月別アーカイブ: 2022年12月

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(5)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、年内に読了。

この巻は、作品そのものはエピローグだけなので短い。その後は、訳者によるドストエフスキーの生涯と本作品についての解題。

印象的なのは、この小説は未完である、という点。むろん著者自身が冒頭で、これは今から13年前の事件を描く「第一の小説」であって、本当に大切なのは「第二の小説」である云々と断っているので、この先があるなという感覚は当然なのだけど、とはいえ、これを完結した「第一の小説」として扱っていいのかとさえ思うほど、ラストの「放り出され」感は強い。だからこそ、いろいろ解釈の余地のある作品として名を残しているのかもしれないが。

賛否の分かれる新訳ということで、訳者・亀山郁夫の解釈を押しつけすぎというレビューも目にしたが(「妄想」とまで断じる見解もある)、私としては(もちろんロシア語は分からないのだけど)特に文句はない。「解題」も、なるほどと思わせる部分は多々あるし、何より、他のドストエフスキー作品も読んでみたいと思わせるところが優れている(危険とも言う…)。もっとも個人的には、いくつもの愛称が錯綜するロシアの小説でよくある状況は苦にならないし、そもそも海外小説の翻訳そのものに抵抗がないので、まぁ以前の訳でも問題はなかったかもしれないけど。

まぁ端的に言って実に面白い小説だし、再読は必至なので、恐らくこの訳を購入することになると思う。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(4)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

そういえば追加していなかった。

というわけで佳境の第4巻。この後にエピローグ(5巻)が続くわけだが、ひとまず大団円という感じ。「事件の真相」はもちろん、その後の「悪魔」との対話、巻の後半を占める法廷劇など、おなかいっぱいという感じである。

亡母が文句を言っていたとおり、全編を通じて、やはり皆、怒鳴り散らし、叫びまくっていが、この第4巻の法廷劇はまさにその最高潮という感じである。スメルジャコフの癲癇はもちろん、女性陣のヒステリーも含めて、メンタルが不安定なのは民族的な背景があるのだろうか。

引き続き最終の第5巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(3)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

物語が激しく進行する部分なので、一気に読む(実はこれを書いているのはこの巻を読了してしばらく経っており、すでに4巻も半分くらいまで読んでいる)。

しかし、改めて思ったのだが、たぶんこの作品、高校くらいのときに最初に読んで、その後1回くらい再読したかもしれないと思っていたが、たぶん再読はしていないのだな。だって、話を全然覚えていない。「兄弟」がどういう構成で、作中で誰が死に、誰が殺されるかは覚えているし、この巻冒頭のゾシマ長老の死去に伴う、いわば「逆・奇跡」については記憶があったが、「事件」に至る経緯や男女関係とかはまったく記憶にない…。

というわけで、「ある程度の予備知識はあるけどストーリーはほぼ知らない」という、恵まれた状態で読み進めております。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

件の大学時代の同級生によれば、この第2巻に含まれる「大審問官」と「ゾシマ長老」はこの作品の最大の難所とのこと。確かに「大審問官」の部分は、中断せずに一気に読み通さないと、またその節の冒頭に戻って読み直すことになるような気がする。とはいえ、何がテーマになっているかは明確なので、そこまで読むのに苦労はしないかな…。

ところで、主役級の1人である、「兄弟」の父フョードル。もう老人なのに女の尻を追いかけ回し、道化じみた無礼きわまりない振る舞いでひんしゅくを買う好色爺、みたいな設定なのだが…。

年齢の設定は、なんと55歳。私と同じか、数え年だろうから私より若い。

まぁ『サザエさん』の磯野波平が54歳とか、もうその手の話には事欠かないのだけど。

それにしても、年末恒例の『メサイア』を控えて、こういうキリスト教が重要な主題になっている作品を読むというのは、なかなか味わい深い。せめて福音書くらいは読み返さないといかんよなぁという気になってくる。

とりあえず、勢いをつけて、第3巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(1)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

たぶん最初は高校生の頃に読み、大学に入ってからか、その後の20代の時分に一度は再読しているのだが、そろそろちゃんと読み返さないと、と思っていた作品。

誰の訳で読もうか迷ったのだが、この作品が世界最高の傑作であると主張する大学時代の同級生が、とりあえず亀山訳で読んでおけと言うので、この新訳への賛否は分かれているようだが、アドバイスに従う(彼は複数の訳を読み比べているはず)。

かつて読んだのは江川卓訳のように思っていたが、新潮文庫だったという記憶もあるので原卓也だったかもしれない。家には旧仮名遣いの古いものもあったはずだが、それは米川正夫かな?

亡母が「ドストエフスキーは登場人物がみな叫んだり怒鳴ったりしてばかりで読んでいて疲れる」と悪口を言っていたのを懐かしく思い出す(本人の専門はチェーホフ)。まぁ、確かに(笑)

で、やはり再読して正解と思える面白さ。この第1巻から、さっそく歯応えのある宗教論的な部分があるにはあるが、そういう部分も味わい深く読めてしまうのは、やはり読者としてもそれなりに馬齢を重ねてきた効果なのだろうか。どの訳にするか迷っていたこともあって図書館で借りて読み始めてしまったのだけど、これは買い直すかな(しかしそうすると、どの訳を買うかでまた迷う)。

昨今の情勢を理解するうえで有効かどうかはともかく、「ロシア的」という概念に注意しつつ読み進めていきたい。

勢いがつきはじめると読むのは速いので、すでに2巻に進み、それもそろそろ終わりが見えてきた…。

J.D.サリンジャー『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(金原瑞人・訳、新潮モダン・クラシックス)

下北沢駅東口駅前、ピーコックのビルは建替えの予定があるのだったか、わりと寂れた感じというか、退店してしまった店舗も多いように見えるのだが、3階にある三省堂書店も、同じ街で「B&B」や「日記屋 月日」といった面白い書店が元気な一方で、やや時代遅れの駅前大型書店という雰囲気が漂っている。先日ふと立ち寄ったときも、何かこれといった本が見つかる期待もしていなかったのだが、近々買おうと思っていた本書が目について、何となく「記念」に買ってみた。

竹内・朴『謎ときサリンジャー』影響下でのサリンジャーMyブーム。

サリンジャーの読者にはお馴染みのコーフィールド家とグラース家の物語が共鳴し合うように綴られているという印象。思ったより読みやすいというか、すんなりと話に入っていける感じの短編が並んでいる。ただし、最後の『ハプワース16、1924年』を除けば。

で、その『ハプワース16、1924年』について、訳者あとがき(サリンジャーはそうしたものを付加することを拒否していたはずだが)に「じつに難物で、手がかかった」とあるが、さもありなん、という感じ。ただ、父母に対して「レス」「ベシー」とファーストネーム(の愛称)で呼びかけているのを「父さん」「母さん」に訳してしまうという訳者の決断は、あまり感心しない。確かに訳者が言うように「日本ではありえない」かもしれないし、英語でもそれほど多くないかもしれないが、いくら違和感があるといっても、ここは原作に忠実に訳すべきではないかと思う。その違和感も含めて作品に流れる空気なのだから。村上春樹の『フラニーとズーイー』では、ズーイーは母親に「ベッシー」と呼びかけていた。

そういえば、勤務先の外注翻訳者の家庭では、子ども(当時確か小学生くらいだった)に親をファーストネームで呼ばせていたなぁ。確かに違和感はあったが、そういう教育をする家もあるのだろう、と受け止めていた。思えば、親がサリンジャーファンだったのかも知れない。