめているという点ではよくできた本。むしろ、作品自体を読む気はないけど、どんな作品なのかは知っておきたい、という人にお勧めしたい。
その一方で、これを読んだことで、また作品そのものを最初から読み返したい気になってしまったのも事実。危険である。
以前からタイトルだけは知っていたSFの古典(だと思う)。何かの拍子にふと思い出し、読んでみた。
地球の自転が止まり、太陽に照らされ続ける半球では植物が進化・繁茂して地上の支配者となり、反対の半球は闇と寒さに覆われた死の世界になる、という設定。ほとんどの動物が絶滅するか植物の支配下で細々と生きるなかで、大幅に退化し、わずかに生き残った人間の物語。
奇想天外、荒唐無稽。まさに空想科学小説というか、奔放な想像力/創造力の産物という感じ。『スターウォーズ』的に奇抜な生き物もふんだんに出てくる。
ただ残念ながら、それほど面白いとは思わなかった。私がSFとして最も楽しめるのは、誰かが小松左京のいくつかの作品について言っていた、「一つだけ大きな、ものすごく大きな嘘をつき、その設定のもとで、それ以外の点については徹底的にリアルである」というタイプなのだと思う。
「これ、収拾つかないよな、三部作とかで続きがあるのかな?」と思っていたら、バタバタと一気に終った。読後ちょっと情報を探ったら、元々は5編の短編集だったものを1本の作品としてまとめたらしい。展開の無理矢理感は、そのせいかもしれない。
※ ネタバレになってしまうのだけど、これまた『スターウォーズ』に喩えれば、先輩ジェダイたちが「我々の時代は終った、後は君たちに任せる」と遠方に去るのだけど、その遠方の地である秘密に気づき、帰還の旅に出発する。残されたルークたちが生命の危機にさらされながら奮闘しているのだけど、先輩ジェダイたちは全然戻ってこないので、観客である我々はやきもき。ついに戻ってきたと思ったら、どちらかと言えば敵役だった奴の話に納得して、そいつと一緒に「じゃ!」とまた遠方に去ってしまう。ルークたちが一緒に行かないというのは自主的な判断なのだけど、観客としては「え~っ!」という感じ(笑)
これも8月の早川書房kindle半額セールで購入。
たっぷりとしたボリュームと内容の「しんどさ」ゆえに、読了に時間がかかったが、たまたま本庶氏のノーベル医学・生理学賞受賞とタイミングが合ったこともあり、興味深く読んだ。
こういう本を読むと、いずれ自分ががんになった場合でも、いわゆる代替療法を試す気にはならないだろうなぁ、と思う。これだけ複雑ながんの仕組みが、先人の努力と苦労の甲斐あって、ここまで解明されているのだから、それに「乗っからない」手はないよな、と。
しかしその一方で、この本を読んでいると、手術にせよ化学療法にせよ放射線にせよ、非人道的とさえ言いたくなるような治療がどれほど行われてきたかというのも思い知らされるので、代替療法にすがってしまう人の気持ちも分からなくはないのだよね…。
がんの克服に向けた辛い道のり(まだ終っていない)が本書のメインなのだけど、がんが死亡原因の上位に進出してきたのはそれほど昔のことではない(昔は、がんになる以前に、今では治しやすい病気で若くして死んでしまっていたから)とか、決定的な治療法が発見されるよりも先に死亡率が大きく低下した疾病はいくつもある、みたいな話も面白い。
※ そして本筋とは関係ないけど、ところどころに「正常細胞はみな同じだが、悪性細胞が不幸にも悪性になるまでには、それぞれ独自の経緯を経ているのだ」みたいな遊びがあるのが良い。これは『アンナ・カレーニナ』だけど、「確かこれ、『ノルウェイの森』にあったのでは」という一節も見つけた。
昔(高校生の頃?)読んだのは、これではなくてたぶん『哀愁の街に霧が降るのだ』の方だと思うのだけど、何となくこれを買ってしまった。
自分も昔はこういうのを面白いと思って読んだのだなぁ、という印象。巻末の目黒考二との対談で「昭和軽薄体」として言及されている文体も、冗舌で煩いだけのように思えるし、自由奔放な内容も、いま読むと暴論というだけで、もちろん新鮮さもないし特に面白くもない。もっとも目黒との対談のなかでも「思ったほどひどくないよ」「当時はオレも面白かったんだから、それがこんなに印象が違うとは思わなかった」と言われているので、まぁ本人含め親しい間柄でもそういうものなのだろう。
出版は1979年か。バブルと呼ぶには早いけど、「昔はこういうのが受けたんだな、でも…」という意味では、バブル感の色濃い作品である。