2019年に読んだ本」タグアーカイブ

スージー・モルゲンステルヌ(文)、セルジュ・ブロック(絵)『パリのおばあさんの物語』(岸恵子・訳、千倉書房)

友人がやっている古書店(既存の古書店で棚借りしているので「古書棚」?)で、目に止まった1冊。

辛いことの多い、というか、たとえば私に比べたら「壮絶な」といってもいいほどの人生と、その末に訪れた老いを、それでも肯定的に受け止める話。少し前に読んだ『私が生きた証はどこにあるのか』にもつながる話。

以前、母方の伯父母・叔父母の傘寿・古希・喜寿のお祝いをまとめてやろうということで集まったとき、司会を務めた従兄が「今まででいちばん嬉しかったこと」というお題を振ったときに、伯母たちの口から、まず「苦しいこと、悲しいことが多くて」といった言葉が出たことを思い出す。

いずれ、原文で読みたい。

 

ポール・オースター『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳、白水Uブックス)

職場で「やみくろ」の話が出る(←どんな職場だ)

それがキッカケで後輩が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を再読し始めて、『最後の物たちの国で』を連想した、という。

ふむ、それは読んだことがないので読んでみよう。

と、軽い気持ちで読み始めたら、えらくハードなディストピア小説でびっくりしてしまった。

書かれた時期(原著の出版は1987年)からして、ソ連末期あたりにヒントを得ているのかなとも思うが、まさに今日この日も、内戦の続くシリアやイエメンといった国々では、これがフィクションと呼べないような状況があるのだろうな、と想像する。訳者が「あとがき」で触れているように、オースターはこの作品が「近未来」を舞台にしていると思われるのを望んでおらず、「現在と、ごく最近の過去についての小説」だと主張しているのも、そういう意味なのだろう。残念ながらオースターから見て「近未来」でもあった、ということになってしまっているわけだが。

訳者が言及しているデフォー『ペスト』や、Fama『サラエボ旅行案内』にも興味を惹かれる。

作品の内容とは関係ないが、字が小さい。老眼という点では平均よりも進行が遅いような私でさえ、ディストピア小説で字が小さいのって何の拷問だよと思ってしまうが、けっこう慣れるものだな……。

 

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

う~む、難しかった。

というわけで、この本に関する私の理解は、たぶん的外れであることを最初に断っておく。

と言い訳をした上で、ではあるが……あまり納得がいかない。

たぶんそれは、私が(日本語はさておき)おそらく世界で最も近代化された言語であろう英語と(辛うじて)フランス語くらいしか知らないために、能動/受動といった「態」に、そこまで敏感ではないからなのかもしれない。

しかし、そのような立場から考えると、能動態/受動態という対立がそこまで支配的なものであるようには思えない。能動態/受動態という対立が意味を持つのは「他動詞」が用いられる文脈に限定されているような気がする。そして、たとえば現代の英語においても、それ以外の文脈というのはかなり広い。「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」(本書p88)と著者はまとめているのだけど、主語が過程の「内にある」状況は、現代の言語においては、単に「自動詞」(あるいは再帰動詞)で表現されているというだけの話に思えてしまう。

前半から中盤にかけて、「それ、いちいち中動態に言及しなくても、自動詞ってことでいいんじゃない?」と思えてしまい、その後、自動詞(及び再帰動詞)的な表現と受動態が中動態から生まれてきたことも説明されていて「なるほど」と思うのだけど、では敢えて起源である中動態に遡って考えなければならない必然性が私にはよく分からなかった。能動態/受動態という対立構造が支配的になって中動態が抑圧されていく(それに伴って思考の可能性が変容していく)というより、中動態が自動詞(再帰動詞)/受動態に順調に発展していった、と考えてしまうのは安易なのだろうか。

「意志と責任の考古学」という副題からすれば、むしろ、他動詞にせよ自動詞にせよ、「主語」の存在が要請されていくプロセス(本書では第6章でそこへの言及があるが)を手厚く考えていくほうが有益なのではないか、という気がする。

……と、このように書いてしまうということは、要は、この本はとても面白かったのですよ。特に第6章「言語の歴史」はワクワクする。

そして、教養課程で結局1単位も取れなかった古典ギリシャ語・ラテン語も、やっぱりちゃんと勉強しておけばよかった/今からでも勉強してみたい、と痛切に感じてしまう。

あとがきで著者が触れている、古典ギリシャ語の再学習に取り組んだり、『エチカ』ラテン語暗唱に励んだりするあたり、学問することの楽しさが横溢していて、本当によいなぁと思う。

 

三浦豊『木のみかた 街を歩こう、森へ行こう』(ミシマ社)

「コーヒーと一冊」という、コーヒー片手に読み切れるくらいの体裁をコンセプトとするシリーズ(詳しくは→ http://www.mishimasha.com/coffee/ )

このシリーズの本を読むのは2冊めなのだけど、最初に読んだ『透明の棋士』と同様、この本も、軽い体裁とは裏腹に内容はかなり濃い。再読必至。

銀杏や松、欅といった、都市に住んでいてもわりとよく目にする木はもちろん、名前はよく知っているがあまり意識しない楠や桐、椋、榎、さらにはあまり聞いたことのない神樹や臭木といった木に至るまで(他にもいろいろ)、別に深山に踏み入ることなしに体感できる「森」を案内していく。

公園や神社仏閣など、緑のある身近な場所に行きたくなることはもちろん、もっと分厚い樹木図鑑がほしくなることは必定の一冊。ただし、歩いたり運転したりする際によそ見が増える危険はあるが。

これを読んで、京都に行く際に訪れたい場所が1つ増えた(糾の森)。

 

黒田日出男『絵画史料で歴史を読む』(筑摩書房)

近々京都に行く予定があるのだけど、先日知人夫妻が訪れたという京都国立博物館の特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」の会期に引っかかっているので、覗いてみようかなと(未定ではあるが)。しかし何の予備知識もないので、件の知人が勧めてくれたこの本を読んでみた。

歴史観が変わるような驚きとまでは行かないのだけど、これまた、歴史の深い部分に惹きこまれる面白い本だった。しかし、このサイズの本で、しかもモノクロというのは、絵の細部まで見るにはやや辛い。やはり生を見ないと、か。

小宮まゆみ『敵国人抑留―戦時下の外国民間人』 (吉川弘文館)

4月中に読了。

だいぶ前に、第二次世界大戦中にアメリカで強制収容された日本人・日系アメリカ人に関する記事を翻訳したことがあったのだが、そのとき「では、日本にいた外国人はどうなったんだろう?」という疑問を抱き、この本を発見し、いずれ読みたいと思っていた。

それとはまったく関係なしに、先日知人が上演した『メアリー・ステュアート』という芝居を観て、戯曲を図書館で借りて読んだら、作者のダーチャ・マライーニが幼少時に日本で親とともに抑留されていたことを知った。それも、同盟国だったイタリア国民なのに。

そこで、この本を前に気にしたことがあったなぁと思い出して読んでみたら、なるほど、イタリア人抑留の文脈で、マライーニ家に対する言及もあった。

平和な時代においては日本の社会に定着し、日本人との親交も厚かったにもかかわらず、戦争を機に、民間人も自宅や家族から切り離されて不自由な(人によっては健康を害し死に至ることもあった)抑留生活を強いられるという悲劇に遭う……という状況が突きつけられるわけだが、そういう痛切な認識はもちろんのこととして、それ以外にもなかなか興味深い点があった。

この本では抑留された外国人の国籍が詳しく示されているのだけど、アメリカ、イギリスといったまぁ第二次世界大戦における主敵ともいえる国の人たちは(性別や年齢の条件はありつつも)当然ながら最初に抑留されている。それ以外にも、いわゆる連合国側の人たちは抑留されるのだけど、意外に多いのがギリシャ人。どうしてかというと、さすが海運国で、ほとんどが船員関係。たまたま開戦の時期に日本に寄港していた乗船が拿捕されてしまい、そのまま抑留された、と。オランダ人もいて、なかには長崎・出島の商館長の子孫もいるというところが、江戸時代からの連続性を感じさせる。

では、マライーニ家など、同盟国だったはずのイタリア人はなぜ、いつ頃から抑留されたのか……といったあたりは、興味のある人は是非読んでいただきたい。ちなみに、イタリア人でも抑留されなかった人はいる。さらに言えば、これまた同盟国であるドイツの国民でも、戦争初期から抑留(自宅軟禁だったかな?)された人がいる、というのは、これまた痛切な話。

テーマの重さや地味さのわりに、いろいろ話のネタになる面白い本だった。

 

 

アガサ・クリスティー『春にして君を離れ』(早川書房・クリスティー文庫、kindle版)

例の鴻上さんの人生相談コラムで紹介されていた作品。彼は以前からたびたびこの作品に言及していたような気がする。その影響で私もたぶん学生時代か20代の頃に一度は読んだはず。

なるほど、文学史に残る名作というポジションではないのだろうが、かなりの傑作。

元々はメアリ・ウェストマコットという別のペンネームで書かれた作品だが、日本では初版時からクリスティー名義で出されたみたい。その方が売れるから、ということだろう。

しかし、そのように別名義で書かれた非ミステリ作品で、殺人事件も盗難事件も起きないし、名探偵が出てくるわけでもないのだが、それでも、ミステリ作家ならではのストーリーテリングの妙が感じられる。ある意味で謎解きだし、背筋にゾクッとくる怖さもある。したがって、内容に触れるとけっこうネタバレになってしまう可能性があるので、ここではあまり踏み込めないが、かなりお勧めである(kindle版で283円って、お買い得感がある)。

ロンドンではない地方都市(クレイミンスターという場所は実在するのだろうか? まだ確認できていない)に暮らすイギリスの家庭(夫、妻=主人公、長男、長女、次女)という設定と、夫の(やや美味しいとこ取りでズルいとも言えそうな)キャラクターから、同じイギリスの『高慢と偏見』と同じ空気が漂っている気がする。

あと、「ううう、そうなるのか」という終盤の展開から『魔の山』を読んでいたときに感じた動揺(?)をふと思い出した。

残念だったのは、タイトルの出典ともなっているシェイクスピアのソネットを、学校時代に暗誦や朗読が得意だったという主人公が思い出そうとする場面があるのだけど、その方面に関して、自分がまったく疎いこと。現代でも、イギリス人なら多少は「ああ、あの詩か」と思い当たる節があるのだろうか。ひとまず、kindleでシェイクスピアのソネット集を入手してみた(英語なら0円)。

 

 

 

 

戸谷洋志『Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲』(講談社文庫)

先日読んだ『棋士と哲学者』が期待以上に面白かったので、「哲学者」側である戸谷洋志の単著を読んでみた。哲学的なテーマに沿って、いわゆる「Jポップ」(最初の方で定義される)15曲の歌詞を通して考えていく、という本。

テーマは、「自分」「恋愛」「時間」「死」「人生」の5つ。

曲は「名もなき詩」(Mr. Children)「私以外私じゃないの」(ゲスの極み乙女)「君の名は希望」(乃木坂46)「Story」(AI)「会いいたくて会いたくて」(西野カナ)「誰かの願いが叶うころ」(宇多田ヒカル)「天体観測」(BUMP OF CHICKEN)「キラキラ」(aiko)「閃光少女」(東京事変)「おしゃかしゃま」(RADWIMPS)「Dearest」(浜崎あゆみ)「A new one for all, All for the new one」(ONE OF ROCK)「Believe」(嵐)「RPG」(SEKAI NO OWARI)「YELL」(いきものがかり)。

このなかで私が聴いたことがあるのは1曲だけ。といっても基本的には歌詞分析で、歌詞は本文中に引用されているので、曲を知らなくてもまぁ問題はない。

なかなか面白かった。5つのテーマについての考察は、哲学の考え方というかアプローチを紹介するという上でけっこう的確であるように思える。

もっとも、テーマが「実存的な悩み」に偏ってしまっているのは少し残念。哲学という学問はけっこう幅が広くて、二本柱(?)の認識論・存在論も含めて、もっと頭のおかしくなるようなヤバいテーマもあるのに、ともったいない気もするけど、さすがにそういうテーマに触れるような歌詞のポップソングはなかなか存在せず、この本には盛り込めなかったのだろう。そんなテーマの歌、あまり聴きたくもないという気がするし(笑)

体裁としては、女子大生の麻衣ちゃんがアシスタント(聞き役)として、先生(著者自身だろう)と対話するという形になっていて、恐らく糸谷哲郎はそのへんに眉をひそめつつ読んだのだろう、と想像する。が、そもそもそういう舞台設定に目くじらを立てるような人を対象とする本ではないな。

【追記】読んでいるあいだは「別にこれを読んでも、取り上げられている歌を聴きたくはならないかなぁ」と思っていたのだけど、それでも何となく気になって、Spotify(無料アカウント)で聴ける曲を選んでプレイリストを組んでみた(3曲ほど見つからない曲があったのでそれは諦める)。生まれて初めてナンバー系グループの曲を通して聴いたな……。

 

渡辺明『増補・頭脳勝負』(ちくま文庫)

ときおり将棋関係の本を読むのだけど、ノウハウ本(「勝てる○○戦法」の類)はここには記録しておらず、書くのはこういう一般的な内容のものだけ。先日の『棋士と哲学者』には将棋の話の比重はそれほど高くなかったのだけど、何となく将棋関連の本も読みたい気分になっている。

この本は、「棋士はふだんどういう生活をしているのか」みたいな話も含めて、将棋にあまり詳しくない人にその世界を紹介する感じの本。スポーツ観戦と同じように、自分でプレーしない人でも「観る将棋ファン(観る将)」として楽しんでもらいたいという動機で書かれていて、将棋のルールの説明とかは巻末にあっさりまとめられている程度なのだけど、序盤・中盤・終盤にそれぞれどんなことを考えているか、それぞれの段階でどの程度の集中力を発揮しているのか、といったあたりに頁が割かれているあたりに工夫を感じる。

すでに将棋に詳しい人には物足りないだろうけど、「動かし方は知っている」くらいの人にちょうどいい本なのではないかな。2007年発行の単行本の増補改訂・文庫化なので、古さを感じる部分はあるけど。

【追記】書くのを忘れていた。本書の素晴らしいところは、最初の方で、タイトル戦終盤の勝負どころを描く観戦記の一節を引用し、棋士(著者vs佐藤康光)の奮闘ぶりを紹介しているのだが、本書の後半、「ではプロの将棋をごらんいただきましょう」的に数局分収められている自戦記で、その一局が丸ごと解説されているところ。これが最初の方で紹介したあの場面ですよ~と明示されていないところがニクい。

【追記2】何となくそんな気もしていたのだが、過去の記録を漁ったら、2007年の新書版も10年前(2009年)に読んでいた(笑)

 

 

ダーチャ・マライーニ『メアリー・ステュアート』(望月紀子・訳、劇書房)

そういえばこれも読んだのだった。『棋士と哲学者』の前だったかな。

先日、知人が出演したこの芝居を観に行ったので、戯曲も読んでみた。というわけで、内容は分っているので、それはさておき、訳者あとがきを読んで、作者は日本と不思議な縁のある人なのだなぁとちょっと驚いた。お父さんが民俗学者でアイヌ研究のために来日していて、ムッソリーニに反対していたために戦時中は日本で強制収容所に入れられていた、とのこと。

以前気になっていた『敵国人抑留―戦時下の外国民間人 』(歴史文化ライブラリー)を読んでみようかという気になる。

残念ながら書影無し。