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片岡義男『彼のオートバイ、彼女の島(kindle版)』(ボイジャー)

続いて、この作品。

これはバブル華やかなりし頃、映画を観た覚えがある。監督は大林宣彦だったのだなぁ。ロードショーだが二本立てで、メインは『キャバレー』だったはず。

オートバイ愛が横溢している作品だけど、実際にオートバイに乗っている人が読むとどう思うのだろうか。「オートバイに乗ること」に憧れる人にとっては、いまも魅力に溢れる小説なのかもしれない、という印象。

まぁ私個人としては、かつてはいざ知らず、オートバイにはまったく関心が持てなくなってしまった。自分自身がエンジンである「バイク」に乗るようになってしまうと、ねぇ。

「島」の描写は良い。行ってみたくなる。輪行で。

 

片岡義男『スローなブギにしてくれ(kindle版)』(ボイジャー)

というわけで、片岡義男と鴻巣友季子の対談を読んだ関連で、片岡義男の作品を読んでみた。かつて、『彼のオートバイ、彼女の島』を読んだことがあるような気がするのだが、とりあえず、[代表作」とされている、これを。映画の主題歌である南佳孝の曲は馴染みがあるが、原作を読むのは初めて。

う~む、これでチャンドラーなどの作品について「表現は陳腐」とコメントするのは、ちょっとどうかと思う…。せめて、タイトルは本文中に出さないでほしかった。作品の多くは絶版になっているものの、このkindle版の版元でもあるボイジャーが運営する「片岡義男.com」で電子化が進められているという。ただ、この作家が再評価される可能性というと…なかなか厳しいのではないか。

かつて村上春樹『ノルウェイの森』がベストセラーになったとき、文芸評論家の誰かが(その後セクハラで問題になった人だったかもしれない)「朝日ジャーナル」で、「この二人の恋愛に感動した人は、島尾敏雄『死の棘』を読んで、通俗と文学の違いを知ってほしい」とコメントしていたのを思い出す。もっともこのとき私は、「それなら」とさっそく『死の棘』を読んで、「もちろんこれも凄い作品だけど、他方を通俗と腐す理由にはならないのでは?」と思ったものだが。

シュテファン・ツヴァイク『チェスの話 ツヴァイク短編選』(みすず書房)

何やら、この作品を原作とする映画が公開されるようなので、ふと興味を惹かれた。

著者の名は何だかよく目にするような気がするけど、何を書いた人なのかよく知らない。『マリー・アントワネット』とか『メアリー・スチュアート』といった伝記文学が有名、とのことだが読んではいない。解説の池内紀によれば、通俗と見なされてドイツ文学界ではあまり評価されていないのが残念、ということのようだ(ただし同氏の解説についてはAmazonのレビューで厳しい指摘がなされている)。

四篇の短編が収録されているのだが、どれもなかなか面白い。

しかし、刊行が2011年なのに、なぜ新訳で出さなかったのだろう、という疑問が湧く。訳者4人はいずれも1920年代の生まれで、実際にこれらの作品を翻訳したのがいつ頃なのかは不明だが、当然ながら古くささは否めず、「さすがにこれはちょっと…」と感じる部分がいくつかある。たとえば「何を僕が一体君にしたんだい?」(本書P113、『不安』)などという訳し方は、原文のドイツ語の語順がそうなっているのだろうけど、現代の翻訳者ならまずやらないだろう。「いったい僕が君に何をしたというんだい?」くらいか。

とはいえ、作品を楽しむ上でそういう翻訳の古さが致命的かというと、そうでもない。むしろ、昔の翻訳者の力量の高さに驚かされる方が大きいと言えるかもしれない。何しろ作品中に出てくるあれこれをインターネットで調べるなんてことはできない時代だったはずだから。

ちなみに、映画のサイトを見ると、よくあることだが、原作『チェスの話』からはかなり乖離した内容になっている模様。原作もかなり壮絶でドラマチックな内容なのだけど、心理的な描写が多いので、そのままでは映像作品にはならないのだろう。面白そうではあるが、映画を観るかどうかは何とも言えない…。

筒井康隆『家族八景』(新潮文庫)

先日、『日本以外全部沈没』を読んで、どの作品もかなりつまらなかったのだけど、そういえば『七瀬ふたたび』『エディプスの恋人』は、名前をよく知っているのに読んだことがないなと思い、まず、その前物語とも言えるこの作品を読んでみた。

これはなかなか傑作。読心能力を持つ主人公・火田七瀬が目にする「家族」の心の内は、やはりきわめて猥雑で下劣であり、露悪趣味を感じる部分もあるけど、『日本以外…』のように誇張されて鼻につく印象はない。

それにしても、主人公はこの八篇の中で、直接一人を発狂させ、二人(あるいは三人)の死を間接的にもたらすのだから、なかなか罪深い存在である。

いずれ続篇二つも読むことになりそう。

中村文則『逃亡者』(幻冬舎文庫)

何かの折にこの作品が目に入り、新聞連載時に読んでいた記憶はあるのだが、ラストまで完走したのか自信がなくなり、手に取ってみた(諸般の事情で、新聞連載が完結する時期に数週間にわたって新聞購読を中断してしまう年があり、熱心に読んでいたのに結末を知らないという場合がけっこうある)。

政権・社会の右傾化や、いわゆるネトウヨなど非知性的な人々の群れについて、こうした小説の中で言及されているのを目にするのは端的に言って好きではない。そういう現実に日々接しているからウンザリというのもあるし、そうした直接体験に比べて、どうしても嘘っぽいというか、何を指しているのか一目瞭然なのにわざとらしい架空名が使われているときに感じるようなハリボテ感を受けてしまう。

というわけで、新聞連載時には、この作品のそういうところが鼻についていたような記憶があるのだけど、今回再読してみたら、意外に大丈夫だった。もはや、そんな不満を言っていられないほど、そうした空気が現実の中に満ちてしまっているせいかもしれない。

タイトルに示されるサスペンス的な部分もかなり読ませるが、価値が高いのはやはり長崎に関する叙述だろうか。

 

木村紅美『夜のだれかの岸辺』(講談社)

美しい装幀だが、内容はあいかわらず(?)、読むのに覚悟を要するくらい、苦い。

これはあるいは著者の他のいくつかの作品にも共通することかもしれないけど、物語が進むにつれて、主人公とそれ以外の登場人物とのあいだで、世代や境遇の違いを超えて、その人格の境界が融合していくというか、自他の区別が少し溶け合っていくというか、そういう揺らぎが生じていくような感覚を抱く。そしてその揺らぎは、作中の人物と、読んでいる自分とのあいだにも生まれているように思う。まさに文学の文学たる所以なのか。

私はそれほど映画を観る方ではないので、作中での数々の映画作品への言及が響いてこないのが、(作品ではなく読者の側の)残念なところ。そのあたりに通じた人だったら、もっと深く味わえるのかもしれない。

前作『あなたに安全な人』も含めて、これもまたいずれ読み返すのだろうと思いつつ、そのハードルを超えるにもまた覚悟がいるのだろうなと…。

佐藤さとる『コロボックルむかしむかし』(講談社文庫)

というわけで、佐藤さとるの手になる本シリーズもこれが最後。

「せいたかさん」が「小さな国」を見出すより前、人間で言えば、記紀時代から江戸時代くらいまでを描く昔話集。コロボックルの創世神話に始まり、人間と深く関わることを避けるようになった事情を示唆する残念な逸話がある一方で、人間との親密な関係を物語るエピソードもある。人間の側の有名な昔話のコロボックル版といった趣向もある。

その中で印象的なのが、伝説的な名工・左甚五郎と一人のコロボックルの友情を描いた作品「ふたりの名人」。作者の佐藤さとるは、簡単に言ってしまえば性善説というか、いやむしろ「世界は根本的には善きものであってほしい」「ひとはこうであってほしい」という願いを込めてこのシリーズを書いているように思うのだが、それがよく現れているのが、この作品の脇役として出てくる「宿屋の主人」。ジンゴ(後の左甚五郎)が作ったカラクリ細工を買い取って宿賃をタダにしてくれただけでもずいぶん親切だと思うのだが、後にそのカラクリ細工が高額で売れたからと言って、その一部(といっても大金)をジンゴに届けに来る。ジンゴは「あれはあなたのものになったのだから」と受け取ろうとしない。人間はそのように親切で無欲であってほしい、という作者の思いが表われているように思うのだ。

せっかくなので比較しておくと、いぬいとみこの「小人たち」両作では、世界には根本的に邪悪な存在があり、人間は(小人たちよりは強いとはいえ)弱く愚かなものとして描かれているように思う。ただし、その弱さや愚かさには、勇敢さや悔い改め、救済の希望が対置されているのだが。

「あとがき」で、前作『小さな国のつづきの話』を書くにあたって頭を悩ませた点(先の感想で触れた、1~4作目を実在させてしまうことなど)が詳しく語られているのも興味深い。この文庫化されたシリーズでは、どれも「あとがき」と「解説」が実によいのだ。

有川浩に引き継がれた新作を読むかどうかは迷い中。

 

佐藤さとる『小さな国のつづきの話』(講談社文庫)

子どもの頃に読んだのは4作目までなのだが、やはり「つづき」も読んでみる。

作者が「あなたが信じるかどうかはさておき、これは本当の話なのだ」というスタンスに徹するところに驚く。本当の話なのだから、「作者」自身も実在する。佐藤さとると名乗りはしないものの、「せいたかさん」とどういう関係であるかも明かされる。何しろ、この5作目では、それまでの1~4作目が実際に本として出版されており、主人公が働く図書館に配架されているのだ。つまり、私たちが『だれも知らない小さな国』以下の作品を読んだこの世界と作中の世界は、そのまま地続き、同じ世界なのである。

以前、映画『シン・ゴジラ』を観たときに、登場人物の誰もが『ゴジラ』という映画を知らないことに猛烈に違和感を覚えたのを思い出す。実際に私たちが生きているこの世界には、かつて『ゴジラ』という映画が存在したのだし、私たちはそれを観ているのだから、『ゴジラ』という映画が存在しなかったかのように描かれる『シン・ゴジラ』は、虚構であることを大前提とした娯楽作品の枠から一歩も踏み出さない、いわば消毒済みの無害な作品なのだ。

佐藤さとるのスタンスは逆である。あの1~4作目の「本」は実在する。物語の中でも実在する。つまり、(いろいろ情報を伏せている部分はあるとはいえ)コロボックルも実在する。何のためにこのシリーズが書かれたのかという理由も、実に整合的に説明される。

そして、この第5作目の優れているところは、たとえ「小さな国」(恐らく作者の出身地である三浦半島と推測される)とは離れた場所に住んでいる読者にとっても、ひょっとしたら自分の身近にもコロボックルのような小人がいるのではないか、と期待を持たせる展開になっている点だ。

とにかく、伏線の張りかた、回収のしかたが実に緻密である。子どもの頃読んだときには、そんなことには気づきもしなかった。

なお、第3作『星からおちた小さな人』の感想で、いずれおチャ公とおチャメさんが結ばれるような未来があればいいな、と書いたのだが、残念ながら、そういう展開にはならなかったようである。

 

 

 

 

いぬいとみこ『くらやみの谷の小人たち』(福音館文庫)

さすがに、続編も読まざるをえない。

しかし、2004年に再読したときもそうだったのだけど、やはり1作目の方が優れているように感じる。

「人間」側の社会/世界が抱える問題への言及や示唆が、あまりにも作為的に突っ込んだという印象なのだ。私自身としては、そうした問題に対する姿勢という点では作者に十分に共感し、同じ立場を取るとまでいってもいいのだが、それでも、物語の作りとしては、教訓臭めいたものさえ感じてしまう。

ファンタジーという面でも、ややご都合主義的な展開が気になる。たとえば、人間である「純」の背丈が小人たち並みに小さくなって「くらやみの谷」に入り込んでいくといった点。

今回の再々読での収穫は、登場人物の中で、1作目も2作目も脇役なのだが、「信」にけっこう感情移入できるというか、彼の心情に思いを致してしまうなぁという発見があったこと。

 

いぬいとみこ『木かげの家の小人たち』(福音館文庫)

佐藤さとる『ふしぎな目をした男の子』の執筆動機に「乾富子」という編集者が絡んでいたと知れば、これを読まずにはいられないではないか。

ところで、家人と出会ったのは会社の同僚としてなのだが、親しくなったキッカケは、2人とも酒飲みだったということの他に、本が好きだったという要素が非常に大きい。付き合い始める前から、飲み友だちとしてあちこち飲みに行っては、結局は本の話ばかりしていたように思う。

その最初の頃、会社の近所にあったハワイイ料理の店(移転したようだ)に2人で飲みに行き、子どもの頃読んだ本の話になって、共通する記憶としてこの作品の名前が挙がったことをよく覚えている。ちなみにそのとき、いい感じで飲んでいたら、店の人から「これから来店する客にその席を譲ってくれ」と頼まれた。ちょいと理不尽な話だが、聞けば、何と元横綱・武蔵丸関だという(前年に引退していた)。店内を見渡すに、なるほど、あの体格で座れそうな席は、我々がいた角のソファしかなかった。我々はもちろん快諾して、別の狭いテーブルへと移動した。そんなわけで、私の中では、この作品は武蔵丸関の名と分かちがたく結びついている。

それを機に買い直して子どもの時以来に再読したのが20年近く前。今回、久しぶりに再々読。

佐藤さとるのコロボックルシリーズに比べて社会派リアリズムの色が濃いというか、身も蓋もない言い方をすれば「暗い話」という印象があったのだけど、改めて読んでみて、ずいぶん最初から戦時下の話になっているのだなぁと驚いた。主人公ゆりの父親は英文学者、兄は親に反対されつつ幼年学校への進学を望んでいるといったあたり、何だか私の父の境遇と似ている(祖父は英文学者、伯父は幼年学校に進んだ)。祖父が要注意人物として投獄されたことはないはずだが、英語のできる者として軍への協力を求められてもノラリクラリと逃げたという話は聞いたような気がする。

主人公ゆりの人間的な弱さが描かれるのが印象的。身体的な虚弱さではなく、疎開先の家族や小人たちに持ち帰ろうとしていたお土産を、つい誘惑に駆られて食べてしまうとか、小人たちに分けるべきミルクを我慢できずに飲んでしまうとか、人間としてごく当たり前の、意志や性格の弱さ。そして当然ながら後で自責の念に駆られる様子が切ない。

もちろん戦争はやがて終わり、主人公も無事に(疎開前よりもむしろ丈夫な身体になって)両親のもとに帰れるのだけど、物語の終わり方はハッピーエンドではない。

続編はあまり好きではなかったのだけど、やはり続けて読まずにはいられないなぁ。