2019年に読んだ本」タグアーカイブ

ジョージ・ボージャス『移民の政治経済学』(岩元正明・訳、白水社)

確かTwitterでどなたかが勧めていたのが気になり、読んでみた。最初、体裁だけ見て荷が重いかと思ったのだが、意外にすらすら読めてしまった。あとがきによれば一般向けを意識して書いた本とのことなので、そのせいもあるのだろうけど、やはり移民というのはそれ自体がダイナミックなテーマなので、著者の主張への賛否はともかくとして、引きこまれるものがある。

で、自らがキューバからの移民一世である著者は、「移民はすべての人に利益をもたらす」という移民受け入れ推進の論調に疑義を呈し、その結論を導くデータの選択や解釈に恣意性があることを明らかにする。

こうした批判から、必然的に移民がもたらすコストや、国内での格差拡大(※)を相対的に強調することになり、その流れでドナルド・トランプの選挙演説で著者の論文が引用されてしまったこともあるようなのだが、著者の真意はそこにはないし、移民排斥や人種差別・民族差別につながるようなトランプの政策とはむしろ正反対の立場とも言える。

※ 著者は、移民による経済的メリット/デメリットは長期的には差し引きゼロのように思われるが、企業経営者/労働者のあいだで’(前者に有利な形で)富の再配分が生じるとしている。

移民政策には困難で回避できないトレードオフがあり、そうしたトレードオフは専門家による数式モデルや統計分析だけでは測れないものだ。結局、どのような政策を選ぶかは我々の価値観や米国という国がどうあるべきかに対する我々の信念、そして自分たちの子供にどのような国に住んでほしいかという思いに左右される。(本書p220)

欧州の移民問題にごくわずかな言及がある程度でほぼ100%米国の話であり、日本の外国人労働者問題とはだいぶ違った状況とも言えるのだけど、とはいえ、移民問題一般を考えるうえで有益な一冊であることは確かだろうと思う。

 

戸谷洋志・糸谷哲郎『僕らの哲学的対話 棋士と哲学者』(イーストプレス)

書店で見かけて、対談ということもあって厚さのわりにスカスカな組み方という印象があり、面白そうではあるけど買うほどではないかな、と(スペースに余裕のない我が家としては、どうせ買うなら厚さのわりに濃い本の方がありがたい)。で、図書館で借りたのだけど、案に相違して、これがなかなか良い本だった。

SEALDsもそうだったけど、自分より大幅に若い人たちがこれだけしっかりしている(いや、当然ながら自分よりも頭が良い)というのは、非常に心強いというか、希望を感じる。特に糸谷は、自ら原理主義と称するほど人権重視の立場を貫いている(といっても頭のいい人なので、自分のような立場は白人文化至上主義だと批判される、と笑うようなメタな視点も備えている)。

「棋士と哲学者」というタイトルにはなっているが、「棋士」側である糸谷も大学院まで行って哲学をやっている人なので、その方面でも互角以上に渡り合っているのが面白い。AIをめぐる議論においては、むしろ戸谷の方がナイーブに思えてしまうくらい。そして、むしろ将棋の話はもう少しツッコんだ部分があってもよかったのではないかと思う(戸谷はどれくらい指せるのだろう?)

ところで、この本を読んでふと思ったのだけど、「棋士と哲学者」、つまり将棋と哲学というジャンルにおいて、私自身は、将棋でいえばアマ初段には及びもつかず、良くて3~4級程度(いや5~6級?)だろうと思うのだけど、哲学に関しても、まぁその程度かなと。プロの作品(哲学なら関連の著作、将棋なら棋譜)を、流れを追いつつ楽しむことはできるけど、100%理解できるわけではない。いわんや、自分でそのレベルのものを生み出すことはできない。その意味で、棋士と哲学者の対談というのは、どちらに対して理解が偏るということがなく、ちょうどよく楽しめたようだ。

 

 

キャス・R・サンスティーン『スター・ウォーズによると世界は』(山形浩生・訳、早川書房)

よく行く図書館には貸出カウンターの前に「返却されたばかりの本」が置かれているワゴンがあるのだけど、そこでふと目について借りてみた本。

訳者の名前をチェックするべきだった。どうも私はこの訳者が苦手……というか、いや、この人、下手でしょ。『クルーグマン教授の経済入門』は誤訳がめだったのですぐに放り出して原書を読んだのだけど、本書については誤訳は(たぶん)なさそう。しかし、原書の(学者らしからぬ)くだけた文体の雰囲気を伝えようという試みは、スベりまくっている。

たぶんこの翻訳者は、英語がたいへんよくできる人なのだろう。そして、「私は英語がよく分かっている、原文はこんな雰囲気だ、その雰囲気を再現するぞ~」と頑張っているのだけど、その分(あるいはそのせいで)、日本語が疎かになっている。

(翻訳ではなく)オリジナルで、そういうくだけた雰囲気の(そして面白い)日本語の文章を書ける人ならば、良いのかもしれない(たとえば小田嶋隆だ。賛成しない人もいるだろうが)。

いや、もしかしたらこの本は下訳者を使っているのかもしれない(使うよね、普通)。学生とか。というのも、章によって出来にバラツキがある。「父と子」というテーマに関する章は日本語もそれほど悪くない。他がひどい。東大の入試ならば受かるレベルだ(30年前ならね)。でも、それは「英文和訳」ではあっても翻訳ではない。

おっと、内容については何も触れていなかったね。つまらないはずがない。だってスター・ウォーズだもん。英語が苦にならない人は原書で読んだ方がいいだろう。そこまでする価値があるかどうかは疑問だが。

 

H. S. クシュナー『私の生きた証はどこにあるのか-大人のための人生論』(岩波現代文庫)

優れた宗教論『なぜ私だけが苦しむのか』の著者による「人生論」。

旧約聖書に含まれる「コヘレトの言葉」を手掛りに、人生の空虚さを克服することはできるのか、できるとすれば、どう考えることが可能かを探求する本。

10章構成のうち、第7章までは「有力そうに見えるが人生の意味をもたらすことのできない」要素(たとえば財産、名声、学識、信仰)の批判的検証。もっとも、そういう要素を獲得できない、そもそも追求することにも縁の無い人も多いのだから、「そういうのを試してみられるだけでも恵まれているんじゃない?」とひねくれた見方もできる。

第8章で「なるほど、これなら」と(私には)思える解が示されるのだけど、さらに第9章以降では、「あれあれ、そうなっちゃうの?」という印象。

第9章「私が死を恐れない理由」では、そこまでの検証の結果として、「人々の一員になる」「痛みを人生の一部として受け入れる」「自分が違いを作り出してきたことを知る」という三つの指針を挙げ(p209~210)、またタルムードでは「人生にはその途上でなすべきこと」として「子をもうけること」「木を植えること」「本を書くこと」の三つが挙げられていることを紹介するのだけど(p225)、残念ながら、著者やコヘレトと違って、そうした条件を満たせない人が世の中にはけっこういるのだ。

その意味で、第8章で止めておけば良かったのに、と思わざるをえない。第8章はいいんですよ。もちろん、それさえ得られない人もいるだろうけど、それでもだいぶ間口が広い。

翻訳は『なぜ私だけが苦しむのか』の方が優れていたが、そう悪い方でもない。

 

 

磯田道史『天災から日本史を読み直す 先人に学ぶ防災』(中公新書、kindle版)

歴史研究者の視点から、過去の天災(本書で扱われているのは地震、津波、台風による高潮)の記録に当たって、現代への教訓を読み取ったり、歴史の流れに与えた影響を分析する、という本。

文化的な要因が被害のありかたに影響したという分析がなかなか興味深い(瓦屋根が普及し、その重さに構造的な強度が追いつかずに建物の倒壊に至るとか、親孝行の道徳ゆえに老親を助けるため子どもを見捨ててしまうとか)。また、秀吉が家康を討伐しようとしていたところ、地震の被害のために戦争準備が阻害されて家康は命拾いしたとか、幕末の佐賀藩で高潮被害を防げず大きな被害を出したことで世代交代を強いられて改革が進んだとか、そういう話も良い。

ただ、そういう「日本史を読み直す」という表題にふさわしい部分をもっと語ってほしいし、災害が歴史の流れに与えた影響をもう少し巨視的にパターン化するようなアプローチも欲しかった気がする。

元は新聞(別刷り?)での連載だったものをまとめたようで、腰の入った一貫性のある著作というよりは、気軽に読める歴史コラム集のような体裁なので、そこまで期待するのは筋違いか。

とはいえ、章によって差があるのだけど、「妻が『朝ごはんぐらい食べていって』というのを振り切り、家を飛び出した」とか「私は、妻に手渡されたリンゴ一切れを口にくわえたまま浜松駅バスターミナル八番乗り場に急いだ」みたいな記述は、書籍にするときは整理してもよかったのではないかなぁという気がしてならない。

Amazonに掲載された書影を見ると、帯に「日本エッセイスト・クラブ賞受賞!」とあるが、エッセイとして読むのであれば、他にも魅力的なものはけっこうありそうに思うのだが……。

 

與那覇潤『知性は死なない-平成の鬱をこえて』(文藝春秋、kindle版)

ううむ、高い評価も聞いていたのだけど、これは期待外れと言うしかない。

うつ病、あるいは躁うつ病(双極性障害)に関する部分についてはなるほどと思わせる部分は多々あったが、それ以外の(というか肝心の?)、知性/反知性主義に関する部分はあまりにも乱暴という印象。そうやって乱暴な二項対立を設定しておいて、結論としてその二項対立を克服するような論法になっているので、「そもそもの設定に無理があったのでは」という印象が拭えない。

まぁそういうドラマはあちこちにありそうだが……。

が、いずれにせよ本書で言及されている何冊かの本は読んでおこうという気になったのは事実で、収穫はそれくらいかな……。

 

苅部直『「維新革命」への道:「文明」を求めた十九世紀日本』(新潮選書)

先日『夜明け前』を読んだのを機に、ふと国学方面について書かれたものも読んでみようかなぁと思っていたところ、旧知の著者のこの本が目についたので読んでみた。

まるで橋下徹が著者でもおかしくないようなタイトルだが、そうではなく、これは真面目な本(第一章では「日本維新の会」の名称をマクラとして使っているが)。

ペリー来航を機に当時の日本が「文明」に初めて出会い、それまでとはまったく違う新しい社会へと変わっていったという通俗な維新観に疑問を呈し、明治維新を「含む」十九世紀という時期のなかで、すでに市場の発達や「経済」の前景化、それこそ本居宣長に代表される国学のなかでさえ、進歩史観の萌芽や「文明」観の変化が進んでいたことを説き明かす本。

幕末・明治維新について世に語られる個々のエピソードにはさまざまにドラマチックなものがあるのだけど、そういう派手な浮き沈みに目を奪われることなく観察すれば、結局のところ、伏在しているこの種の底流が歴史を動かしているのだろうなぁ、としみじみ思う。

これを読んで『夜明け前』の主人公に思いを馳せると、街道・宿場町の主たる担い手として、そうした勢いを感じうる立場にあった、それなのに…ということが、いっそうその悲劇を際立たせる気がする。主人公を親しく遇する江戸の庶民一家がそれなりに時代に適応していっている様子を見ると、やはり都市住民ではないという点が影響したのかなぁ…。

次に読み始めた本にどうにも「軽さ」を感じてしかたがないので、この著者の、狙いは鋭くとも鉈の切れ味とでもいうべき「重さ」に好印象を受ける。とはいえ、そもそも雑誌連載がベースであり、あくまでも一般向けということで読みやすくはあるのだけど。

 

野矢茂樹・西村義樹『言語学の教室』(中公新書)

たぶんAmazonのお勧めに引っかかったのだと思う。

野矢氏についてはウィトゲンシュタイン関係の訳書や研究書を買うだけ買って、難しそうなので手を付けていない。『哲学の謎』は読んだ気がするが、あとは少し前にエッセイ『哲学な日々』を読んだくらい。

この本は、チョムスキーの生成文法論に対する批判から生まれた認知言語学という分野について、野矢氏が専門家である西村氏に入門していろいろ聞いていくという構えなのだけど、何しろ野矢氏も言語哲学の専門家なので、まるでウィルキンソンとベッカムがキックを蹴り合っているような趣がある(←分らん)。認知言語学という分野の特徴なのか、一般向けの本としての配慮なのか、分析の対象とする例文、表現がどれも身近で平易なもの(日本語だと、「雨に降られた」「彼女に泣かれた」「村上春樹を読んでいる」)なのでとても読みやすいのだけど、言っている内容自体は、けっこう人間の認識というか知性のありかたに踏み込むような深さがあるように思う。

こういう表現を使う言語と使わない言語があるといった部分はもちろんのこと、翻訳をやる身としてはかなり楽しめる本だった。

あと、各章の扉にあるペンギンのイラストが可愛い。イラストレーターは誰だろうと思ったら、野矢氏自身とのこと。やるな。

 

 

 

島崎藤村『夜明け前』(kindle版)

少しこのブログの更新が途絶えていたのは、またLinuxの入門書や将棋の本など読んでいたこともあるが、この大作(文庫本で4巻)に取りかかっていたため。

かつて母方の親戚が名古屋で商売をやっており、市内の住居は店舗兼用で手狭ということで、恵那に週末用の別宅を構えていた。中学生の頃だったか、そこに遊びにいく話になり、近くの馬籠・妻籠といった観光名所を訪れる計画を立て、その予習?として、一家4人でこの作品を回し読みしたのだと思う。このあたりがいかにも教養主義的な家庭である。

2010年に何がキッカケだったのか家人が図書館で借りて読破していたのだが、先日、kindleで無料でダウンロードできることに気づき(青空文庫版)、私も40年近くぶりに読んでみた。

幕末~明治維新期が舞台であり、作品中で流れる時間が恐らく30年以上に渡っている点も大河ドラマ的ではあるのだけど、主要登場人物として登場するのは、この日本史上でも指折りの激動期において「脇役」だった存在ばかり。

それだけに、時代の変遷がいっそう身に迫る痛切なものとして訴えてくる。

これを読むと、主人公が追い求める本居宣長~平田篤胤あたりの国学や、それと合わせて神道にも興味をそそられるのだけど、一昨年あった親戚の葬儀も含めて、神道というのは世界観ではあっても宗教ではないのかなぁ、という漠然とした印象を抱く。少なくとも何らかの救済を与えるものであれば、この小説もこのような結末にはならなかっただろうに。

なお、いちおう下記のリンクはkindle版(青空文庫版)を貼っておくが、やはり通常の文庫で注がついている(と思う)ものを読む方がいいのではなかろうか。宿場・街道関係の知識についてはいろいろネットで調べられる時代だから大丈夫だし、和歌はよいのだけど、それなりの長さの漢文を読むのはなかなか苦労する。

 

三宅陽一郎『人工知能のための哲学塾』(ビー・エヌ・エヌ新社)

人工知能の研究や開発を通じて「知能(知性)とは何か」という問いに取り組んでいれば、必然的に哲学的な思索にはまり込んで行かざるをえないだろう、と思う。

この本にも、そういう切り込み方を期待したのだけど、やや物足りない印象。全6回のワークショップのまとめのような本だから、ダイジェストっぽくなってしまうのは仕方ないのかもしれない。恐らく、ワークショップの「現場」はもっと躍動感のあるものだったのだろう。

哲学というのは、私たちが日常を生きている足場を揺るがせるというか、見てはいけない深淵を覗き込ませるような部分があるものだが、この本にはあまりそういうヤバさ=魅力が感じられず、いいとこ取り的な扱いになっているのも、やや不満が残る。特に現象学の扱い方に何やらフワフワした曖昧な印象を感じてしまったのだが、現象学って本来はひどく厳密でギリギリまで追い詰める思索であるように思う(先に紹介した『フッサール 起源への哲学』が巧みに紹介しているように)。

ただ、その分、というべきか、難解そうな近現代の思想がわりと取っつきやすく感じられて「読んでみるか」「読み直さないと」と思えるのはありがたいのだが……。