2021年に読んだ本」タグアーカイブ

東山とし子『ぶつよ!―奇跡の焼鳥屋「鳥重」名物お母さんの元気が出る言葉』(講談社)

2021年、最後に読了したのはこの本だった。

こういう副題が付いている本を読むことは珍しいのだけど、もちろんこの本を手に取ったのは「元気が出る言葉」を求めてではなく、「鳥重」への懐かしさに駆られてのこと。この本の存在はだいぶ前に知ったのだけど、12月に恒例の『メサイア』後の焼き鳥ディナーを経て、焼き鳥と言えば、と思い出して読んでみた。

私が初めて「鳥重」を訪れたのは、たぶん1989年。新入社員だった私は、何かの企画で(確かモンゴルだかネパールだかの画家の展覧会だったような気がする)隣の部署だったギャラリー部のイイダさんの補助をすることになったのだが、そのイイダさんがこの店に連れて行ってくれたのだ。当時は本書で語られているほど予約の取りにくい店というほどでもなかったはずだが、それでも人気店で、しばらく店の前で席が空くのを待つことになった(この本によれば3交代の入れ替え方式で営業していたようだ)。その晩は雨が降っていたのだが、彼は「ここが美味いんだよ」と繰り返し、あくまでもそこで飲むことを主張した。周囲に他に飲む店はいくらでもあるのに敢えて雨の中で待つほどなのだろうかと半信半疑だったが、いざ入ってみたら、その味とボリュームと値段に驚倒した。

イイダさんは私よりだいぶ年上だったのだが(それでも今の私よりはかなり若かったに違いない)、確か中途採用だったはずで入社してまだ日も浅く、その分、同じく会社に馴染んでいない新入社員の私に幾許かの親近感を抱いてくれていたように思う。周囲に才気あふれる感じの人が多い中でひときわ地味な印象だったが、優しい人だった。私は早々に転職してしまい、その後はまったく接点がなくなってしまったが、お元気なのだろうか。

「鳥重」には、その後は自力(というのも妙だが)でも何度か訪れ、「お母さん」からは、息子さんがラグビーをやっているという話も聞いた。確か目黒(現・目黒学院)か本郷か、当時の私でも知っているくらいの強豪校だったように思う。

誰もが「とりしげ」と呼んでいたようだが、本書によれば、本来は「とりじゅう」だったらしい。

渋谷で働かなくなってからは足が遠のいてしまったのだけど、本書によれば、常連だった有名芸人がテレビで名を挙げたことで、きわめて予約を取りにくい店になってしまったようだ。

この店は、2010年代前半に廃業してしまった(本書を読んだのに年が正確でないのは、元号での表記が苦手で年を覚えられないから。平成25年だか26年だか、そのあたり)。

今はもう無い、記憶に残る店の一つである。そういう店はいくつもあるが、こうして本になって記録が残されているのはありがたい。浅井愼平による写真も良い。

 

 

 

 

 

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)

9月上旬、いつもの駅前の書店でふとこの本が目に入り、サリンジャーはそれほど思い入れのある作家ではないのだけど、著者の名前に懐かしさを覚えて手に取った。パラパラと立ち読みしたところ、どうやら少なくとも『バナナフィッシュにうってつけの日』(『ナイン・ストーリーズ』所収)と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでおいた方がよさそうで、その二冊を読み終えるメドが立ってから、こちらも購入(『ナイン・ストーリーズ』の最後の一篇『テディ』も本書を読む上では重要)。

自転車通勤の最大の難点は通勤時間中に本を読めないということなのだが、本書を読み終えるまでは、天気が良くても自転車通勤を断念するほどだった。

つまり、それくらい面白い。

そして、読み終わった後、せっかく「予習」として読んだ二冊をまた読み返そう(というより、本書を読みつつ、座右に置いた件の二冊のページをめくることも多かったのだが)、さらには他のサリンジャー作品もすべて、ひょっとしたら原語で読もうかという気になっているのだから恐ろしい。本書の「謎とき」においては「そんなの、他の作品も全部読んでなかったら知らないよ!」と言いたくなる部分もあるのだけど、むしろ「それなら他の作品も全部読まなきゃ」と思わせるところ、著者としては英米文学業界に貢献するところ大と言えよう(といっても、上記二冊はさすがに読んでおいた方がいいと思うが、他は本書中で丁寧に言及されているので、先にこれを読んでしまっても大丈夫)。

小説を読むのは好きだが研究者ではないので、最近の文学評論の趨勢がどうなっているのかさっぱり分らないのだけど、素人ながら、この本はテクスト批評と作家理解のバランスが取れているように感じる。第二章・第三章あたりの時間論的な部分は読者によってはハードルが高いかもしれないが、曲がりなりにも哲学科出身としては、そのへんはむしろ馴染み深い領域なので特に興味深かった。

ビリヤードの比喩が何度も繰り返し出てくるのは、もちろんサリンジャーの作品中で言及されているからという理由が大きいのだろうけど、そういえば我々が大学に在学していた頃にプールバーなるものがやたらに流行っていたのだよなぁ、などということも思い出す。

ああ、この本を学生の頃に読んでいたら、ひょっとしたら私も文学研究を志していたかもしれない。たぶん著者の研究室は優れた文学研究者を輩出している(&することになる)のだろう。何より、「あとがき」で触れられている研究室の雰囲気がいかにも楽しそうで羨ましい。

 

河岡義裕・編『ネオウイルス学』(集英社新書)

ウイルスを、疾病をもたらす悪玉としてのみ捉えるのではなく、「ウイルスを地球生態系の構成要素として理解」し(本書299ページ)、究極的には「偏見のない視点で地球環境に生存するウイルスの全体を自然科学的にとらえる」ことを目標とする「ネオウイルス学」と称するプロジェクトを紹介する本。

編者の他18人の研究者(馴染み深い存在となった西浦博さんも含まれている)が、自分がどのような経緯と動機に基づいてどのような研究に取り組んでいるのかを紹介していく構成。

たいへん分かりやすく興味深いのだけど、何というか、これから自分の専門を決めようという大学の新入生が「どの先生のお世話になろうかなぁ」と考えるときの進路資料としては好適であるように思うのだけど、一般の読者が一冊の本として読むにはむしろ物足りないというか、「あ、この人の研究は面白そうだ!」と思っても、すぐに次の人の節に移ってしまうので、だいぶもったいない感じ。西浦博さんのように一般向けの単著を出している人なら、それを読めばいいのだけど。

そうだ、出版関係の人がこの本を読んで、「よし、この人にこのテーマで一般向けの本を書いてもらおう」といった具合に企画の参考にすると良いかもしれない。そして、出来上がった本を我々が読む、と(笑) というわけで、出版関係の知人の皆さま、ぜひ一読をお勧めします!

 

栩木伸明『アイルランド紀行 ジョイスからU2まで』 (中公新書)

ラグビーを愛好する者として、やはりアイルランドという「くに」は特別な存在である。ワールドカップを契機にそのへんの理解はだいぶ広がってきたと思うが、ラグビーの国際試合における「アイルランド代表」は、アイルランド共和国の代表ではなく、アイルランドという「しま」、つまりアイルランド共和国と英領北アイルランドの連合によるものであり、したがって、国際試合で歌うアンセム(日本代表なら「君が代」)も、アイルランド共和国国歌ではなく、その目的で作られたものだ。我々はアイルランドの召命(Ireland’s Call)に応じて4つの地方(Province)から肩を並べて立ち上がる、という、控えめに言って「熱い」曲である。

さて、そういう「アイルランド」に触れていると、現状では2つに分かれている「しま」を統一しようという動きはあるのか、それとも宗派の違いに根ざす過去の対立は今も深く根ざしているのか、英国のEU離脱で、そのへんはどうなっているのか、みたいなことが気になってくる。

で、元々はそういうリアルタイムな現代史や社会事情に詳しく触れている本を探していたのだけど、なかなか見つからない。

本書は、その意味では「これは私が求めているものとは違うんだろうな」ということを承知のうえだったのだけど、あえて手に取った。Amazonの紹介を見ていたら、それでもやっぱり面白そうに思えたからだ。何しろこちらは、four proud provinces of Irelandの名前と位置関係さえも分かっていないアイルランド初心者なのである。

著者についてはよく知らないのだけど、詩を主な対象とする文学研究者と思われ、この本ももっぱら、今日のアイルランドの情景をイェイツやジョイスを筆頭に主として文学の視点から描いていく内容。文章は抑制がきいていて美しく、取り上げられている作品に馴染みがなくても読み進むのが苦にならないほどに親切である。

印象的だったのは、民話や民謡に近い詩的なテキストについて、普通であれば「翻訳」と言うべきところを「吹き替え」と書いているところ。「では、この歌の一部をちょっと吹き替えてみよう」みたいな感じで。最初はけっこう違和感を抱いたのだが、そうか、冒頭の部分にも示唆されているように、この著者はそれが「声」として聞えてくることを大切にしているから、「翻訳」ではなく「吹き替え」と書いているのだろうな、と察せられる。そして、確かにその意図は成功しているように思われる。

 

サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(村上春樹・訳、白水社)

『ナイン・ストーリーズ』に続いて、こちらも。

いつもの駅前の書店で、定番の野崎歓訳か村上春樹訳のどちらかを買おうと思って書棚を探したら、2冊が隣り合って陳列されていた。こういうのが本好きの心に訴えるところで、新潮文庫はともかく、白水社なんて、この規模の本屋では独立した棚が用意されているわけでもないから、野崎訳だけが他の新潮文庫と一緒に置いてあって、村上訳はさてどこだろうと探すことになるより、よっぽど親切である。

両方をパラパラとめくってどちらにするか考えたのだが、昔読んだ野崎歓訳にも、自分はそれほど思い入れはないなぁと感じる。村上訳について好意的でない評価があることもちらりと聞いたし、そもそも清水俊夫訳の『長いお別れ』になじんでいた私としては、村上訳の『ロング・グッドバイ』は数ページ読んで放り出すくらいにダメだったので、彼の翻訳が特に好きというわけではない。でも、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』はそれほど思い入れがないせいか、悪くない訳のように感じたので、そちらを買ってみた。

で、実は若い頃(たぶん高校時代?)に読んだときはそれほどの作品とも感じられなかったのだが、今回はえらく面白かった。何となく無軌道で破滅的な若者の話のような印象があったけど、全然そんなことないのだな。いや、そうなのかもしれないけど、いま読むと、そんな感じはしない。以前よりずっとホールデンに共感できるのが不思議なほど。

この作品を宗教的な視点から解釈する読み方というのはいくらでもありそうだけど、それはさておき、クリスマス前のこの時期に読むと、なかなかつきづきしいものがある。

現代の読み手からすると、同性愛嫌悪がものすごく自然な感情として描写されているように思えるところがいろいろ考えさせられる。影響力のあった作品であることを思えば、ごく自然に「そういうものだ」と刷り込まれた人も私たちの世代にはけっこう多いかもしれない。

 

サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(野崎歓・訳、新潮文庫)

しばらく前に、いつもの駅前の書店で竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー』(新潮選書)という本を見かけ、興味を惹かれて手に取ったところ、まずは『バナナ・フィッシュにうってつけの日』を読んでおかねばなるまいということで、『ナイン・ストーリーズ』へ。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』『フラニーとゾーイー』をいずれも野崎歓の訳で30年以上前に読んだくらいで、『ナイン・ストーリーズ』は初めて。

短編小説は難しい。

わずかなページ数のあいだにスッと作品の世界に入っていかなければいけないし、片言隻句も読み逃してはならない、という気になる。読了するのに要する時間が短い分、読書の強度が高い感じ。私としては、とにかく長い小説が好みなので、そういう短時間高強度の読書はどちらかといえば苦手かもしれない。ひとまず、竹内氏の『謎とき…』で、プロレベルの高強度の読みを味わうのを楽しみに…。恐らくその後でもう一度(あるいは何度か)読み返すことになりそう。

 

 

魯迅『阿Q正伝・狂人日記 他十二篇(吶喊)』(竹内好・訳、岩波文庫)、『故郷/阿Q正伝』(藤井省三・訳、光文社古典新訳文庫)

魯迅と言えば確か中学校の国語の教科書に載っていた『故郷』と、たぶん『藤野先生』くらいは読んだかはずだが、有名な『阿Q正伝』や『狂人日記』は読んだことがなかったなぁ、と思い、読んでみることにしたのだが、新訳も出ていることを知り、それほど長い作品でもないのでいくつかの作品だけでも読み比べてみよう、と両方に手を出した(結局二冊ともすべての作品を読んだ)。

いったいに短編小説というものは、読者にとっては読むのに時間を要さず気軽に読める一方で、「そもそもどういう話なのか」が捉えにくく難解に思えることも多いように思う。魯迅の作品集にもそういった難解さはあるが、それでもとにかく、その状況の中での人間の悲哀や愚劣さ、それに対する作者の冷徹でもあり温かくもある眼差しはまっすぐに伝わってくる。

代表作である『阿Q正伝』については、今回魯迅の作品を読むきっかけとなった、日頃お世話になっている自転車屋の主人のブログの作品評がまことに優れているので、それを是非読んでいただきたい。→「阿Qとその周辺・・・

定番である竹内好訳と新しい藤田省三訳の比較だが、なるほど「新訳を出さねば」という志にふさわしい成果は出ているように思う。竹内訳にどのような不満や異議を抱いて新訳に臨んだかについては、藤田訳のあとがきに詳しく書かれており、それを信ずるのであれば、むしろ新訳の方が取りつきにくいものになっても不思議はないのだが、そうはならないところが時代の差でもあり訳者の工夫でもあるのだろう。訳出の方針以外にも、藤田訳のあとがきは大江健三郎や村上春樹への言及など、なかなか面白い。

といって、竹内訳はもう捨て去っていいのかというと決してそのようなことはなく、とにかく、作品に描かれている社会の文化や慣習、制度などが訳注で丁寧に解説されているのが有難い(煩わしく感じる人もいるかもしれないが)。その竹内訳を先に読んだからこそ、藤田訳をすんなり読めた部分も大きいかもしれないので、藤田訳を上に評価するのはフェアではないかもしれない。もちろん、私も含めた、一定の年齢より上の世代が読んできた魯迅作品というのは、竹内訳がベースになっているのだろうし。

二つの訳の比較はともかく、ふと、国語の教科書に『故郷』を載せることを選んだ教科書編纂者が子どもたちに何を読んでもらいたかったのかというところに、思いを致してしまうのだ。

 

明日香壽川『グリーン・ニューディール』(岩波新書)

以前お世話になった編集者の方が勧めていたので読んでみた。

少し前に読んだジェンダー関係の書籍でも思ったことだが、これもやはり、ときどき知識や考え方をアップデートしていていかないといけないテーマ。

日本の常識は世界の非常識になっていたりするので。

現代社会のさまざまな問題に通底する宿痾が「資本主義」であることも、もはや新鮮味がないほど頻繁に指摘されているのだけど、本書はいちおう、新自由主義的な枠組みを否定しつつも、資本主義の枠内で地球温暖化・気候変動の問題を解決していくというのが基本的なスタンスになっているようで、「資本主義の克服」といった主張に忌避感を持つ人にも受け入れられやすいかもしれない。

ただしその理由は、楽観的な生温いものではなく、その正反対である。資本主義の克服といった長期的な視点で話を進めていっては、手遅れになるからだ。「ゆっくり勝つことは負けることである」という著者の指摘には、控えめに言って慄然とせざるをえない。

で、岸田首相がCOP26で「化石賞」を頂いたことに象徴されるように、まぁ現在の日本はこの問題においてもダメダメなわけで、産業も社会も世界に取り残されていくのだろうな、というのが残念なところ。まぁ何はともあれ、Fridays for Future TOKYOのTwitterアカウントをフォローしてみたりする(FacebookのFridays for Future Japanはすでにフォローしていた)。

著者自身も、希望的観測が難しいことを認めているのだが、本書末尾近くで紹介される、それでも微かな希望につながる動きの例がウェールズであるのは、あの国(本書では「国(カントリー)」と表現されている)に親しみを抱く身としては、少しばかり救われる思いがする。

 

『教科書名短編・科学随筆集』(中公文庫)

たぶん中学の国語の教科書だったと思うのだが、桜の花や松の葉が風もないのに音もなく散る情景から書き起こす随筆を読んだ記憶があって、最終的に何を言わんとする文章だったかも、表題も、著者の名前すらも覚えていない。

先日、まさに松の葉が音もなく散り落ちる様子を目の当たりにして、そんな文章があったことを思い出し、また読みたいと思ったのだが、そんなわけで探し当てられない。一つ年上で同じ中学に通っていた姉に聞いてみたのだが(そもそも姉が気に入っていた文章だったように思う)、確かにそういう作品があったことは覚えているが、やはり著者の名は覚えていないという。今も電話をする仲だという当時の国語教師にも問い合わせてくれたのだが、やはり分からない。

私は、詩人・歌人の筆になるものだと記憶していたのだが(すぐに浮かんだ名前は大岡信)、姉は、ひょっとしたら科学者による随筆だったかもしれない、と言う。

という経緯で読んでみたのが、この本(前置きが長い)。

残念ながら探していた作品はこの中には見当たらなかった。とはいえ、科学者による随筆といえばまずこの人、と名の挙がる寺田寅彦に始まり、中谷宇吉郎、湯川秀樹、岡潔以下、錚々たる顔ぶれによる名作揃い。特に中谷宇吉郎の数篇が良かったように思う。中学校の国語の教科書に収録されたものなので、どれも難解というほどではないが、しかし、このあたりをさらさらと読める中学生はなかなかいないのではないか。

 

※ そして巻末の既刊紹介の広告ページを見ていて、ふと、そうか、ドナルド・キーンの文章という可能性もあるかな、などと思いついてしまった。

 

『源氏物語(六)柏木~幻』(岩波文庫)

それにしても紫の上は、幼少時に拉致(?)されて以降、基本的には、いわば御簾の内だけで生活しているわけで、たとえば海を見ることなく死んでいったのだろう。対照的なのは玉鬘で、はるばる九州にまで渡り、船旅も経験したであろうし、おそらくはさまざまな見聞を重ねた上で帝に嫁いでいる。源氏自身も、不遇の時期がなければろくに海など見ることもなかったはずだ。現代においては、一般論としては、社会的に上位の人間の方が国外に足を運ぶなど見聞を広める機会に恵まれているところ、この時代には地元から一歩も離れずに生活できることが特権だったのだろう。「歌枕見て参れ」が左遷の辞令なのだからなぁ。

それにしても夕霧、父親に輪をかけてしょうもない奴…。

さて本編はこの巻で終わり。「宇治十帖」はどんな話なのだか、本編以上に、よく知らない。