何度目かの再々…読。ときどき読み返したくなる。いまでも「おお、ここはそういうことだったのか」とちょっとした発見がある。
発売は1988年か。大学3年。両親が死んだ年だ。物語には、まだ携帯電話もインターネットも出てこない(当時から存在はしていたはずだが)。「ゲイ」や「おかま」が多少なりとも差別的な言辞として出てくるのが時代を感じさせる。今でもそういう感覚でいる人は多いと思うけど。
そういえば彼の最新作は、義父から借りたきり読んでいない。その前の長編も買ってから数年放置していたしなぁ……。
これも疋田智さんのメールマガジンで知った本。
先日読んだ『集落再生~「限界集落」のゆくえ』との関連も深い内容。高齢化に伴い、自分で車を運転することが困難な人口が急増することが想定されるなかで、交通工学、というより都市計画の観点から、自動車依存の社会をどう変えていくかというテーマ。
いくつか面白い観点が得られた。
たとえば、「人口密度が高い」というと過密で窮屈な印象があって、「人口密度が低い」ほうがゆとりがあって暮らしやすいような刷り込みがあったけど、実はそうでもない。ある程度の人口密度がないと、たとえば商業施設は商圏を広く取らなければ採算が合わなくなり、広大な地域に大型店が一つだけ、したがってそこへのアクセスは基本的にクルマ、という状況になる。そうすると、クルマを運転できない人は生活が成り立たなくなる。医療にしても行政サービスにしても同じこと。そもそも、過疎とか限界集落とかいうのは、要するに人口密度が低くなりすぎちゃってコミュニティとして成立せず瓦解してしまう状況なのだから、まぁ当然か。
あるいは、シェアド・スペースという試み。自動車、自転車、歩行者などの交通をあえて区分せず、歩道もガードレールも設けず、交通標識も信号もなく、ルールなしに混在させる。必然的に、他の交通主体がどう行動するか気にしながら動かなければならないから、自動車の速度は落ち、お互いに配慮するようになり(教習所で言う「かもしれない運転」だな)、結果的に安全で快適な空間が生まれる、という発想。そんな無茶な、と思うけど、「自動車優先」という思い込みをえぐり出してしまえば、少なくとも市街地では成立する。不安感を高める方が安全になる、ということで、これは自転車は車道を通行した方が安全という話にも直結する(クルマに「邪魔だなぁ、危ないなぁ」と思ってもらった方がいい、ということ)。
というわけで、なかなか良い本なのだけど、最後の「締め」がないのがもったいない。数ページの「あとがき」程度でいいので、付けてほしかった。「あれ?」という感じでいきなり読み終わってしまう。
ときどき気になる素数モノ(笑)
著者はいったん数学研究に挫折して経済学に転じ、今は経済学者なんだけど、それまでの素養を活かした数学エッセイなどで人気がある、という人のようで、文章が巧みで面白く読めました。
とはいえ、以前読んだ『素数の音楽』(新潮文庫)同様、途中まではついていけても、本題のリーマン予想あたりまで行くと……というか、いや実際のところはもっと手前から、理屈のうえでの理解という点ではボロボロになります(笑)
まぁそれでも最後まで読ませてしまうところが著者の腕。
あと、量子論でもそうだけど、分からないなりに何冊か読み通すと、少なくとも観念的には把握できるし、少しずつ前進はしている気がする……(そうかなぁ?) 今回は「ρ元体」の話なんかもわりと楽しめたし。
ただまぁ結局のところ、先日読んだプラグマティズム関連で出てくる「数学の哲学」みたいな話のほうが本質的だよなぁという気がしてしまう哲学科出身。
疋田智さんのメールマガジンで知って、興味を惹かれて読みました。
縁あってここ数年訪れることの多い八ヶ岳山麓にも、実質的に耕作放棄された農地はけっこうあるようで(家人の両親はそういう農地を借りていろいろ作っている)、高齢化は言うに及ばず、本書でも触れられている不在地主化(要は、都会に出てしまっている子どもが相続することで、住民以外が所有する土地が増えている)も進行しているはず。
我々が訪れる地域はけっこう前からの別荘地開発が成功していることもあって、そのあたりの人口による需要があるのか、若い世代が新しい飲食店をやっている例もかなりあって、あまり心配はなさそう。とはいえ、そもそも別荘族じたいの高齢化が進んでいる(若い世代は魅力を感じないらしい)ようなので、いつまでも当てにできるのかどうか。
そういう関心がもともとあったので、気になったのです。
基本的には真面目な論文集で、いちおう全体の流れはあるのだけど、一番面白かったのは最後の1本かな。いわゆる限界集落の問題は、石油依存・大量消費の都市中心文明じたいの病であって、再生エネルギー中心・循環型・持続可能な文明への移行にともなって、むしろ中山間地域の都市に対する優位がクローズアップされる、というビジョン。その文脈で、都市郊外の集合住宅などの高齢化ペースが、中山間地域のそれを上回るという展望は、けっこう衝撃的でした。
そういえば、上述の不在地主化について「こういう状況は荘園制以来ではないか」みたいな表現があって、その歴史的な視野に「おおっ」と思ったのも印象的でした。
さて、そんなわけでけっこう興味深く読んだのだけど、この本に限らず、なんかこういう論文集の類を読んでいると、「きちんと整った文章を書く」訓練って、学者・研究者と言われる人たちのあいだでもあんまりしっかり行われていないのだなぁとつくづく思います。編集者がきちんと介入していれば防げるはずの「てにをは」レベルの問題とか、修飾語の順序をもう少し考えれば読みやすくなるのにとか、読点の打ち方の問題とか(まぁ安倍首相の文節区切りの酷さよりはマシですが)……。
むろん、以て他山の石、なのですが。
少し前に、元ラグビー日本代表の平尾剛史さんが勧めていた『物語 哲学の歴史』(中公新書)を読んだときに、「あ~やはりこの部分に馴染みがない」と特に思ったのが、プラグマティズム(と、論理実証主義)。
せっかくなので、上掲書と同じ著者の本で勉強しようかと思って、これを読んでみた次第。
けっこう面白かったです。特に真ん中の「少し前のプラグマティズム」のところ。クワイン、ローティ、パットナムといった顔ぶれ。私が大学に入った頃、必読書のような扱いを受けていた(でも読んでいない)トーマス・クーン『科学革命の構造』あたりも絡んできて、たいへん興味深い。あと、もっと前(プラグマティズムの源流あたり)だけど、大学の頃にけっこう中心的に読んでいたベルクソンなんかも、この流れと親和性が高い。
その名のとおり、実に現実的・実践的で、いろいろな分野に応用が効く、まさしく「有効な」思想なのだということはよく分かります。
というわけで、今後もこの流れには関心を持っていきたいなとは思います(ひとまずクーンを読むかな)。この本も、図書館で借りて読んだのだけど、買っちゃうかも。
ただ、その有効性ゆえに、なんというか「深淵をふと覗きこんでしまった」ヤバさがないんですな。そもそも出発点としてのデカルト主義への批判という意味では、結局のところ、有効な批判にはなりえていないという気もするし。
世の中に、ネットスラングに近いけど「中二病」という言葉があって、要するに中学二年生前後の、いわゆる思春期の頃に、自己愛をこじらせて空想・妄想が暴走するような状況を指すようです。
私が、『自分で考えるということ』というデカルトの思想を紹介する本を読んで、見事にハマってしまったのも、ちょうどそれくらいの時期。しかしあの頃、その代わりにこういうプラグマティズムの哲学に触れていたら、たぶん、そのようなハマり方はしなかっただろうと思う。そういうヤバさが不足している。不足しているというか、それが無いのが優れたところなのかもしれませんが。
そういえば、冒頭に触れた『物語 哲学の歴史』は、妙に現象学の扱いが軽いのも気になったんだよなぁ……。やっぱり、哲学に中二病的にハマるには、デカルト、カント、ニーチェ、現象学、実存主義ですよ!(何をオススメしているんだか)。
邦訳『なぜマルクスは正しかったのか』(河出書房新社)を6年前に購入済みで、積ん読状態だったのを読もうかと思ったのだけど、Amazonのレビューを見たら「翻訳がひどい」という評判だった。「翻訳がひどい」は、実は複雑な内容を理解できない読み手の問題というだけの場合もかなり多いのだけど、どうもそうでもないみたい。
というわけで、いっそのこと原書で読んでしまうことに(もちろんkindle)。英語を読むのは職業柄それほど苦にはしないのだけど、それでもかなり時間がかかった……。イギリス人ぽい味わいのある(←婉曲表現)英語だからという理由もあるのだけど。
でも、内容はとても面白かったです。「マルクス主義は……である」という典型的な10の批判に対して、「それは誤解だよ」という解説を加える構図。マルクスの著書を読んでみたいという気にさせる。
確かにこれは優れた邦訳があってもいいかもしれないなぁ。
翻訳をやっていると、自然科学分野でなくてもときどき補足的な説明として統計用語が出てきて(この調査は……を用い、信頼区間はxxである、みたいな)、「これ的確に訳せているのかな」と不安に思うことがある。高校ではいちおう文系選択だったので、当時の教育課程では3年次の理系科目だった「確率・統計」を履修していないのである(物理は理系クラスに混じって履修していたのだけど)。
というわけで、何となく手にした、この本。
読書の目的は達したけど、満足感はない。分かったようなふりをして、間違いのない表現をすることは、これでたぶんできるようになった。恐らく、Excelとかを使って実務的にデータ処理をするにも、この程度の知識で十分なのかもしれない。
でも、表題にある「中学数学でわかる」というのは、要するに「なぜそうなるのか」という証明や導出過程は全部スッ飛ばして、「これはこういう性質なのだと覚えておいてください」「これはコンピューターで簡単に求められます」で済ませてしまう、という意味である。
というわけで、少しも面白くないのであった。まぁこういうタイトルの本に知的満足を求めちゃダメだというだけの話なのだけど。
この著者の本は『素粒子論はなぜわかりにくいのか』『量子論はなぜわかりにくいのか』に続いて3冊目。
いちばん読みやすかったのが『素粒子論は……』で、「なぜわかりにくいのか」がよく分かった気がする。次に読んだ『量子論は……』は、「わかりにくい」ということだけはよく分かったが、それでもけっこう面白かった。
で、3冊目の本書は、分かりやすかったとはとても言えないのだけど、とても興味深いものだった。
陽子+中性子=原子核の周りを電子が飛び回っていて、内側の軌道から電子の数が2、8、8 … になっていて、みたいなモデルは、たぶん中学校くらいの理科で習ったはず。
量子力学や場の量子論はそれよりはるかに難しい話なのだから、そういう理論が出てきたのは原子モデルよりずっと後なのかと思うと、実はそんなことはない。理論の方が先なのだ。へえ~(って当たり前かもしれないけど)。
私が多少なりとも馴染みのある哲学の世界だと「存在する」とはどういう意味か、なんて問題意識が必ず出てくるのだけど、こういう本を読んでいると、「『存在する』とは、ある理論によって可能な限り多くの事象が説明できる場合、その理論の意味において『存在する』ことである」みたいな循環的な定義に至りそう。
場の量子論(あるいは量子場の理論)の真髄は、大学院で「それ」専門の教育を受けた一握りの人間であってもきわめて難解とのことだけど、著者は、残された疑問を解明する「その先」の理論は、もはや人間の知性ではたどりつけないのではないか、という危惧(あるいは畏怖)さえ表明している。
それにしても、その後の流れにおいて否定された(そして本書のなかでもあまり積極的な評価を与えられていない)「電子の海」という概念がタイトルに使われているのは、やっぱり、ある種の印象(表象、あるいはイマジネーション)を喚起する力が強いからなのかな。