國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)

う~む、難しかった。

というわけで、この本に関する私の理解は、たぶん的外れであることを最初に断っておく。

と言い訳をした上で、ではあるが……あまり納得がいかない。

たぶんそれは、私が(日本語はさておき)おそらく世界で最も近代化された言語であろう英語と(辛うじて)フランス語くらいしか知らないために、能動/受動といった「態」に、そこまで敏感ではないからなのかもしれない。

しかし、そのような立場から考えると、能動態/受動態という対立がそこまで支配的なものであるようには思えない。能動態/受動態という対立が意味を持つのは「他動詞」が用いられる文脈に限定されているような気がする。そして、たとえば現代の英語においても、それ以外の文脈というのはかなり広い。「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」(本書p88)と著者はまとめているのだけど、主語が過程の「内にある」状況は、現代の言語においては、単に「自動詞」(あるいは再帰動詞)で表現されているというだけの話に思えてしまう。

前半から中盤にかけて、「それ、いちいち中動態に言及しなくても、自動詞ってことでいいんじゃない?」と思えてしまい、その後、自動詞(及び再帰動詞)的な表現と受動態が中動態から生まれてきたことも説明されていて「なるほど」と思うのだけど、では敢えて起源である中動態に遡って考えなければならない必然性が私にはよく分からなかった。能動態/受動態という対立構造が支配的になって中動態が抑圧されていく(それに伴って思考の可能性が変容していく)というより、中動態が自動詞(再帰動詞)/受動態に順調に発展していった、と考えてしまうのは安易なのだろうか。

「意志と責任の考古学」という副題からすれば、むしろ、他動詞にせよ自動詞にせよ、「主語」の存在が要請されていくプロセス(本書では第6章でそこへの言及があるが)を手厚く考えていくほうが有益なのではないか、という気がする。

……と、このように書いてしまうということは、要は、この本はとても面白かったのですよ。特に第6章「言語の歴史」はワクワクする。

そして、教養課程で結局1単位も取れなかった古典ギリシャ語・ラテン語も、やっぱりちゃんと勉強しておけばよかった/今からでも勉強してみたい、と痛切に感じてしまう。

あとがきで著者が触れている、古典ギリシャ語の再学習に取り組んだり、『エチカ』ラテン語暗唱に励んだりするあたり、学問することの楽しさが横溢していて、本当によいなぁと思う。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください