読んだ本」カテゴリーアーカイブ

島田雅彦『パンとサーカス(kindle版)』(講談社)

東京新聞に連載されていて、たぶん昨年8月末に完結した新聞小説。いちおう読み続けていたのだが、夏のあいだ、東京オリンピックとデルタ株から逃れるために自宅を離れており、新聞の購読を停止していたので、この小説も終盤だけ読めず、少し心残りに思っていたので、kindleで購入。

政治的な立ち位置という点では著者とはけっこう近いはずなので、この作品で描写される日本社会の問題などについては、うんうん、そうだよな、と思う部分は多いのだけど、それは文学作品としての価値とはあまり関係ないのか、この小説は駄作というか、読む価値はないと思う。ふと思い出したのが百田尚樹『永遠のゼロ』で、政治的な立ち位置は対照的であるとしても、作品の質には大差がないように思う。いや、それでも『パンとサーカス』の方がところどころ細部で読ませる部分があるだけ、さすがに上か。

宮田秀明『アメリカズ・カップ-レーシングヨットの最新技術』(岩波科学ライブラリー)

何度か書いているが、J Sportsで放映していたSail GPという大会で「空飛ぶヨット」をたまたま観て仰天し、いったいどういうことになっているのかと気になって、それ以来いろいろと関心が向いている。先日ブルーバックスで流体力学の本を読んだのもその一環だが、もう少しヨットに特化したものを読みたくなって、これを手に取った。

1995年のアメリカズ・カップに挑戦した日本艇の技術責任者が書いたもので、ということは四半世紀前の本であり、タイトルに「最新技術」とあるものの、その意味では古い。まだヨットが空を飛ぶ前の時代である。

とはいえ、艇を「飛ばす」点を除けば、ヨットに掛かる力が変わっているわけではないので、基本的な理解という点ではけっこう参考になった。

参考になったといっても、もう、とにかくややこしい(笑) ええと、風がこっちに吹いているときはセールにはこういう力が掛かって、基本的にはこっちに進むということは、キールと舵にはこういう力が掛かって、そのバランスが云々…なんてことを頭で考えていたらたぶん操作が間に合わないので、実際には、ほとんど反射的にというか、こっちに傾いたからこうだよね、くらいの身体感覚で操っているのかもしれない。それはたぶん自転車の乗り方のコツを言葉で説明されても、実際に乗ってみて、言われたようにやってみなければ頭に入ってこないのと同じだろう。

もっとも、そもそも私が実際にヨットを操縦することは今後もほぼ確実にないだろうし、それどころか、テレビで競技を観る機会もそれほど多くはない(観たいけど、他の競技を観るのに忙しくて観る暇がない)。その意味で私なんぞがこんな本を読んでも、ほとんど何の意味もない。

ただ、本書の著者は、こうした最先端の技術は、一般の人々には縁がないように見えても、そういうものを面白がり、わずかなりとも理解しようとする人たちの裾野が広がることによって支えられる、という趣旨のことを述べ、そのために本書を書いた、と言っている。これは船舶技術に限らず、あらゆる学問や芸術に共通することだろうと思う。私がこの本を読むことによって広がる裾野なんて多寡が知れているが、そもそも裾野というのはそういうものだ。

なお、この本を読んだ後もいろいろ気になって検索してしまったのだけど、ヨットが空を飛び始めたのは2010年代に入ってからなのかなぁ? 今のSail GPで使われているカタマラン(双胴)の艇は少し前のアメリカズ・カップの規定に沿ったもので、アメリカズ・カップでは前回2021年と次回2024年は単胴艇が使われるようだ。空を飛ぶことには変わりないけど。

 

浮谷東次郎『がむしゃら1500キロ』(筑摩書房)

例の面白サイト「デイリーポータルZ」に、「原付バイクで東京から京都まで1日で行けるのか」という記事があり(URL)、Facebook上で「『がむしゃら1500キロ』を思い出します」とコメントしたら、他の人から「懐かしい」という反応が寄せられたこともあり、再読したくなった。実家に戻れば残っていると思うが、面倒なので図書館で借りた。

デイリーポータルZの記事では中山道を使い18時間で走破しているが、本書では、東海道を使って、名古屋で1泊している(あれ、京都でも泊まっていたかな?)。何しろ、舞台は1950年代。天下の東海道でさえ、砂利道だった時代である。東京オリンピックも、大阪万博も、まだ先の話だ。

著者は中学3年生(その年齢で原付に乗れたのだなぁ)。乗っているのはクライドラーというドイツ製の50ccで、名車とのことだが、とはいえ、信頼性も含めた性能は現代のスーパーカブとは比較しようもないだろう。もちろん、現代の我々が馴染んでいる諸々は、ほぼ何も存在しない。スマホも、パソコンも、ペットボトルのドリンクも、コンビニも(裕福な家だったようで、テレビは出てくる)。

私がこの本を最初に読んだのは1980年代初頭だったはずで、当然ながら、その頃はこの本で語られている状況にそれほど隔世の感を抱いていなかったが、いま読んでみると、かなりのギャップを感じる。

そもそもフィクションである『飛ぶ教室』や『君たちはどう生きるか』に比べれば、現実の少年が書いたノンフィクションであるこの本は、文章も年齢のわりにしっかりしているとはいえ整っているわけではないし、散漫な部分もあるし、もちろん、子どもっぽい意見や考えも随所に見られる。

それでも、若さに付きもののあれこれには、かなりの程度の普遍性があるように思うのだけど、いまの中学生が読むと、どう感じるのだろうか。

そういえば、市川~大阪間を往復する(和歌山にもちょっと寄る)夏休みの冒険旅行の部分はもちろん素晴らしいのだけど、私がよく覚えていたのは、その後の年明け、元旦の日記。晴れやかな気分で朝を迎え、さすが元旦とか言っているくせに、夕方になると「正月とはこんなにつまらないものだったのか」と思ってしまう。そのあたりに妙に成長を感じてしまうのだ。

トム・チヴァース、デイヴィッド・チヴァース『ニュースの数字をどう読むか--統計にだまされないための22章』(北澤京子・訳、ちくま新書)

これまた、田畑暁生氏の紹介で知った本。

統計については、一度しっかり勉強したいと思いつつ、果たせていない。この本は体系的な統計入門というわけではないが、報道で出てくる数字が誤解を生み出してしまう例がふんだんに紹介されていて面白い。正確なデータと出典が示されている(つまり虚偽ではない)からといって、報じられている内容に信憑性があるわけではない。

とはいえ、頭では分かっていても、なかなか徹底できないものだよなぁ…。本書で紹介されている例のうち、サンプルの規模や偏り、チェリーピッキングが招く誤解や、統計的に有意であるからといって意味があるとは限らない、といったあたりについては自力でも思い至りそうだが、交絡因子や合流点についてはなかなか難しい。

ちなみにこの本で紹介されている中でいちばん興味深かったのは、「新型コロナの初期の段階で、感染者・重症者に占める喫煙者の比率が低かった」という事例。もちろん、喫煙習慣が新型コロナの予防・重症化防止に役立つわけはなく、むしろその正反対なのだが、どうしてこのような結果(それ自体は嘘ではない)が出てしまったのか。

翻訳には特に問題を感じなかった。しかし、英国流の諧謔というのか、各所に冗談がちりばめられていて、そのおかしみを伝えるのはなかなか難しそう。感じ取るのは読者次第か。

 

アーサー・ミラー『セールスマンの死』(倉橋健・訳、ハヤカワ演劇文庫)

先日観劇した作品。戯曲も読んでみる。

けっこう思い切った演出をしていたようにも見えたが(たとえば戯曲におけるラストシーンが先日の舞台では存在しなかった)、受ける印象に大きな差はなく、その意味では原作に忠実な演出だったとも言える。

それにしても、戯曲で読んでも救いのない内容である…。チェーホフの作品も憂鬱ではあるが、まだしも希望があるように思える(それでも希望を抱いてしまうこと自体が悲劇であるとも言えるかもしれないけど)。

第二次世界大戦の戦勝国でありながら、戦後間もない時期にこういう作品を生み出してしまうことが、逆説的ではあるが、アメリカという国の闇であると同時に懐の深さなのかもしれない。

 

 

 

石綿良三、根本光正著、『流れのふしぎ』(講談社ブルーバックス)

水や空気といった「流体」のさまざまな特性について、手作りおもちゃレベルの実験を通じて、それがどのように現実の社会で利用されているかも含めて解説していく本。

全体に面白くわかりやすかったけど、私がこういうテーマに興味を持ったキッカケはヨット競技(Sail GP)を観たときの衝撃なので、もっとヨット関係に特化した本を読みたいところ。

ところでこの本は図書館で借りたのだけど、返却するときのチェックで、「水濡れの痕がありますけど、借りたときからこうでしたか?」と聞かれた。もちろん私はそのような粗相はしていないので、その旨を伝えて問題なかったのだが、考えてみたら、この本がそのような損傷を被るのは当然といえばあまりにも当然なのである。だって、この本を片手に水遊び(のような実験)をしながら学びましょう、という本なのだから(笑) その意味では図書館の蔵書とするには不向きである。「水濡れには注意しましょう」という警告でも挟み込んで貸した方がいいかもしれない。

 

ジェイムズ・オーウェン・ウェザーオール『ウォール街の物理学者』(早川文庫、高橋璃子・訳)

何で知ったのかは忘れた。図書館で借りたのだけど、他のいろいろな本との兼ね合いで読み切れず、kindleで購入。

物理学者というより、特に前半は数学(確率、統計?)の比重が大きいように感じるのだけど、中盤以降、現代に近い時期に登場する人物の経歴では、数学・物理学などという境界に囚われることなく、けっこういろんな専攻分野を渡り歩いているようで、本当に、才能のある人というのはいろんな領域でその力を発揮するのだなぁと感嘆してしまう。

さて私が理解する限りでは、本書を煎じ詰めれば、

物理学者が金融の世界に持ち込んだのは単なる数式ではなく、世の中の問題を考えるための方法論だった。同じやり方が、経済のその他の分野にも役立つ可能性は十分にある。(エピローグ)

ということで、要するにその方法論とは、モデルを考案して、そのモデルが現実をどれくらいうまく説明してくれるのか検証し、そのモデルが通用しない場合は何が原因で、どうすればモデルを改善できるのか、というプロセスなのだろう。

ただ、どうにも腑に落ちなかったのは、金融市場にそうした方法論を適用する場合、何をめざしているのか、という点。本書の登場人物が編み出したモデルは、基本的には市場での運用に用いられる。つまり目的は、「利益を上げる」ことである。その考え方が広く知られるようになったり、あるいはモデルの欠陥が露呈してしまえば、ひとり勝ちはできなくなるわけだが。

しかし、そうやってモデルがどんどん改善されていくことで、金融市場というものは以前よりも良いものになっていくのか、そして「良い」というのは「誰にとって」「どのように」良いのか…。そのへんは、本書を読んでも今ひとつピンとこない。たとえば本書の例で言えば、大地震を予測できるようになれば被害を大幅に軽減できるとか、燃料タンクがダメになる兆候を察知できれば(劣化自体は防げなくても)事故を予防できる、というのは分かりやすい。しかし、市場暴落の兆候を察知できるようになると、察知した投資家自身は損失を免れる(というより暴落によって巨利を得る)ことはできるが、暴落そのものを防ぐことにはつながるのだろうか。あるいは下落をマイルドなものにすることで、誰もが致命的な打撃を受けずに、市場の動き自体を穏やかなものにしていくことができるのだろうか…。

さて、翻訳がかなり素晴らしい出来であることは特記しておきたい。2カ所ほど原文を確認したいと思う箇所はあったし、もちろん物理学・数学・金融市場の専門家が読めば注文をつけたくなるところはあるのかもしれないが、とはいえ、「読みやすい訳文を心がけた」という構えや意気込みを取り立てて見せることなく、いわば自然体でこの翻訳を生み出せてしまうのは敬服に値する。

 

チェーホフ『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』(浦雅春・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、映画『ドライブ・マイ・カー』繋がりで、この作品も。

亡母がロシア文学専攻でチェーホフが専門だった関係で家に全集があり、たぶん高校生の頃に代表的な戯曲は読んでいるはずなのですが、『ワーニャ伯父さん』は今ひとつ印象が薄い…。

新潮文庫だと『かもめ』とカップリングで、どちらにしようか迷ったのですが、数年前に『かもめ』の舞台を観た後で原作の戯曲を読んでいたので、それと被らない方がいいな、と『三人姉妹』が入っている方を選びました。ちなみにそのとき読んだ『かもめ』も浦雅春の訳でした。神西清の訳はkindleで無料で入手できるということもあり。

何というか、昨今の国際情勢もあって、二つの作品で描かれている「救いのなさ」と「希望」の両側面のうち、前者が切々と迫ってくる感じで、何だか憂鬱な気分にならざるをえません…。

ちなみに『ワーニャ伯父さん』の舞台はたぶん観たことがなく、『三人姉妹』の舞台は、30年(?)以上前にSCOTのものを観ただけ…。白石加代子の鬼気迫る演技が印象的でしたが、いま思うと、あれはきわめてチェーホフ的であったような気もします。その舞台での最後のセリフが「楽隊は、あんなに楽しそうに、あんなに嬉しそうに鳴っている。あれを聴いていると…」だったので、「音楽は、」と訳されているのは少し違和感があります。

ところで、件の映画を理解するうえで、こちらも読んでおくべきかというと、それもあまり必要ないのではないかな、という気がします。ま、映画は映画で独立した作品です。当たり前だけど。

 

村上春樹『女のいない男たち』(文春文庫)

映画『ドライブ・マイ・カー』を観た以上は、原作も読まねばなるまい。

未読の状態で映画を観た、と思っていたのに、Amazonで検索してみたら、「お客様は、2016/10/18にこの商品を注文しました。」と…。実際、このブログでも感想を書いておりました(笑) それくらい印象の薄かった一冊、ということか。

映画を観たときは随所で「うわ~、村上春樹だなぁ」と思ったのだけど、一番それを感じたセリフは実は映画のベースになっている3本の短編には存在せず、他の春樹作品をパラパラとめくっても今のところ発見できておりません。いかにもそれっぽいセリフを語らせるあたり、濱口監督はかなり筋金入りの春樹ファンなのだろうか…。

初読のときの感想に、

たまに、「○○を村上春樹風に書いてみる」みたいなパロディ(?)を見かけるのだけど、ほとんどの場合、「ああ、作品をろくに読んでいない人がやっているな」と思うだけ。似てないんだよね。

と書いたのですが、その意味では監督にみごとにやられた感じです。

さて、この原作を読んでいないと映画の理解に差し支えるかというと、全然そんなことはないように思います。劇中劇というか『ワーニャ伯父さん』を作っていく過程については原作とほとんど関係ないのですが、それ以外の部分についても、原作からはモチーフと、そう、語り口だけ借りてきたという感じで、映画は映画として先入観なしに楽しめるし、むしろその方がいいのではないかな。

黒川祐次『物語ウクライナの歴史』(中公新書)

にわかウクライナ通と笑わば笑え、不幸な出来事がきっかけであるとしても、こういう機会にこれまであまりご縁がなかった国や社会について多少なりとも知るのは、決して悪いことではないはずだ。

本書は駐ウクライナ大使だった著者が、紀元前からソ連崩壊後の独立に至るウクライナの歴史を、情熱と愛情を込めて語る体裁。一貫して「ウクライナびいき」ではあるのだが、なぜウクライナの独立がこれほど困難だったのかといった分析にしっかり冷静さが感じられる。

もちろん、昨今の悲惨な展開について日々の報道を追う際におおいに参考になることは言うまでもない。原子力発電所をめぐって頻繁に目にすることになったザポロージェという地名は実に由緒ある場所なのだなぁ、などという具合に。

この戦争は、今日(3月19日)の時点では、ウクライナの勝利(&ロシアの中長期的かつ不可逆な没落)に終るのではないかと私は思っているのだが、そうすると、ウクライナは著者のいう「ヨーロッパ最後の大国」として存在感を強めていく可能性は高いかもしれない。

個人的には、亡父が専門的に研究していたオノレ・ド・バルザックとウクライナ(相手はポーランド貴族だが)のご縁がいちばん印象に残った。