読んだ本」カテゴリーアーカイブ

J.D.サリンジャー『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16、1924年』(金原瑞人・訳、新潮モダン・クラシックス)

下北沢駅東口駅前、ピーコックのビルは建替えの予定があるのだったか、わりと寂れた感じというか、退店してしまった店舗も多いように見えるのだが、3階にある三省堂書店も、同じ街で「B&B」や「日記屋 月日」といった面白い書店が元気な一方で、やや時代遅れの駅前大型書店という雰囲気が漂っている。先日ふと立ち寄ったときも、何かこれといった本が見つかる期待もしていなかったのだが、近々買おうと思っていた本書が目について、何となく「記念」に買ってみた。

竹内・朴『謎ときサリンジャー』影響下でのサリンジャーMyブーム。

サリンジャーの読者にはお馴染みのコーフィールド家とグラース家の物語が共鳴し合うように綴られているという印象。思ったより読みやすいというか、すんなりと話に入っていける感じの短編が並んでいる。ただし、最後の『ハプワース16、1924年』を除けば。

で、その『ハプワース16、1924年』について、訳者あとがき(サリンジャーはそうしたものを付加することを拒否していたはずだが)に「じつに難物で、手がかかった」とあるが、さもありなん、という感じ。ただ、父母に対して「レス」「ベシー」とファーストネーム(の愛称)で呼びかけているのを「父さん」「母さん」に訳してしまうという訳者の決断は、あまり感心しない。確かに訳者が言うように「日本ではありえない」かもしれないし、英語でもそれほど多くないかもしれないが、いくら違和感があるといっても、ここは原作に忠実に訳すべきではないかと思う。その違和感も含めて作品に流れる空気なのだから。村上春樹の『フラニーとズーイー』では、ズーイーは母親に「ベッシー」と呼びかけていた。

そういえば、勤務先の外注翻訳者の家庭では、子ども(当時確か小学生くらいだった)に親をファーストネームで呼ばせていたなぁ。確かに違和感はあったが、そういう教育をする家もあるのだろう、と受け止めていた。思えば、親がサリンジャーファンだったのかも知れない。

岸本聡子『私がつかんだコモンと民主主義 日本人女性移民、ヨーロッパのNGOで働く』(晶文社)

今年6月に杉並区長選挙を僅差で勝利した岸本聡子区長によるエッセイ。

これまで彼女がどのような道を歩んできたかよく分かる本なのだが、まぁ、正直に言って、意外な部分が多い。

海外のNGOでの経験が長いというのはもちろん区長選のときにも紹介されていたのだが、そうするとやはり、帰国子女か留学経験があって英語(またはその他の外国語)が堪能な人で、他国の先進的な事例をよく知り、「日本は今のままじゃダメだ」みたいな義憤に駆られて、一念発起して帰国して選挙に…みたいなイメージを抱くし、私自身、そういう人もいいなと思って彼女に投票した部分はある。

が、全然違った。

さすがに仕事では英語を使っていたようだが、いまだに「読むのも書くのも遅」く、「書いたものはネイティブの編集者にしっかり直してもらわないと外に出せない」し、メールはパートナーに添削してもらう。20年間オランダで働いても、結局オランダ語の習得は諦め、「『少し』わかっているフリをして[おとなしくて喋らない人のキャラで]会話に参加している素振りをしてきた」。一節のタイトルに「人生は言語ばかり勉強するほど長くない」とある。また「自分をアピールすること、時には自分の能力以上を表現することは当然」であるヨーロッパで、「『はったり』を含めた自信」がないままに過ごしてきたという。

読んでいくうちに、「この人、別に突出した能力のある人ではないのだな」と感じる。言っちゃ悪いが、この人より才能や手腕に恵まれた人はいくらでも思い浮かぶし、ひょっとすると私自身だって、そうかもしれない。何というか、どこか割り切ったり、何かを諦めることで、いろいろハンデを克服してきた人のように思える。

とはいえ、もちろん「筋」はしっかりしている。

彼女が「絶対に忘れないし、許さない」と強い言葉で批判するのは小泉純一郎であり、竹中平蔵については「今も政界にはびこる」と表現されている。つまり、敵は新自由主義なのだ。

その一方で、自分が原発や在沖米軍基地などの面では抑圧者・加害者の立場にあることも認識している。

ひとことで言えば、「まとも」である。

冒頭で触れたように、6月の区長選は得票差が187票という僅差で決着した。しかしこの本が選挙前に出版され、多くの人に読まれていたら、もっと大差がついていたに違いないし、もっと大差をつけて勝利すべき人だったと思う。

 

松本清張『点と線』(新潮文庫)

先に川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』を読んでいて、ふと、そういえば松本清張って一冊も読んだことがないなぁ、と思い至った(川本三郎には、松本清張を主題にした著書もある)。

名前は非常に有名だし、作品もいくつも思い浮かぶ。が、読んだことはない。どんな作家だったのかも知らない。調べてみたら、芥川賞作家であった。推理小説・歴史小説のイメージが強かったから直木賞なら驚かないのだが…。そして、高等小学校までしか出ていない。それでいて、文筆でこれだけ名を残すとは…。

というわけで、初・松本清張。世に出るキッカケとなった芥川賞受賞作も気になったが、ここはやはり有名なこの作品。

まぁ、とにかく読ませます。文章がうまい。簡潔なのだけど、描写に味がある。もちろん、技術的なことも含めて社会状況という面では、今の若い人が読めばもはや「時代劇」の範疇に入るのかもしれないけど、1960年代後半の生まれとしては、十分にリアリティを感じつつ読める。

もっとも、肝心の(?)推理小説としての側面では、けっこう不満がある。

以下、ネタバレが多いので、これから読む方はご注意。

本作が、時刻表を駆使したアリバイを見破る話(『点と線』という表題からして鉄道のダイヤグラムをイメージしているとも聞いた)であるということは、さすがに知っていた(し、読んでいれば早い段階で分かる)。本書の解説でも指摘されているように、アリバイ破りがテーマになっている推理小説というのは、ある意味、「真犯人」が早い段階で読者にも分かってしまうので、読み進めさせる工夫はなかなか難しかろう。

ただ、この作品では、アリバイを成立させるために「口裏を合わせる」人間が多すぎるのではないか。黒幕的存在の人物はしかたないにしても、作中で名前も出てこないような人間までが因果を含められて嘘の供述をしているのでは、やや興醒めである。それではアリバイができて当たり前ではないか。やはりアリバイというのは、捜査の対象になるすべての人が善意の証人として「嘘を言わない」、少なくとも別の手掛りから見て「噓は言っていない」と思われる、ということが前提であってほしい。

もっとも、社会派リアリズムの作家として「組織」としてのドロドロ(汚職や癒着)が背景にあることが前提であるならば、関与する人間が多くなるのは必然だったのかもしれない。

続けて一気に、ではないにせよ、他の著名な作品もいくつか読んでいこうかと思っている。

 

 

川本三郎『ひとり遊びぞ我はまされる』(平凡社)

雑誌『東京人』に連載されているコラムをまとめたもの。2019年から2021年にかけての文章なので、後半はコロナ禍で行動を制約されている嘆きが多く読んでいて辛くなるが、いや、それでもけっこう動き回っているなぁ。

「誰某がこの駅で降りている」「誰某がこの街について書いている」、だからここを訪れたくなった、というパターンがたびたび出てくるのだが、いずれ「川本三郎が書いていて興味を惹かれたので来てみた」という人も、それなりの数、出現するのではなかろうか。いや、すでにそういうファンはいるのかもしれない。

こういう本を読むときには、Googleマップなどパソコンで眺められる(検索できる)地図を片手に(という表現は変だが)読むと、さらに楽しめるような気がする。もちろん、著者自身は絶対に使っていないはずではあるが。

それにしても、読んでいない作家がいろいろ出てくるなぁ。野口冨士男は読んでいなくてもしかたなかろう(少なくとも私の周囲でこの作家を読んでいる人を知らない)。林芙美子は少しくらい読んでおくべきかもしれないし、紹介されている台湾の作家はなかなか面白そうだが、そこまで手が回るかどうか。

しかし、松本清張を一冊も(!)読んだことがないというのは、さすがに自分としてもどうかと思う。調べてみて、松本清張が芥川賞を受賞していることを初めて知った(というか、むしろ、それで世に出た作家である)。

ひとまず、この本を買ったのと同じ駅前の書店で、『点と線』を買ってきて読み始めている。そういえば、この本が9月末に出たことを知ったキッカケも、その書店のツイートだった。

 

五野井郁夫『「デモ」とは何か- 変貌する直接民主主義』(NHKブックス)

著者のツイートに惹かれて、読んでみた。

刊行が2012年4月ということは、脱原発官邸前抗議や、SEALDsを中心とする若者のデモ・抗議行動が高揚を迎えるより少し前である。

したがって、そうしたデモがその後かなりの程度沈静化してしまった状況やその原因を分析するには至っていないのは決して本書の不備ではない。とはいえ、現時点で本書を読んでも、「そりゃ、確かにあの頃はそうだったのだけど」という印象が強く、そこからどうして今の状況に至ったのかという点に思いを馳せざるをえない。もちろん新型コロナ禍で「人が集まる」こと自体が避けられるようになったという要因は大きいのかもしれないが、当然、それだけではないような気はする。

そもそも、自分で何かを考えたり自分の意見を表立って主張することが忌避される、とまでは言わずとも積極的に評価されない社会においては、著者のいう「暴力から祝祭へ」というデモのイメージの変化も、それほど決定的に社会を変える勢いにはつながらなかったのではないか。そもそも、広告代理店主導の国家的イベントで皆と一緒に盛り上がる状況を別にすれば、「祝祭」を自分たちで作り上げていくこと自体、この社会の人々はあまり得意にはしていないようにさえ思うのである。

 

近藤康太郎『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)

以前、何かのきっかけで同じ著者の『おいしい資本主義』を非常に面白く読んで、甥やもう1人他の誰かにもプレゼントするために購入した覚えがある。自分は図書館で借りて読んだきり買っていなかったので、自分用にも買っておこうと思ったら、版元品切れ…。

で、続編に当たる本書を読むことにした。

これまた実に面白い。

思想的な部分は、少しばかり冷静に読む必要がある。たとえば、

頭でっかちの平和主義者の非戦の声も、軽く、実体がない。平和主義者こそ銃を取れ。

という一節があるのだけど、アジテーションとしては一流なのだが、文字通りに受け止めるとナンセンスなことになってしまう。「銃を取れ」は、別に「自衛隊に入ろう」ということではなく、猟をやって生き物の命を奪う経験をしてみろということなのだけど、世の平和主義者が皆、一時的な体験であれ猟銃を手にしたら、国内の猟場は荒廃してしまうだろうし、逆に言えば、国内の猟場が受け入れられる猟師の数より何桁も多い人間が非戦を唱えなければ、そもそも戦争など防げるはずもない。

こういう部分は、一種の思考実験を強いる挑発と受け止めておくのが妥当であるように思う。

「貨幣の物神性から逃れる唯一の武器」として提示される、「人と人がつながる」「無償贈与による交換形式」にしても、そもそも都会的な消費生活こそ、逆にそういう「人と人とのつながり」から解き放たれるための希望だったことも否定できない。だから著者自身、それですべてをひっくり返す革命を志向しているわけでは全然なく、そこで「経済活動の二、三%」を置き換えてみてはどうか、という示唆に至る。

というわけで、そういう刺激的・挑発的な部分については注意深く咀嚼する必要があるようには思うけど、それはともかく、めっちゃ面白いのですよ、この本は。

序盤の「堤」探しのあたりから(ネット地図を駆使するあたりが現代的で非常に面白い)、「完全人力田植え」のあたりなど、とにかく「あの本に書いてあったんだけどさぁ」と人に話したくなるネタの宝庫なのだ。

おすすめである。図書館で借りた上でkindleで買っちゃったけど、これは紙で買い直してもいいかもしれない。

 

J.D.サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章』(野崎孝、井上謙治・訳、新潮文庫)

「竹内・朴本」の影響はまだ続いていて、当然ながら、これも読む。

一連の作品を読み終わったら、「竹内・朴本」をもう一度読み直そうと思っている。

ところで本書、『大工よ』の方は、(特にグラース家の面々にだいぶ馴染みが出てきた読者としては)それほど抵抗もなく読みやすい翻訳なのだが、『序章』の方は…。もう少し何とかしようがあったのではないか、と思う。その一方で、「いや、これ、たぶん原文も相当のものだぞ…」という訳者の苦労が察せられる部分もけっこうあるような印象。そうなると、「で、実際のところどうなのよ」と原書を買ってしまいたくなるのが職業病というべきか。まぁ仕事以外で英語はあまり読みたくないのだけどね、正直なところ。

いやその前に、次は『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる/ハプワース16』だな…。

宇野重規『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(中公新書kindle版)

前から気になっていた本だが、今回手に取ったキッカケは何だったかな…。

ふだん、今日のこの社会における自分のスタンスは「リベラル左派」なのだろうと思っているのだけど、そうなると、いわゆる「保守主義」の人とは程度の差こそあれ対立することになると予想される。「敵を知り」は大切だから、保守主義とは何かを知っておく必要が出てくる。

ところが…。

この本は、保守主義の源流を18世紀のイギリスの政治家・思想家であるエドマンド・バークに求め、ほぼ時代順に、「フランス革命との戦い」「社会主義との戦い」「『大きな政府』との戦い」という保守主義の変遷を追い、視点を転じて「日本の保守主義」という側面から論じる、という構成なのだけど、読んでいると、少なくともバーク的な意味では「なんだ、オレ、保守じゃん」ということになる(笑)

結局、今の日本社会において「保守」を名乗る資格があるとすれば、それはいわゆる護憲派であって、そういえば立憲民主党を立ち上げたときの枝野文男は「私は保守です」と宣言していたなぁ、と思い出すのである。

 

 

サリンジャー『フラニーとズーイ』(村上春樹・訳、新潮文庫)

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)、小林秀雄賞受賞記念…というわけでもないのだが、昨年、同書を読んでやはり読み直したくなって買っておいたサリンジャーを読む(『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア・序章』も買ってある)。

たぶん大学生の頃に一度読んだきりで、当時はそれほどインパクトがなかったのは、訳者の村上春樹が書いている印象と似ている。

若者を主人公にしているものの、それなりに年を重ねないと理解できない作品なのかもしれない。とはいえ、残念ながらというべきか、それともそうではないのか、何らかの理解を得られたと思ったときにはすでに遅いというか、いくぶん苦い後悔のようなものを抱かざるをえない。もちろん世の中には、もっと若い時分にこの作品から多くを得ることのできる優れた人もいるのだろうけど。

ま、もっと早く読み直していればという気はしつつも、これから何年生きるか分からないけど、それでも今読んだ意味はあるはずだ。

それにしても、Amazonの惹句にある「ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す」というのは、ずいぶんシンプルな解釈だなぁという気がする。そういう話ではない。

 

高木和子『「源氏物語」を読む』(岩波新書)

前書きによれば、これを読んで「『源氏物語』を読んでみよう」という気持ちになってほしい、というスタンスで書かれているようだが、Amazonの惹句だと、「何度も通読した愛好家にも、初めて挑戦する読者にも、新たなヒントが詰まった一冊」とされている。

いちおう原文通読は果たしたので、まとめと言うか、復習というか。

何しろ岩波文庫版の注釈や解説が詳しかったので、この本を読むことで、個別に「なるほど、あそこはそういうことだったのか」と謎が明かされるという部分はそれほど多くないのだけど、それ以上に、「え、この物語って、実は全部○○だったのでは?」という、ある種の妄想を思いついてしまい、そこから逃れられなくなってしまった(笑)

それはさておき、この後、現代語訳(与謝野晶子訳ならば青空文庫で読める)や『あさきゆめみし』あたりも読んでみたいと考えているのだから、『源氏物語』の、いわば中毒性は相当なものだなと思ってしまう。