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佐藤さとる『ふしぎな目をした男の子』(講談社文庫)

というわけで、子どもの頃に読んだ同シリーズは、ここまで。

前作『星からおちた小さな人』の感想で書いた「コロボックルと人間のバランス」という意味では、この第4作は、人間寄りに偏っているという印象。そして、その割に「せいたかさん」一家がまったく登場しないというところが寂しくもある。

しかし何より驚いてしまうのは、「あとがき(4)」で明かされる、この作品の執筆に至った経緯である。岩波書店の「乾富子」という編集者の注文で書いた、というのだ。そんなことを明らかにされては、このシリーズの残り2作(『小さな国のつづきの話』『コロボックルむかしむかし』)より先に、ひとまず、あの作品を読まざるをえないではないか。

それにしても、幸せなライバル関係というか、同じ時期にその二人が活動していたことの巡り合わせのようなものを感じてしまうなぁ。

佐藤さとる『星からおちた小さな人』(講談社文庫)

4作目の『ふしぎな目をした男の子』もすでに読了したのだけど、今の年齢で読むと、最初の『だれも知らない小さな国』と、この3作目が特に優れているように思う。その理由は、恐らく、コロボックルの世界と人間の世界のバランスの取り方がうまいから。

この作品でも、人間側の主人公である「おチャ公」はもちろんだが、中学生になった「エクぼう」がいい味を出しているし、もちろん「おチャメさん」の活躍も素晴らしい。何でもかんでもボーイ・ミーツ・ガールに帰着させるのはむしろ無粋だが、コロボックルと「ともだち」になったおチャ公と、コロボックルの「味方」に内定しているおチャメさんが、いずれ結ばれるような未来があればいいな、などとも思う。

ところで、「つかまったときは世界でただ一人の存在になれ」という掟とか、(第1作から続くことだが)じっくりと観察して相手側で協力者になってくれる人を探すとかって、諜報機関をはじめ「組織」の遣り口であるように思う。執筆当時の社会情勢のもとでは、そういう発想もわりと身近だったのかもしれないが、作者の思いとしては、そうやって潜入&工作をしてくる「組織」が、こんな魅力的なコロボックルたちであればいいのに、ということなのかもしれない。

佐藤さとる『豆つぶほどの小さないぬ』(講談社文庫)

続いてシリーズ第2作。

語り手がコロボックルの若者に代わり、「せいたかさん」「(おちび先生改め)ママ先生」「えくぼう」など人間も出てくるが、基本的にはコロボックルのコミュニティ内の話。

その分、正統派ファンタジーではあるのだろうが、やや子供向けというか、物足りない感じはする。しかし「あとがき」によれば、作者自身が本来書きたかったのはこういう作品で、ただ、いきなりコロボックルを登場させても「不自然でおさまりが悪い」ので、しかたなく(?)先行する物語として第1作を書いたのだという。

もっとも、「理屈抜きの面白い小人物語」(あとがき)とはいえ、そこかしこに「作中の時代を証言する」(同)部分があって興味深い。特に、沖縄民謡とご縁のできた身として印象的だったのが、南米(本作ではブラジル)への移民とその子孫(つまり今で言う日系ブラジル人だ)の話。「親たちは、日本からの手紙を、とてもとても喜びます。(略)できましたら、お写真も、送ってください」というところに胸を打たれる。

佐藤さとる『だれも知らない小さな国』(講談社文庫)

家人も私も、子どもの頃に読んだ懐かしい作品。昨年末、10歳になる家人の甥にプレゼントしたのをきっかけに、我が家でもシリーズ4作を購入(私がかつて読んだのはここまでだったはず)。

子どもの頃の私は、読書という点では想定された対象年齢よりもかなり上の本を先取りして読んでいたのだけど、このシリーズを読んだのは、それほど幼い時期ではなかったように記憶している。

よく知られているように「コロボックル」と呼ばれる小人が出てくるファンタジーであり、もちろんかつてはそのような作品として読んでいたのだが、実は解説の梨木香歩が驚きをもって指摘しているように、「純度の高いラヴストーリーそのもの」だった。正統派の、いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」であり、伏線の張り方なども含めて実に巧みに構成された、幸せな涙を誘うお話である。

そして今回、直後に読んだ家人も指摘していたが、「虚構」(いちおう)としてはコロボックルの存在という大きな一つがあるだけで、あとは、物語の序盤に主人公が体験する戦争(父親は「空襲がはじまるころ、船といっしょに南の海にしずんだ」と書かれているが、これは著者の父親がミッドウェー海戦で戦死したことと符合する)、戦後の食糧難を窺わせる記述、里山や田畑を脅かす道路開発とその計画変更、発売予定の新車の愛称募集など、実にリアリティあふれる話になっている。「小山」を脅かすのも、またある意味で救うのも、同じモータリゼーションの異なる側面であるというのも、時代を反映していて面白い。別の本の感想で書いたことがあると思うが、「大きな嘘が一つだけ+周囲を固めるリアリズム」というのは、小松左京のSF作品について誰かの解説が指摘していたことに通じる。

著者による四つの「あとがき」、そして梨木香歩の解説まで含めて、再読、再々読に値する1冊。

 

筒井康隆『日本以外全部沈没 パニック短篇集』(角川文庫)

先日、小松左京『日本沈没』を読んだのだが、そういえばパロディ作品として、これがあったなと思い出して、読んでみた。パロディと言っても、小松左京本人に「書いてみれば?」と言われたという、いわばお墨付きである。この作品の末尾にも、小松がパロディ作品の執筆を認めてくれたことへの謝辞が付されている。

表題作を含め11篇が収録されているのだけど…。

あまりこういう書き方をしたくはないのだが、ビックリするほどつまらなくて意外なほどだった。昔はけっこう面白がって読んでいた記憶があるのだけど…。何というか、露悪趣味な部分が、当時は刺激的だったのかもしれないけど、今となっては単に悪趣味という印象しか与えないように思う。古くさい刺激と言うべきか。

そもそも「ネタ」として取り上げている、たとえば学生運動とか農協とかがすでにリアリティを伴っていないという側面もある。私が年を取ったからこういう作品を楽しめなくなったという部分はあるとしても、そういう一過性の「ネタ」に依存している分、若い読者なら今でも面白がって読むという状況も考えにくい。

そういえば、しばらく前に読んだ『さらば国分寺書店のオババ』の巻末対談で、著者の椎名誠が「思ったほどひどくないよ」「当時はオレも面白かったんだから、それがこんなに印象が違うとは思わなかった」と述べていたのを思い出す。

小松左京『日本沈没』は今も読むべき価値のある作品だと思うが、パロディ作品の方はすでに輝きをすっかり失っているのかと思うと、パロディのあり方というものを考えさせられる。

 

村上政彦『結交姉妹』(鳥影社)

新聞の小さなコラムで紹介されていて気になった作品。

漢字ではなく、女性のために、女性が作った、男性には知られていない文字「女書」。

その文字で書かれたメッセージで地縁血縁関係なくつながる女性のネットワークを軸に、古代から現代まで紡がれるストーリー。中心となる舞台は、日中戦争期の中国。

女書の存在も含め史実をベースとした部分とファンタジックな部分が交錯しているが、ややどっちつかずになった感がある。そういう文字の存在だけでもかなり想像力を刺激するので、あまりファンタジックな要素に走らなくてもよかったかもしれない。とはいえ、特に金魚のあたりなどはけっこう好きな雰囲気ではある。必読とまでは言わないが、まぁ読んでも損はない。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(5)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、年内に読了。

この巻は、作品そのものはエピローグだけなので短い。その後は、訳者によるドストエフスキーの生涯と本作品についての解題。

印象的なのは、この小説は未完である、という点。むろん著者自身が冒頭で、これは今から13年前の事件を描く「第一の小説」であって、本当に大切なのは「第二の小説」である云々と断っているので、この先があるなという感覚は当然なのだけど、とはいえ、これを完結した「第一の小説」として扱っていいのかとさえ思うほど、ラストの「放り出され」感は強い。だからこそ、いろいろ解釈の余地のある作品として名を残しているのかもしれないが。

賛否の分かれる新訳ということで、訳者・亀山郁夫の解釈を押しつけすぎというレビューも目にしたが(「妄想」とまで断じる見解もある)、私としては(もちろんロシア語は分からないのだけど)特に文句はない。「解題」も、なるほどと思わせる部分は多々あるし、何より、他のドストエフスキー作品も読んでみたいと思わせるところが優れている(危険とも言う…)。もっとも個人的には、いくつもの愛称が錯綜するロシアの小説でよくある状況は苦にならないし、そもそも海外小説の翻訳そのものに抵抗がないので、まぁ以前の訳でも問題はなかったかもしれないけど。

まぁ端的に言って実に面白い小説だし、再読は必至なので、恐らくこの訳を購入することになると思う。

島田雅彦『パンとサーカス(kindle版)』(講談社)

東京新聞に連載されていて、たぶん昨年8月末に完結した新聞小説。いちおう読み続けていたのだが、夏のあいだ、東京オリンピックとデルタ株から逃れるために自宅を離れており、新聞の購読を停止していたので、この小説も終盤だけ読めず、少し心残りに思っていたので、kindleで購入。

政治的な立ち位置という点では著者とはけっこう近いはずなので、この作品で描写される日本社会の問題などについては、うんうん、そうだよな、と思う部分は多いのだけど、それは文学作品としての価値とはあまり関係ないのか、この小説は駄作というか、読む価値はないと思う。ふと思い出したのが百田尚樹『永遠のゼロ』で、政治的な立ち位置は対照的であるとしても、作品の質には大差がないように思う。いや、それでも『パンとサーカス』の方がところどころ細部で読ませる部分があるだけ、さすがに上か。

アーサー・ミラー『セールスマンの死』(倉橋健・訳、ハヤカワ演劇文庫)

先日観劇した作品。戯曲も読んでみる。

けっこう思い切った演出をしていたようにも見えたが(たとえば戯曲におけるラストシーンが先日の舞台では存在しなかった)、受ける印象に大きな差はなく、その意味では原作に忠実な演出だったとも言える。

それにしても、戯曲で読んでも救いのない内容である…。チェーホフの作品も憂鬱ではあるが、まだしも希望があるように思える(それでも希望を抱いてしまうこと自体が悲劇であるとも言えるかもしれないけど)。

第二次世界大戦の戦勝国でありながら、戦後間もない時期にこういう作品を生み出してしまうことが、逆説的ではあるが、アメリカという国の闇であると同時に懐の深さなのかもしれない。

 

 

 

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(浦雅春・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、映画『ドライブ・マイ・カー』繋がりで、この作品も。

亡母がロシア文学専攻でチェーホフが専門だった関係で家に全集があり、たぶん高校生の頃に代表的な戯曲は読んでいるはずなのですが、『ワーニャ伯父さん』は今ひとつ印象が薄い…。

新潮文庫だと『かもめ』とカップリングで、どちらにしようか迷ったのですが、数年前に『かもめ』の舞台を観た後で原作の戯曲を読んでいたので、それと被らない方がいいな、と『三人姉妹』が入っている方を選びました。ちなみにそのとき読んだ『かもめ』も浦雅春の訳でした。神西清の訳はkindleで無料で入手できるということもあり。

何というか、昨今の国際情勢もあって、二つの作品で描かれている「救いのなさ」と「希望」の両側面のうち、前者が切々と迫ってくる感じで、何だか憂鬱な気分にならざるをえません…。

ちなみに『ワーニャ伯父さん』の舞台はたぶん観たことがなく、『三人姉妹』の舞台は、30年(?)以上前にSCOTのものを観ただけ…。白石加代子の鬼気迫る演技が印象的でしたが、いま思うと、あれはきわめてチェーホフ的であったような気もします。その舞台での最後のセリフが「楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると…」だったので、「音楽は、」と訳されているのは少し違和感があります。

ところで、件の映画を理解するうえで、こちらも読んでおくべきかというと、それもあまり必要ないのではないかな、という気がします。ま、映画は映画で独立した作品です。当たり前だけど。