今さら文学の読み方?
これも東京新聞の書評欄で紹介されていて、ちょっと読みたくなった本。
基本的に、日本の近代文学(明治維新以降)がどういう「錯覚」に基づいて書かれ/読まれてきたかという話。このあたりの作品を読もうという場合には参考になるかもしれません。しかし、では海外の文学を(翻訳にせよ)読む場合には、こういう捉え方は通用するのか、といった疑問は残ります。その意味で、タイトルは「日本近代~現代文学の読み方」とする方が親切かな。
東京新聞の書評欄で紹介されていて、何となく気になって読んだ本。敢えていえば、『戦争は女の顔をしていない』のロシアつながりかも。
7年という長期、地理的にもけっこう広大な戦地、何カ国も絡む複雑な情勢だったのに、日清・日露戦争と、日中戦争~太平洋戦争に挟まれて、あんまり関心が注がれていないシベリア出兵を集中的に研究した本。著者は私よりもかなり若い、40前の研究者。
この頃の日本の政治家・軍人は、もちろん帝国主義的な動機に基づいて動いているわけで、そのこと自体はまったく評価できないのだけど、それでも他国との駆け引きとか冷徹な国益の計算とか、けっこう「頭のいい」感じで動いていたのだなぁという点に強く印象づけられました。
で、ふと『はいからさんが通る』の背景って、このシベリア出兵だよな、と思い出して、読み返したくなりました……。
少し前に読んだ『フラッシュ・ボーイズ』が面白かったので、他に何かないかと同じ著者の作品を探すなかで、これを選んだ。
やあ、これも面白かったです。
他の人が情報として扱わないデータから情報を得て、他の人が重視する情報を無視する、偶然性に左右される部分は軽視して、そうでない部分に注力する……そういう方法論で競争優位を得る、というような話。
この本は野球界が舞台なのだけど、いま私が一番大きな関心を注いでいるのはラグビーなので、こういう本を読むと当然ながら、「ではラグビーではどうなのだろう」ということを考えてしまう。しかし、そうやってちょっと考えてみるだけでも、野球というのは、チームスポーツのように見えるけど、守備のごく一部の局面を別にすれば、実は個人スポーツの集合体なのだなぁという印象。
でもラグビーでも、たとえば後藤翔太みたいに、「相手よりたくさん走って勝つんじゃなくて、相手の方をたくさん走らせた方がいい」とか、「なるべく最高速で走らないようにする」とか、そういう「え?」と思うような戦略を考える人もいるわけで、なんかそういうのと重なる気がします。
将棋のプロ棋士のほとんどは今やソフトウェアに勝てないとか、株式市場の取引のかなりの部分はすでにアルゴリズムによって人間の判断を介さずに行われているとかいう話に最近触れているので、やはりどうしても人工知能が気になって……。
この著者はいわゆる「シンギュラリティ」(人工知能がさらに優れた人工知能を作り始める「技術的特異点」)に否定的である(というか、その意味付けが過剰になることを避けようとしている)ように読めるけど、そうでない、いわゆる警鐘的な本も読んでみたい……。
ちなみに私がやっている翻訳なんて仕事は、あと10年もすれば機械翻訳に取って代わられて消滅する(職人技的な「翻訳」という仕事は残るにせよ、産業としては成立できなくなる)ような気がするのだけど、この本では、実用的な完全機械翻訳が実現するのはもう少し先のような話になっていました……。