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『源氏物語(九)蜻蛉~夢の浮橋』(岩波文庫)

最終九巻は半分くらいが年表や和歌一覧、人物索引なので、本編は短い。浮舟が横川の僧都に拾われるあたりが説話っぽくて何だか馴染みやすくスラスラ読めるので、そのせいもあって、この巻はあっというまだった。

2020年8月中旬に読み始めたので、ちょうど2年で読破したことになる。高校3年の冬に中断して以来、37年ぶり、か。

何にせよ、叙事詩でもない、これほどの長編が1000年も前に書かれ、今も読み継がれているということ自体が素晴らしいことなのだけど、読めば分かるように、この作品自体が、漢籍にせよ和歌にせよ物語にせよ、それ以前に成立していた豊かな文学的伝統に立脚して書かれているという、その分厚さに心を打たれるものがある。

これほどの作品なので、もちろん読み方はいろいろあるのだろうが、やはり時代や地域を超えた普遍的な要素は、男女の仲であり、生と死の無常さだよな、という気がしてならない。

ところで、全編を読み終わっての結論なのだけど、この岩波文庫版は、けっこうおすすめである。対訳ではないのだけど、ほとんど対訳と言ってもいいくらい注釈が親切なので(各帖の冒頭にはかなり詳しいあらすじも付いている)、むしろ、左側のページ(注釈)ばかり追って右側のページ(原文)を飛ばしてしまわないように心がけなければならないほど。最初のうちは、「え、なんでこの文については注釈がないの?」などと思うのだけど、読み進むにつれて、そういうところは注釈がなくても分かるようになってしまうところが面白い。

読み始めて、やはり古語辞典が必要かと思い、実家から高校時代に使っていたものを回収してきたのだけど、この『源氏物語』を読む中で調べたい言葉を引くと、まさに気になった当の一節が例文として引かれている場合が非常に多く、なるほど、日本の古典というのはこの作品を軸にしているのだな、ということが痛感される。まぁそんなわけで、次第に「この作品が理解できればいいか」と思って、辞典を引くことも疎かになってしまったのだけど。

いくつもある現代語訳を読むというのも一つの道だし、今さらながら興味がなくもないけど、原文で通読した後、あえて読むのであれば、むしろ大和和紀『あさきゆめみし』かなぁ。

それにしても、この先、世の中がどれほどひどくなっていくとしても、あるいは自分が不遇を託つことになるとしても、こういう本を読む喜びがある限り、なにがしかの救いは常にあるような気がしてくる。

 

『源氏物語(八)早蕨~浮舟』(岩波文庫)

宇治十帖に限らず全編に共通することだが、もちろんこの作品がすべてを物語っているわけではないにせよ、この時代の女性は一人前の人間として扱われていなかったのだなぁという思いを強くする本巻である。

それにしても、薫というのはひどい奴だね。こいつがすべて悪いんじゃないかと思えてくる。そんな評価をされることはないのかもしれないし、そもそも作中でも悪く描かれているわけではないのだが。

さて、いよいよ最終九巻へ。

 

へレーン・ハンフ編・著『チャリング・クロス街84番地』増補版(江藤淳・訳、中公文庫)

本好きのあいだでわりと評判がいいようなので、買ってみた。直接のキッカケは、この記事だったかな。

古書店に行きたくなるし、本を買いたくなるし、手紙のやり取りをしたくなるが、残念ながら最後の一つについては、自分の場合はもう電子的な手段によるメールやメッセージのやり取りになってしまうだろうなぁ……。

私も含めてたいていの読者は、著者であり手紙のやり取りの一方であるへレーン・ハンフの視点で読むのが自然なのだろうが、ロンドン側の視点で読み直すのも面白いかもしれない。

ドラマではないので、特にこれといった出来事が起きるわけではないのだけど、いろいろ思うところの多い本。

へレーンの言葉がいろいろと面白い。「読んでいない本は買わない」(図書館で読んで、好きになった本を買う)とか、「書き込みがあると、前の持ち主とつながれる気がして嬉しくなる」とか。

あと、第二次世界大戦が終ってしばらくは、アメリカよりもイギリスの方が圧倒的に貧しいというか、食料を始めとする物資が欠乏していたのだな、というのは、当たり前のことなのだけど今さらながら感銘を受けた。そして、そうやって貧しくても、文化(この場合は古書)の面で新興の富裕国の心ある人にとって憧憬の対象になっている存在というのは、なかなか良いポジションであるように思う。

ちなみに私はこの本を読んで「乾燥卵」なるものの存在を初めて知った。

翻訳は江藤淳。評論家、保守派の論客という印象だったけど、翻訳もやっているのだな。「洋服」とか「お釈迦様でもご存知ない」とかいう表現が出てきて、いかにも昔の翻訳だなぁという印象は拭えない…。

 

 

ダシール・ハメット『血の収穫』(田口俊樹・訳、創元推理文庫)

義妹のパートナーのFacebook投稿に「椿三十郎」への言及があり、そこから芋づる式に辿っていって、そういえば有名な作品なのに読んでいなかった、とこれを手に取る。

新訳なのに「おまえさん」などという二人称が出てきて、今どきそれはないだろうと思ったけど、考えてみたら、この作品の舞台となっている時代だったら、日本でもそういう言葉を使う人はいくらでもいたはずで、その意味では、新訳だろうと今どきの言葉遣いにする必要は必ずしもないのである。

そういえば、この本を読む前にYouTubeで『用心棒』や『椿三十郎』のシーンなどを少し観ていたのだけど、どうも雰囲気がそのあたりの三船敏郎に似ている知人がいて、その知人だったら「おまえさん」という二人称を使っていても不思議はない気がしてきた…。

ま、そういう細かい点は措くとして、作品自体はどうかというと、登場人物一覧には名が挙がっているのに、ろくに登場することなく殺されてしまう領袖がいたり、ちょっと対立関係をややこしくしすぎているような印象もある。銃撃戦が多い分、策略の部分が弱い。そのへんのバランスが、『用心棒』では絶妙だった気がするのだが。

斉藤健仁『ラグビー日本代表1301日間の回顧録』(カンゼン)

ラグビー関連の執筆者の中で以前からわりと好印象だった著者なのだけど、あるファンがこの人の著作で良かったものの一冊としてこれを挙げていたので、読んでみた。

RWC2015までの軌跡を追ったものなので、RWC2023を来年に控えた今となっては昔話の感もあるのだけど、個人的には一番熱心に代表を追っていた時期とも言えるので、「そうそう、そんな試合もあった」と懐かしく思い出したり、「あの試合、全然ダメだと思っていたけど、そうでもなかったのか…」みたいな今さらの発見もあり。

高橋尚司『ゼロベースランニング 走りの常識を変える! フォームをリセットする!』(実業之日本社)

この手のノウハウ本は記録しないことも多いのだが、いちおう。

私も一時試していたランニング足袋「MUTEKI」の開発にも関わった著者ということで、興味を惹かれて読んでみた。

もちろん私などとは全然レベルの違うランナーなのだが、”BORN TO RUN”に刺激を受け、理想の走りを求めてベアフットランを試したところ、繰り返しふくらはぎを傷め…という経緯がまさに私の体験と一致しているので興味深く読んだ。

私がフルマラソンなど本格的なランニングの境地に戻ることはあまり考えられず、せいぜい5kmくらいをまた気持ちよく走れるようになれればいいなぁ、程度の思いなのだけど、その際にはこの本の教えが参考になるような気がする。

レースに向けてこんなトレーニングをしましょうとか、こんなウェアやシューズを選びましょう、みたいな話を求めている人には向いていないが、良い本である。

 

 

佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』(文藝春秋)

『シン・ゴジラ』を観た流れはまだ続いていて(笑)、知人のツイートを介して、何となくタイトルには聞き覚えがあったこの本を手に取ることになった(といっても図書館で借りたのだけど)。

う~ん、幼稚にして雑、という印象。

諸悪の根源を「戦後民主主義の理念」に求める態度が露骨で、それゆえに無理なこじつけを繰り返している。もちろん「戦後民主主義の理念」に対する著者の捉え方がどこまで的確なのかは疑問だが、仮にそれが的確だとしても、すべてがそれで説明できると考えるとすれば、あまりに頭の構造が素朴すぎるというべきだろう。著者は「十二歳の男の子の堂々めぐり」をさんざん揶揄するのだが、それがどうも、「一足先に大人になった(つもりの)十四歳の男の子」の視点のような気がしてならないのだ。

著者は私と同い年。この本は1992年の刊行だから、せいぜい25歳くらいの若書きである。まぁ確かに、あの頃の私も、この本の著者と同じ程度かはともかく、幼稚にして雑だったと思うので、今の視点からこの本を批評するのはフェアではないかもしれない。

 

梅田望夫『ウェブ進化論-本当の大変化はこれから始まる』(ちくま新書)

2006年に刊行された有名な本。私も当時(といっても、下手をすると何年か遅れだったかもしれないが)、読んだ覚えがある。

15年ちょっと経過した今、「答え合わせ」をするのは、あまりにも痛ましいと言うべきか。著者自身が「あとがき」で触れているように、「オプティミズム」(楽観主義)を常に意識して書かれたものであるだけに、その楽観的なビジョンが裏切られたという現実がある今、これを読むのは辛い。

しかし、「何がうまく行かなかったのか」「なぜ間違えたのか」を考えるという意味では、今こそ読むべき本なのかもしれない。

「うまく行かなかった」のは、本書でも再三出てくる「玉石混交」を「玉」と「石」に選別する作業である。いや、選別作業そのものは着々と進んでいる。しかし、第一に、選別の基準(ネット民主主義)が必ずしも適切ではない、という問題がある。これは確かメレディス・ブルサード『AIには何ができないか』だったかで詳しく言及されていたと思うが、要するに「人気のあるものが優れているわけではない」ということ。第二に、そしてもっと重要なのは、仮に適切な基準で「玉」と「石」を選別したところで、「石」が消滅するわけではない、という点。人によっては「石」ばかりを掴まされてしまうというのが現実だし、古くからある「石」もいつまでも転がり続けている。

こうして「玉石混交の選別がうまく行くはずだ」という著者の楽観は、現実にはあっさり裏切られてしまったのだが、その兆しはすでに本書の中にも現れている。

実は、今になってこの本を読もうと思ったのは、内田樹氏の、このツイート以下の一連の投稿を読んだのがキッカケである。

これに続く投稿でウチダ先生は、

「私は正しい投票行動をした」と思いたい有権者は「どの公約が適切か?」ではなく「どの政党が勝ちそうか?」を予想するようになる。

と分析している。

「ああ、何かの本でこれの典型的な例を見たなぁ」と思い出したのが本書なのだ(当初、その部分だけを探そうとしていたのに、見つけた後、結局全部読んでしまった)。

著者は2005年の衆議院議員選挙の際、得意のネット観察を通じて、既存の「政治に関するエリート層」の予測とは裏腹に、「小泉支持のかなり強い風が吹いているのを感じた」。そして、母親から「今回の選挙は、誰に入れるべきなのか」という相談を受けた著者は、「今回は小泉支持だと伝えた」のである。

10年以上前に本書を最初に読んだときも、この箇所で、「え、なんでそうなる?」と仰天したのを覚えている。私が考える投票行動とはまったく違うからだ。

著者はまさにここで、ネット民主主義による「人気のあるものが『玉』である」という危うい選別を採用してしまっている。こういう見当違いの楽観が、ネットにせよ現実の社会にせよ、いま生じているような厄介な事態を生んでしまったのだろうなぁ…。

 

 

アンディ・ウィアー『アルテミス(上)(下)』(小野田和子・訳、ハヤカワ文庫SF)

アンディ・ウィアーは、大ヒット(でもないか?)SF映画『オデッセイ』の原作である『火星の人』の著者。新作『プロジェクト・ヘイル・メアリー』も好評のようなので読みたいのだけど、文庫化を待ちたいところ。前作の本書も読んでいなかったので、こちらを先に読むことにした。

『火星の人』(原作は実は未読)は、ロビンソン・クルーソー的な、絶対不利な状況に1人残された主人公が知恵を絞ってサバイバルを図る内容だったが、『アルテミス』は月面に作られた街を舞台に多くの登場人物が交錯するSFアクションで、地球とは違う環境条件という点を除けば、趣はまったく違う。意図的なものだと思うが、主な登場人物は、みな国籍・人種・民族を異にしている(もちろん主人公とその父親は共通だが)。何より面白いのが、「いい計画はぜんぶそうなのだけど、この計画もクレイジーなウクライナ人の男がいないと成立しないのだった」と主人公に言わせているところで、著者はアメリカ人なのだが、アメリカ人から見たウクライナ人というのはそういう位置付けなのだろうか?

もちろんネタバレになるのでストーリー展開には触れないが、けっこう身勝手で、用意周到のようで見落としが多く、「やっちまった」感が強い主人公の魅力は捨てがたい。父親や保安官、街のトップである統治官、対立しているようで協力してくれる飲み友達(ある事情で不仲になった)、そしてもちろん、いいSFはぜんぶそうなのだけど、やはりこの小説を成立させるにも不可欠だったオタク色の強いエンジニアなど、脇役も魅力的である。

翻訳もまぁ悪くない。地の文が突然「ですます」調に変化して読者に(?)語りかけるようになるのは、悪い工夫ではないと思う。街のトップや主任科学者、そして主人公と、重要な役どころは女性なのだが、語り口がいわゆる女性語尾になってしまっているのはどうにかならないものか、と思うが…。あと、あまり上品な主人公ではないので罵倒語も頻出なのだが、そういうのの翻訳は難しいんだよな…。

そうそう、『火星の人』も読みたいなぁ。

大橋泰彦『ゴジラ』(白水社)

『セールスマンの死』(PARCO劇場)に出演していた高橋克実の名で劇団離風霊船を思い出し、その後、映画『シン・ゴジラ』を観たことで、ふと離風霊船の代表作の一つである『ゴジラ』を読みたくなった。この作品の舞台は…観たことあったかな? タイニイアリスあたりで観たような気もするが、記憶違いかもしれない。

『シン・ゴジラ』とは対照的に、こちらは誰もが「ゴジラ」を知っているという前提に立脚した作品。逆に、そこに依存しすぎという嫌いもあるが。

それにしても、この頃(1980年代後半)の小劇場というのは、不条理でありつつ、実にロマンチックなものだったなぁと感じる。ロマンチックというのは、ストーリーとして恋愛を描いているというだけでなく、舞台そのものがロマンである、という意味で。

たとえば「生身の役者が着ぐるみもなしにゴジラを演じて、何か問題でも?」といった態度に、演技や演出の可能性、そして何よりも観客の想像力への信頼感がすごく強いことが窺われる。そこにはもちろん、歌舞伎など伝統芸能や新劇における約束事とは違うものの、やはり観客との共犯関係とでも言うべきものがあって、そこに頼っていた部分ももちろんあるのだけど、「この表現についてこられる?」という挑戦的な態度があるように思える。「よく分からない」という人が一定割合、いや過半数でもかまわない、くらいの開き直りもあったのかもしれない。

本書はむろん新刊では入手できず、電子化もされておらず、図書館で借りたのだけど、蔵書点検や設備工事の関係で休館期間があって返却期限が少し延びているので、少し時間をおいてもう一度読み返したい。