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廣野由美子『批評理論入門-「フランケンシュタイン」解剖講義』

というわけで、これを読む準備としての『フランケンシュタイン』だった。

前半は小説がどういう構造になっていて、どういう手法が使われているのか、といった、まさに「解剖」と言うべき読み方の手ほどき。後半は、ある作品に対して、どういう視点や角度からの批評の仕方がありうるのか、こういう批評スタイルだったら、この作品のこういうところをこういう風に語ることになる、という例示。作品が1人の人間だとすれば、前半が医学的分析だとすれば後半は社会的評価といったところか。

副題にあるように、素材として取り上げられるのは『フランケンシュタイン』で、やはり先にこの作品を読んでおいた方が、この本もいっそう楽しめるように思う。もちろん、この本を読むことで『フランケンシュタイン』がいっそう親しみの湧く作品になることは間違いない。

主眼は後半にあるのだが、さまざまな批評のスタイルを並列的に紹介していくのを読み進めていくと、著者にその意図はないのだろうけど、何となくそれぞれの批評スタイルのパロディのような趣を感じてしまう。そんなわけで、ふと思い出したのが斎藤美奈子『文章読本さん江』。

本書で取り上げられている批評スタイルのうち、楽しんで読めそうだなぁと思ったのは、精神分析批評、フェミニズム批評、ジェンダー批評(アップデートの必要がありそうだが)、マルクス主義批評、あたりかな。

図書館で借りたが、これは家に一冊あってもいいなと思うので、たぶん買うことになりそう。

 

木村紅美『あなたに安全な人』(河出書房新社)

主要紙でも好意的な書評がずいぶん出ているようだが、実際に読んでみると、これは人に勧めにくい小説である。

いや、貶しているわけではなく、とても良い作品で、私自身は読み終わった後すぐに二度目に取りかかろうとしたほどなのだけど、人に勧めるにあたっては「読む覚悟はありますか」と念を押す必要がありそう。文学的直球。しかも打ちにくいコースに投げ込んでくる。まぁ著者のこれまでの作品もそうだったかも。

幸福な読後感を期待してはいけない。救いがまったくないとは言わないが、今そこにある希望の有効期限はボールペンを1本使い切る未来まで、のように思える(もちろん、その次のボールペンもあるのかもしれないが)。

金原ひとみの「徹頭徹尾息が詰まるような低酸素的息苦しさに満ちている」という評価には共感するが、斎藤美奈子の「コロナ小説の中でも出色のできだと思う」は如何なものか。新型コロナは舞台装置の一つではあっても、この作品の本質はそこではなかろう(なお批評の質にはさほど影響していないのだけど、この2人は主人公の設定について共通の誤読をしている)。

先日我が家を訪れた文芸評論家は「芥川賞あるね」と言っていたけど、この作品が昨年を代表しているのであれば、なるほど今は希望に溢れた幸福な時代ではない。

村上春樹『ノルウェイの森』(講談社文庫・kindle版)

竹内&朴本で「ビリヤード」への言及が繰り返されていて、つい思い出してしまったのがこの小説で、どうしても読みたくなった。『翻訳夜話2』によれば、本人としてはそういう認識はあまりなかったようなのだが、村上春樹がサリンジャーの影響を受けていないとは考えにくい。「死者」と最後に会ったときにビリヤードをやっていたというパターンは、この小説では2回繰り返されている。だから何、と言われてしまえばそれまでなのだが。

単行本は実家に残っているかもしれないし、今の家には家人が持っていた文庫版があるように思っていたのだが見当たらず、kindleで購入してしまった。

今読み返せば、確かに感心しない部分がいくつも目につくし、それほど評価すべき小説とも思えないのだけど、まぁ一時代を画した作品ではあるな。

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)

9月上旬、いつもの駅前の書店でふとこの本が目に入り、サリンジャーはそれほど思い入れのある作家ではないのだけど、著者の名前に懐かしさを覚えて手に取った。パラパラと立ち読みしたところ、どうやら少なくとも『バナナフィッシュにうってつけの日』(『ナイン・ストーリーズ』所収)と『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を読んでおいた方がよさそうで、その二冊を読み終えるメドが立ってから、こちらも購入(『ナイン・ストーリーズ』の最後の一篇『テディ』も本書を読む上では重要)。

自転車通勤の最大の難点は通勤時間中に本を読めないということなのだが、本書を読み終えるまでは、天気が良くても自転車通勤を断念するほどだった。

つまり、それくらい面白い。

そして、読み終わった後、せっかく「予習」として読んだ二冊をまた読み返そう(というより、本書を読みつつ、座右に置いた件の二冊のページをめくることも多かったのだが)、さらには他のサリンジャー作品もすべて、ひょっとしたら原語で読もうかという気になっているのだから恐ろしい。本書の「謎とき」においては「そんなの、他の作品も全部読んでなかったら知らないよ!」と言いたくなる部分もあるのだけど、むしろ「それなら他の作品も全部読まなきゃ」と思わせるところ、著者としては英米文学業界に貢献するところ大と言えよう(といっても、上記二冊はさすがに読んでおいた方がいいと思うが、他は本書中で丁寧に言及されているので、先にこれを読んでしまっても大丈夫)。

小説を読むのは好きだが研究者ではないので、最近の文学評論の趨勢がどうなっているのかさっぱり分らないのだけど、素人ながら、この本はテクスト批評と作家理解のバランスが取れているように感じる。第二章・第三章あたりの時間論的な部分は読者によってはハードルが高いかもしれないが、曲がりなりにも哲学科出身としては、そのへんはむしろ馴染み深い領域なので特に興味深かった。

ビリヤードの比喩が何度も繰り返し出てくるのは、もちろんサリンジャーの作品中で言及されているからという理由が大きいのだろうけど、そういえば我々が大学に在学していた頃にプールバーなるものがやたらに流行っていたのだよなぁ、などということも思い出す。

ああ、この本を学生の頃に読んでいたら、ひょっとしたら私も文学研究を志していたかもしれない。たぶん著者の研究室は優れた文学研究者を輩出している(&することになる)のだろう。何より、「あとがき」で触れられている研究室の雰囲気がいかにも楽しそうで羨ましい。

 

サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(野崎歓・訳、新潮文庫)

しばらく前に、いつもの駅前の書店で竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー』(新潮選書)という本を見かけ、興味を惹かれて手に取ったところ、まずは『バナナ・フィッシュにうってつけの日』を読んでおかねばなるまいということで、『ナイン・ストーリーズ』へ。サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』『フラニーとゾーイー』をいずれも野崎歓の訳で30年以上前に読んだくらいで、『ナイン・ストーリーズ』は初めて。

短編小説は難しい。

わずかなページ数のあいだにスッと作品の世界に入っていかなければいけないし、片言隻句も読み逃してはならない、という気になる。読了するのに要する時間が短い分、読書の強度が高い感じ。私としては、とにかく長い小説が好みなので、そういう短時間高強度の読書はどちらかといえば苦手かもしれない。ひとまず、竹内氏の『謎とき…』で、プロレベルの高強度の読みを味わうのを楽しみに…。恐らくその後でもう一度(あるいは何度か)読み返すことになりそう。

 

 

奥泉光『東京自叙伝』(集英社文庫)

インパクトはあるし、決して平凡な小説ではないし、面白いのだけど、では人に勧めるかと言われると難しい作品。拒否感のある人は全然受け付けないのではないか。

東京の「地霊」が憑依した(というか、人格として表出した)6人の登場人物が、自分が「地霊」の顕在化であった時期について思い出を語るという体裁(後から調べたなどの形で、それ以外の時期について語られる部分もある)。

…と書いても何が何やら分からないだろう(笑) この書評は優れているが、本作を読んだ後だからそう思えるのであって、これだけ読んでも何を言っているのか分からないかもしれない。『福翁自伝』のパスティーシュであるという指摘は、なるほど。私は『福翁自伝』をたいへん面白く(エンターテイメントとして)読んだので、本作にもわりとすんなり入れたのかもしれない。

やや仕掛けに溺れているような印象であり、「あれは私だ」や複数の「私」が遭遇する場面は、途中までは「おおっ」と思わせるが、あまりにも多用されるのでやや食傷してくる。それにしても、そういう仕掛けにまで馴染んでしまい食傷などと言い出すのだから、読者の適応力というか消化力というのは、恐るべきものだなと我ながら思う。

…と書いても、伝わらないだろうと思う。読むしかない。が、読後感はあまりよろしくないだろう。「読後感が良くない」というのは、私にとってはその本をけなす理由にはあまりならないのだが、とはいえ、強いてお勧めはしない。

しかし、オリンピック開催が強行され、その結果次第によっては、これを読んでいるかどうかで、その状況の捉え方がけっこう変わってくるかもしれない。

天沢退二郎『光車よ、まわれ!』(ポプラ文庫ピュアフル)

記録するのを忘れていたが、4月中旬に読んだ。

子どもの頃に読んだ児童文学のなかでも、特に印象に残っている作品。

といっても感動したとか、人生が変わるような影響を受けたとか、そういうわけではなく、よく分からない、何も解決していないような消化不良の薄気味悪さが却って印象に残ったのだ。といっても、つまらなかったわけではない。

で、ふと読み返してみて、やはり印象は変わらず。記憶していたよりも血湧き肉躍る(?)活劇であるのが意外だったが、いろいろ未解決で宙ぶらりんな結末の印象は変わらず、しかしだからこそ面白い作品なのだ。

タイトルは『光車よ、まわれ!』なのだけど、本文では「まわれ、まわれ!」と2回繰り返して叫ぶところを妙によく覚えていた。

図書館で借りたが、買ってもいいな。それより、実家には残っているのだろうか。

 

マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』(鴻巣友季子・訳、集英社)

いやぁ、とにかく面白かった。実はアトウッドを読むのはこれが初めてなのだけど、意外なほどにエンターテイメント。冒頭の、裏切り~没落~隠遁部分からして、お馴染みの進行とはいえ(何しろシェイクスピアなのだから)ぐいぐい引きこまれる。

そして『テンペスト』の稽古に入ってからは、妙な言い方だが「ああ、大学でこういう講義を受けてみたかったなぁ」という感じ。私は大学時代から零細社会人劇団に至るまで芝居に関わっていたので作品を作っていく過程はたいへん面白く読めるのだけど、デューク先生の指導は、演出家というより英文学の教授のようだ。私は文学部出身であっても、いわゆる「文学」の講義を受けたことはないのだが、大学ではこういう面白い文学講義もやっているのだろうか。

惜しむらくは肝心の復讐のシーン。さすがにそういう手段を使うのは(そしてそれが計算どおりにうまく行ってしまうのは)、ちょっと安易ではないか、という気がする。もっと心理的に追い詰めるような作戦を取ってほしかった…。

訳は期待どおりに素晴らしい。割り注がやや煩い気もするが、やはりこれは必要なのだろう。原文で(原文も)読みたいと思わせる翻訳だが、この場合は、良い意味の方である。

そして何より、『テンペスト』を読みたい(あるいは舞台で観たい)と思わせる点で、「語りなおしシェイクスピア」という企画は成功しているのだ。

 

 

アントニオ・タブッキ『島とクジラと女をめぐる断片』(須賀敦子・訳、河出文庫)

今年1月に京都「つるかめ書房」を訪れた際に買った4冊のうちの1冊。ようやく読んだ。

クジラとあるからにはもちろんメルヴィル『白鯨』とも重なる部分があるし、思いもかけず、『失われた時を求めて』との繋がりもあった(堀江敏幸の解説では言及されているが、訳者あとがきでは触れていない)。

ついでに言えば、同じときに買った星野道夫『旅をする木』や、その繋がりで(「島」だからという理由も大きそうだが)池澤夏樹にも重なってくる気がする。この作家(訳者も)の作品を読むのは初めてなので、どういう作風かもまったく知らなかったのだけど、何となく、そういう「匂い」がして、手に取ることになったのかもしれない。

 

 

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學・訳、新潮文庫)

だいぶ前に買ったはずだが会社に置きっぱなしになっていたのが目についたので、持ち帰り、読む。

美しく、人間への愛情に溢れた作品。どこかで聞いたことのあるようなフレーズは、そうか、これが出典だったのか、みたいなのもちらほら(「愛するということは、お互いに顔を見あうことではなくて、一緒に同じ方向を見ることだと」本書p216)。

若いうちに読んでおくほうが良かったかもしれないが、私の年齢で読んでも得るものは大きいように思う。

堀口大學訳はさすがに古めかしくて、これを読み切れない人は今どき大勢いるに違いない。とはいえ、恐らく原文もかなり詩的なものと想像されるので、詩の翻訳で名を馳せた人の訳というのは、ふさわしいのかもしれない。そもそも戦前の人の文章なのだ。新訳であまり読みやすくなってしまい、逆に時代的な距離感がなくなってしまうのも心配である。

とはいえ、さすがにね…。個人的には池澤夏樹に訳してもらいたい感じだ。光文社古典新訳文庫の渋谷豊・訳はなかなか悪くないようだ。ひとまず読んでみたいという人は、そちらで読む方がいいのではないか。

ただこの新潮文庫版は、表紙と巻末の地図、それに解説を宮崎駿が担当している。彼のファンは敢えてこちらを選んでもいいのかもしれない。