2017年に読んだ本」タグアーカイブ

井上ひさし『父と暮らせば』(新潮文庫)

だいぶ前、友人が出演する舞台で観たことのある作品だけど、戯曲として読んだことはなかった。時期的に、借りてみる。

名作。

作者自身によるものも含め、解説が2本付いているが、読まない方がいいかも。いや、悪くないのだけど、作者のいう「劇場の機知」が丁寧に解説されているあまり、逆に作品本体の印象が整理されすぎるような気がする。作者自身、解説の末尾で「自作を解説するぐらいバカバカしい仕事はないのですが、劇を書く者が、日頃、なにを考えているのかを知っていただくことも一興と思い、手前味噌を書き並べました。お許しください」と書いている。まぁ確かに面白い解説ではあるのだけど。

 

清義明『サッカーと愛国』(イースト・プレス)

大雑把に言えば、なぜサッカースタジアムはレイシズムや排外主義の舞台になりがちなのか、という問題意識の本。

図書館で借りて急いで読んだので、再読の要あり、という感じだが、印象に残った点をいくつか。

対戦するチームのサポーターどうしが酒を酌み交わすという状況は、ラグビーに限らず、サッカーでもあるのだな、ということ(もちろんスタジアムを離れれば、なのだろうけど)。

サッカーのスタジアムでは差別が顕著に現象化する一方で、だからこそ、サッカーのコミュニティには差別に特に敏感な人たちも存在するのだな、ということ(逆にラグビーなんかで差別的な言動があっても、意外に対応が遅いなんてこともありそう)。

中東あたりではサッカーが西欧的な文化として入ってきた分、サポーター文化が独裁や宗教的な締め付けに対するリベラリズムを代弁する構図もあるのだな、ということ。

……という感じで、いろいろ面白い発見があった。

その一方で、敵・味方を峻別して「敵に対して一致団結して立ち向かう」というスポーツなのだから、排他的・対立的(もちろん盛り上げるための「演出」としての部分はあるにせよ)になるのは自然なことで、その意味で、政治性を帯びるのも無理はない、という理解のしかたは、どうなのかなぁと思う。そんなことを言ったら、球技をはじめとする団体競技はたいていそういう構図になっているはず、それなのに他の球技がそこまで排他的・対立的になっていないことが説明できないように思う。

チョムスキー他『人類の未来―AI、経済、民主主義』(NHK出版新書)

どのインタビューも面白かったし、前書きでインタビュアーが書いているように、インタビュイーによって、たとえば地球温暖化をめぐる見解が対立していて、しかも双方ともそれなりに説得力があるのが興味深いところ。

とはいえ、「人類の未来」と呼べるだけの内容になっているかというと、微妙かなぁ。インタビュイーが欧米だけというのは、あまりにも視野が狭いような気がする。人類の未来を左右するのは、良かれ悪しかれ、そこではないのではないか。

 

川島聡、他『合理的配慮 — 対話を開く,対話が拓く』(有斐閣)

都議選などの影響か、あっというまにオフトピックになってしまった木島対バニラエア事件ですが、あのときに誰かが(というのをちゃんと覚えておかないといけないのだけど)勧めていた本を読んでみました。

論文集なので一般向けとは言いがたい体裁ですが、別にシロウトが読んでも難解で困るというほどでもありません。そして、とても面白い! この本を読んだことによって、あの事件に関する自分の意見が特に変わるわけではありませんが、事件をめぐる背景や今後の展望なんかがよく見えてくる気がします。

そして、

相手に耳を傾けることの困難、相手の声を聞き取ることの困難にぶつかることで、私が「考えずに済んできた」事柄を学び、「考えずに済んできた」私の社会的位置を問わずにはいられないような契機が与えられる。
……
著者たちもまた、障害だけではなくさまざまな差異が承認される社会、特定の差異によって機会平等が毀損されることのない社会をより望ましいものとして想定している。(共に本書終章より)

といったあたりから分かるように、障害に留まらず、もっと幅広い問題まで含めた場合の考え方の枠組みとして参考になるような気がします。

伊藤邦武『物語 哲学の歴史 – 自分と世界を考えるために』(中公新書)

元ラグビー日本代表の平尾剛さんがTwitterで勧めていたので気になって読んでみた。

もちろん他の捉え方も多々ありうるのだろうけど、魂の哲学→意識の哲学→言語の哲学→生命の哲学、という流れで西洋哲学史を俯瞰するというのは、けっこう分かりやすい考え方だと思う。

いちおう大学で哲学を学んだ身ではあるけど、こういうものを今読むと、「どのへんが苦手なのか」が的確につかめるという意味で面白かった。要するに、18世紀~19世紀半ばまでと、20世紀の一部しか理解していないことがよく分かる(笑)

森博嗣『すべてがFになる』(講談社文庫)

ラグビー観戦仲間が気に入っている著者とのことで、ひとまず、デビュー作を読んでみた。

最初のうちは、登場人物の設定に違和感というか苛立ちのようなものを感じたり、やや猟奇的な匂いが気にくわなかったりもしたのだけど、さすがに途中からは惹きこまれる。『パラサイト・イヴ』では途中からウンザリしてきたのに比べて、こういうのは嬉しい。

というわけで、面白かった。終盤は、これを読み進めたいがために自転車通勤を諦めたり(=電車なら通勤中に読める)、金曜日に会社に置き忘れかけて「あと30頁くらいなのに週末を越せるか!」とわざわざ取りに戻ったり(笑)

といっても、不満は大いにある。「先生、その推理は無理があるでしょう!」「それって全然○○ぽくないでしょう!」……みたいな感じ。設定にもやや矛盾がある気がする。でも、それは要するに、読みながら「こういうことかな」とあれこれ推理をめぐらせていた、ということなので、ミステリとしては必ずしも悪い評価ではない。

問題は、他にも非常に多くの作品がある著者なので、次にどれに手をつけるのかが難しいところ。

松木武彦『縄文とケルト:辺境の比較考古学』(ちくま新書)

近所の書店で見かけて気になり、図書館で予約してみた。新刊書は予約待ちリストが長い場合があるのだけど、これ(2017年5月刊)はわりとすぐに借りられた。

面白かった。

この本を参考にイギリス(正確にはブリテン島)の古代遺跡を見て回る人を想定しているのか、「レンタカーを借りて回るのがベストだろう」とか「ここは是非立ち寄りたいところだ」みたいなガイドブック的要素があって、「行かねぇよ!」とか思うのだが、でも遺跡巡りマニアみたいな人はけっこうたくさんいるんだろうな(笑) 自分はそこまで没入することはないと思うのだけど、それでも、著者が遺跡を追ってクルマを走らせる、その過程の風景描写には心惹かれるものがある。

ちなみに、タイトルに「ケルト」とあるが、ブリテン島に関する記述のかなりの部分は、実際にはケルト以前、先ケルト~原ケルトと著者が呼ぶ時代についてである。

比較考古学ということで、ユーラシア大陸の東端と西端の辺境=日本とブリテン島を対比し、「ここまではほぼ一緒なのに、どうしてその後の展開はこうも変わってしまったのか」と考察する部分がこの本のハイライトなのだけど、そこはやはり理屈になってしまうので、そこに至るまでの、文字資料のない時代の遺跡を推測を交えつつゆるゆると辿る部分が楽しい。

地図がやや小さいのと、現代の都市名などが記載されていないので、Googleマップとか見ながら読むといっそう楽しいかも。

 

沖浦和光『竹の民俗誌 日本文化の深層を探る』(岩波新書)

先日読んだ『幻の漂泊民サンカ』と同じ著者。同書で書名だけ触れられていたので気になった。

「海彦・山彦」の物語や『竹取物語』など、子どもの頃~高校生くらいまでに触れた物語に深く突っ込んでいるのが面白い。そしてやはり、サンカや被差別部落も含めて、賎民史というのは、ある意味魅力的なんだよなぁ。

松本博文『棋士とAIはどう戦ってきたか~人間vs.人工知能の激闘の歴史』(新書y)

読了して、「ああそうか、だからタイトルが過去形なんだな」という感慨を抱く。

もはや、人間がAIと将棋を真剣に指すことにはほとんど意味がないのだろう。あるとすれば、プログラムのバグを見つけるという形でAIに貢献するというくらいか。

しかし、だからといって人間にとっての将棋の面白さが薄れるわけでもなく、この本の前に読んだ羽生の本あたりに触発されて、三手詰めの詰め将棋をスマホのアプリで解いている私なのであった(笑)

人工知能全般については、羽生の本の方がはるかに面白いが、将棋ファンにとってはこの本もたいへん面白い。

羽生善治、NHKスペシャル取材班『人工知能の核心』(NHK出版新書)

人工知能の研究・発達を通じて、「知性」とは何かという定義そのものが変わっていくのだろう、という洞察が印象深い。

「人工知能に自然言語は理解できない」みたいな主張をこのところ続けて2つほど目にしたのだけど、羽生はさらに「では我々人間は自然言語を理解できているのか、理解しているとはどういうことなのか」というところまで踏み込むのだよね。やはり凡百の頭脳とはレベルが違う。

もちろん、私も将棋ファンの端くれなので、羽生が語る棋士や将棋ソフトについてのあれこれも面白い。