2021年に読んだ本」タグアーカイブ

山川徹『国境を越えたスクラム 日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新報社)

これも2019年ラグビーワールドカップ以前に書かれた本。

(元)選手たちに対する著者の取材は、おおむね過去~現在という時系列に沿っているのだけど、外国出身選手に対する私自身の印象も、この本で彼らが語る状況を反映して変わってきたように思う。正直なところ、大東大がブイブイ言わせていた頃、伝統校(というか早稲田)ファンの自分に「ガイジン使うのはズルい」という意識があったことは否定できないのである。

ただ、当時の外国出身選手については、何しろラグビーファンとしての成熟度が全然だったこともあって、それほど鮮明に覚えているわけではない。

私が本格的にラグビー観戦に没頭するようになったのは、本書で言えば、やはりホラニ龍コリニアシ以降の時期。読んでいても、さすがにそのあたりからは自分にも猛烈に思い入れがあることを痛感する。

冒頭に書いたように刊行はRWC2019前で、営業的にはワールドカップに便乗して売れれば、という戦略もあったのだろうが、回顧的に読んでも、「これがあのワールドカップにつながっていくのか」と思うと胸が熱くなる。

何よりも、彼ら外国出身選手が代表する「国」とは、「日本」とは、という著者の問いかけが秀逸である。

上野裕一『激動する日本と世界のラグビー』(辰巳出版)

確か吉祥寺のカンタベリーショップに置かれていて気になった本。

基本的には、サンウルブズを潰した日本ラグビー協会の守旧派、といって悪ければアマチュアリズム信奉派理事への恨み節。誰がそれに該当するのかは明示されていないけど、スーパーラグビー参戦を支持していた理事などの名前は実名で書かれているので、当時の理事会のメンバーを調べればだいたい見当はつく、といったところ(いや、実際には調べてませんが・笑)

そういう告発の書としての要素が大きいので読んでいて楽しいばかりの本ではないのはもちろんなのだが、それでも、著者のサンウルブズ愛、ラグビー愛が横溢していて、とても共感できる一冊。特に、2019年の「ウルフパック」に対する違和感については、私自身も強烈に感じていただけに、よくぞ書いてくれたという思い。サンウルブズが日本代表強化のツールとしての位置付けで出発したにもかかわらず(その意味でも「ウルフパック」は奇妙な存在だった)、それを超越した存在としてファンに愛され、日本に従来とは違うラグビー文化を生み出したという点を、ジャパンエスアール社員の言葉を交えつつ語っているところが良い。

刊行は2019年7月。つまり、2019年ワールドカップが成功するのか、日本代表の強化はうまく行ったのかという、「答え合わせ」を待つことなく書かれた潔い本だが、その潔さは十分に報われていると思う。

 

マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』(鴻巣友季子・訳、集英社)

いやぁ、とにかく面白かった。実はアトウッドを読むのはこれが初めてなのだけど、意外なほどにエンターテイメント。冒頭の、裏切り~没落~隠遁部分からして、お馴染みの進行とはいえ(何しろシェイクスピアなのだから)ぐいぐい引きこまれる。

そして『テンペスト』の稽古に入ってからは、妙な言い方だが「ああ、大学でこういう講義を受けてみたかったなぁ」という感じ。私は大学時代から零細社会人劇団に至るまで芝居に関わっていたので作品を作っていく過程はたいへん面白く読めるのだけど、デューク先生の指導は、演出家というより英文学の教授のようだ。私は文学部出身であっても、いわゆる「文学」の講義を受けたことはないのだが、大学ではこういう面白い文学講義もやっているのだろうか。

惜しむらくは肝心の復讐のシーン。さすがにそういう手段を使うのは(そしてそれが計算どおりにうまく行ってしまうのは)、ちょっと安易ではないか、という気がする。もっと心理的に追い詰めるような作戦を取ってほしかった…。

訳は期待どおりに素晴らしい。割り注がやや煩い気もするが、やはりこれは必要なのだろう。原文で(原文も)読みたいと思わせる翻訳だが、この場合は、良い意味の方である。

そして何より、『テンペスト』を読みたい(あるいは舞台で観たい)と思わせる点で、「語りなおしシェイクスピア」という企画は成功しているのだ。

 

 

宇野重規『民主主義とは何か』(講談社現代新書)

偶然ではあるが、まったく別の角度で、古代ギリシャから説き起こされる歴史を読むことに。

良い本なのだけど、やや教科書っぽいというか、丁寧で網羅的なのは良いのだけど、斬新さでワクワクする、という感じではない。「参加と責任のシステム」という捉え方には何の異論もないのだけど、選挙以外の、たとえばデモや住民運動といった政治参加のあり方や、それを支える教育や文化みたいな部分への言及が不足しているのが物足りない。その意味では、たとえば國分功一郎の本などの方が身に迫ってくる印象があった。

とはいえ、本書はある種の「基本」として、たびたび参照されても不思議のない存在だと思う。本書のなかで言及される参考文献が、すべて邦訳の出ているものというのも、その先に進んでいくためのハードルを下げていて好印象。トクヴィルとアーレントはやはり読まないと、か。

加藤文元『数学の想像力:正しさの深層に何があるのか』(筑摩選書)

『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』の著者による本を何かもう一冊読みたいと思い、これにしてみた。

上掲書の感想で、

それにしても、理論物理にせよ数学にせよ、最先端に行けば行くほど、人間の知性や意識そのものをじっと覗きこんでいる雰囲気が強く出てくるなぁ。結局のところ、それは哲学ということなのだけど。

と書いたのだけど、これは我ながら(?)けっこう的確だったようで、今回読んだ本書では、延々とギリシャ哲学の話が続くのであった(もちろんピタゴラスを軸に、数学における考え方の話が中心ではあるのだが)。大学時代にいちおう哲学を囓った身としては、懐かしさもありつつ、数学者の視点から語られるギリシャ哲学~近世哲学というのは新鮮だった。『断片集』、まだ実家にあったかなぁ…。

読破にだいぶ時間を要したのだけど、これは再読したいかも。

 

藤本和子『ブルースだってただの唄』(ちくま文庫)

何かで話題になっていて、タイトルにも惹かれて読んだ。

ただし、こういうタイトルではあるが、別にブルースについての本ではないし、音楽についての本でもない。Amazonの紹介にもあるように、1980年代の、米国の黒人女性たちへの聞き書きである。

内容は、とても良い。さまざまな差別を克服する経路として語られることの多い、「教育を受けて社会での地位を向上させ、(この場合は白人と)対等になること」が、必ずしも良い道ではないのだ、という一種の告発には迫力がある。「黒人」といっても一括りにできず、「私がもっと黒ければ、まだ良かったのに」という趣旨の発言などは、まさに当事者からでなければ聞き出せないだろうと思われる。ここで著者に向かって言葉を発した黒人女性たちが(まだ存命であるならば)、オバマ大統領の誕生やBlack Lives Matter、それにハリス副大統領の誕生などをどのように見るのだろう、という興味を抱かずにはいられない。

その一方で、「ああ、彼女たちの言葉は『女ことば』で記されるのだなぁ」という違和感というか、3~40年ほど前、恐らく最も進歩的であっただろう著者の時代に思いを致してしまう。

そういえば、「戦い」や「闘い」ではなく「たたかい」、「日本」「日本人」ではなく「にほん」「にほん人」という表記を好む書き手というのは、ある時期、確かにいたように思うのだが、それはどういう人たちがどういう趣旨でそういう表記を選んでいたのだったか。

 

西内啓『統計学が最強の学問である』(ダイヤモンド社)

ちょいと統計について考えることがあって、一時期たいそう話題になった本ではあるが、すでに図書館でも予約待ちが1人も入っていない状態なので、借りてみた。

冒頭に「1903年、H・G・ウェルズは将来、統計的思考が読み書きと同じようによき社会人として必須の能力になる日が来ると予言した」という一文が孫引きの形で引用されている。

…まぁ、この一文で「なるほど!」と膝を打って統計の入門書に進んでもいいかな、という印象。表題はどう考えても羊頭狗肉というか、よい意味でも悪い意味でもこの本の内容を表わしていない。この本を読んでも、統計が(場合によっては)非常に有益なツール=何かを知るための手段になることは理解できても、統計学は最強の学問であるという結論には至らないからだ。

 

 

 

イ・ヨンスク『「国語」という思想』(岩波現代文庫)

『女ことばと日本語』からの流れというか、いわゆる「国語」への関心が続いているのは、半ば仕事柄と言ってもよさそうである。

明治維新以降の、国民国家を構築する過程での「国語」成立をめぐるスッタモンダから、「大東亜共栄圏」の共通語化をめざす「国語」につきまとった問題に至る、上田万年・保科孝一という2人の国語学者を軸にした通史的な考察。

取り上げられる「国語」をめぐるあれこれの主張を見ていると、私自身はけっこう「国語」に関しては保守的かもしれない、と思う。

ラグビーでは、日本代表を筆頭に日本のチームでプレーする他国出身の選手も増えているし、そういう他国出身者、非日本語ネイティブスピーカーへの日本語教育という点も含めて、本書の末尾でちらりと触れられている「非日本的日本語」というのも非常に気になるテーマである。著者が参加している『「やさしい日本語」は何を目指すか: 多文化共生社会を実現するために』もいずれ読んでみたい。

 

加藤文元『宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃』(KADOKAWA)

誰かが勧めていたのが気になって図書館で予約したのだけど、だいぶ待たされたので、情報源は忘れてしまった…。

「宇宙と宇宙をつなぐ」というタイトルだし、実際、主題であるIUT理論のIUはInter-Universalの略なのだが、「SFや理論物理に出てくるような並行宇宙(パラレルワールド)や多世界宇宙(マルチヴァース)とは関係ありません」(P25)ので、そういうものを期待する人は要注意。ただし、それに類した比喩を使っている部分もなくはない。

もちろんこの本を読んだからといって、IUT理論の内容が分かるわけがない。というか、その「中身」を示されて理解できる人は、数学者の中にだってそれほど多くはないようだし。しかし、IUT理論がどういう発想のもとで構築されたものかはよく伝わってくる。「よく伝わってくる」と思えるのは、これまでに啓蒙書オンリーではあるが、『素数の音楽』『フェルマーの最終定理』『シンメトリーの地図帳』あたりを、分からん分からんと思いつつ読んできた積み重ねがあるからかもしれないが。

惜しむらくは、「たし算とかけ算の一方をそのままにして、他方を少し変形する、あるいは伸び縮みさせ」(P175)た宇宙というのが、いったいどのようなものか、もう少し具体的に書かれていたら、と思う。もっとも、そのような宇宙は、それこそ普通の言葉では表現できないものなのかもしれないけど。

第6章「対称性通信」で詳しく語られる、モノ→情報(本書では「対称性」という性質)という流れを逆転させて、情報からモノを復元する、という発想からは、何だか昨今話題のmRNAワクチンについて、「情報だけ伝えて、ウイルス自体が感染する前に火星の基地でワクチンを用意しておく」なんて話があったのを連想してしまう…。

それにしても、理論物理にせよ数学にせよ、最先端に行けば行くほど、人間の知性や意識そのものをじっと覗きこんでいる雰囲気が強く出てくるなぁ。結局のところ、それは哲学ということなのだけど。

理論的な部分が始まるまでに、数学者の生態(?)がかなり詳しく紹介されているのも、非常に面白かった。まぁ雑談の多い授業というのはたいてい面白いものだ。