ホメロス『イリアス(上)』(松平千秋・訳、岩波文庫)

先日読んだ『啓蒙の弁証法』が刺激になって、よし『オデュッセイア』を読もうと思ったのだが、それにはまずこれを読んでおかないと、と『イリアス』を購入。

いや~面白い。たぶん小学校高学年くらいで子ども向けの『ホメーロスのイーリアス物語』を読んでいたので、だいたいの展開は覚えているというのが大きいのだが、約450ページを2日と少しで読了。

『啓蒙の弁証法』で延々と『オデュッセイア』について論じられていたように、おそらくこの『イリアス』も西洋の思想的源流として分析的(思想の考古学的)に読める要素がたくさんあるのだろうけど、結局、そういう難しい話は抜きにして、娯楽作品として楽しんでしまっている。

かなりの部分は合戦の描写だが、口承文学ゆえに決まり文句、定型表現が多い。戦いで倒された者について「身に着けた物の具(武具)がカラカラと鳴った」「闇が〇〇の目を覆った」「四肢は萎えた」などが頻出する。日本でいえば「枕詞」の類も多い。「脛当て良きアカイア勢」とか「馬馴らすトロイエ勢」の類。こういうのをクドいと感じるか、そこにリズムを見出すかによって、この作品を楽しめるかどうかが分かれるかもしれない。

それにしても、この世界における神々と人間の距離の近さには改めてびっくりする。トールキンの作品世界でのマイア、エルフ、ノルドールの力関係は、これに近いものがあるのかもしれない。

そして、こういうのを読むにつけ、やはり自国の軍記物の白眉『平家物語』も原文で読んでみたいなぁという気持ちが高まってくる(もっとも下巻を読み終わったらもちろん『オデュッセイア』に進みたいし、自国の古典では『源氏物語』が一大目標ではあるのだけど)。

上述の子ども向け版の出来がけっこう良かったのか、原典(といっても翻訳だが)で読んでもそれほど違和感はない。ただ、冒頭の「凡例」で訳者が、「ホメロスの言語はイオニア方言系が主体となっているので、多くの読者には耳慣れぬ語形が少なくなかろうと思う。それらの語については、少なくとも初出の場合には、一般に知られているアッティカ方言系を括弧内に示した」と断っているように、固有名詞で戸惑うところもある。その最たる例を挙げれば「トロイア」ではなく「トロイエ」である、といった具合に。まぁそれも慣れる。

人名が、「〇〇の子」と父称で呼ばれていることも多いので、これも慣れが必要。子ども向けの方では、「アトレウスの子」はアガメムノン、「ペレウスの子」はアキレウス、「テディウスの子」はディオメデス、といった具合に初出を除けば統一を図っていたような覚えがある。

あと、子ども向けではかなり控えめにしてあったような気がするのだが、かなりスプラッタというか、えぐい表現も多い。「脳漿はすべて兜のなかに飛び散った」とか、「血塗れになった二つの眼球が足下の砂中に落ち」とか。このへんの表現については、古代のギリシャ人は人体解剖とかもよくやっていたのだろうなぁと思わせる。

ちなみに、時代はまだ青銅器時代。鉄は存在するのだが、金と並んで贈り物にカウントされるくらいの貴重品という位置づけ。そんな時代からこんな戦争をやっているのだから、人類が滅亡しなかったのが不思議である(笑)

 

稲葉振一郎『経済学という教養』(ちくま文庫)

Twitterで誰かが勧めていて気になった。新刊では入手できず、図書館で借りたが、kindle版も購入。

「素人の、素人による、素人のための経済学入門」を謳ってはいるが、読者が経済学の素人であるということを前提にしているというだけであって(※)、けっこう負荷をかけてくる本なので、とっつきやすさ、手軽さを期待しない方がいい(そもそも※の部分も若干怪しい気がする・笑)。

つまり、読み応えのある本、ということ。ネタバレになるが、「ここで労働組合に再び光が当たるのか~」というのはなかなか感動的であった(少し強引な印象もあるが)。

文庫版で追加されたという「経済成長擁護論再び」は、気候変動の影響が年々厳しく感じられているなか、さすがに楽観的すぎるだろうと思って読み進めていたのだが、ラストで、経済成長と環境負荷の低減を両立させる策として、ええ~っと思うくらいSF的な構想に至ったのでびっくり。それが希望である(きわめて楽観的ではあるが)という点にはもろ手を挙げて賛成するのだけど、ちょっと本書全体の流れからは浮いている気がする。いや、話としては面白いんだけど、相手が自然であるだけに、そこまで都合よく行くかなぁ。自由市場を前提とする資本主義が人類にとって最適の選択である、その選択を突き詰めて最適化していった結果、環境に適応できずに絶滅する、というシナリオの方が(残念ながら)現実的であるようにも思える。

ギャヴィン・プレイター=ピニー『「雲」の楽しみ方』(河出文庫)

仕事(原稿)を通じて知った何かに興味を惹かれて関連の本を読む、ということをやっていると、何しろ「何でもあり」の翻訳屋稼業、対象が広がりすぎて収拾がつかない(そもそもそんな暇もない)のだが、たまに、つい読んでしまうことがある。これもその一冊。

良い本。

家人の影響で、昨年、野尻抱影の『新星座巡礼』を読んだけど、あれと同じように、やわらかなエッセイ調でもあるのに情報量が多く、楽しいのに読むのが大変、消化しきれない、という類いの本。

しかし、「雲」を楽しむという趣味が、たとえば「星」「樹」「野鳥」などを観る楽しみに比べてありがたいのは、「雲」はどんなに都市化されていても、それなりに楽しむことができるし、かなり特殊なものを除けば、特定の地域でなければ観られないというものもないし、ある意味、ほぼ天候にかかわらず目にすることができる(雲一つない快晴が続けば観られないが、それはそれで気持ちのいい話である)。

ただその分、歩いているときにふと空を見上げて雲に注意を奪われる頻度も高くなるだろうから、足下には気をつけた方がいいのだが。

いきなりこの本を読むと、雲の判別の説明について行けない部分が多々あるのだけど、「こういうところに注意するのだな」ということは分かってくるので、読了後、少し雲を観察する経験を重ねてから再読すると、たぶんもっと楽しめる(この本も、雲を見ることも)のだろう。

残念ながら写真はモノクロなのだけど、フルカラーで雲の写真が見たければ、訳者後書きでも示唆されているように、著者が立ち上げた「雲を愛でる会」のウェブサイトを覗けばよいはず。

 

 

小笠英志『高次元空間を見る方法~次元が増えるとどんな不思議が起こるのか』(講談社ブルーバックス)

Amazonで見かけて気になり、図書館の新着コーナーにあったので手に取ったのだが、これは期待外れ(ちなみに私の後に予約がたくさん入っている…)。

3次元ではほどけない結び目が4次元ではほどける、というところまではよく分かる(これはたぶん誰にでも分かる)。しかし、さらにその上の次元になると、著者の説明はとたんに乱暴になる。結局「直感力を働かせて気合いで想像してください」「想像を膨らませてください」というフレーズに頼るだけ。図は多用されているのだけど、「かなり気持ちを描いたものである」「かなり、気持ち重視で、…を描いた概念図」といった感じで、およそ参考にならない。

(もちろんこれは、著者が書いていることが間違っているとか無意味であるということではない。また、序盤の部分であまりにも重複が多く冗舌なのは編集者の責任だろう。)

どうしてこのようなことになってしまうのか、と考えると…。

著者は冒頭に近い部分で、「無定義語については語らない」旨を宣言している。そこで挙げられている無定義語の例は、「点」「直線」「2」「交わる」「大きさ」「位置」「もの」。その後のコラムで挙げられている「時間」も同じ。

そして、

定義が無い言葉があるのに、他人とそれらの言葉を使って意思疎通ができるのは、どうしてだろうか、と不思議に思う人もいるかもしれませんが、そういうことは数学や理論物理では考えません。真面目に数学や理論物理を研究している人達は、そんなことを考えるのは空虚なことだと思っています。そんなことよりも、たとえば、この本で紹介するような高次元の図形の形や動きについて考える方がずっと意味のあることです。(本書p18)

と言う。その後のコラム「時間について」でも、「『時間とはなにか?』というのは考える意義のない問いです」と断じている。

(「真面目に…理論物理を研究している人達」のなかにも、もちろん「そんなこと」を真剣に考えている人はいくらもいるので、その点においても見識が狭いようだけど、それはさておき。)

これは結局のところ、自分の学識の依って立つ根拠を問い直す姿勢がない、ということであって、端的に言えば非知性的である。念のため、頭がいいことと知性的であることは別ものであり、研究者としての能力とも(恐らくあまり)関係がない。知性がどうしても必要になるのは、まずもって「越境する」ときなのだ。

「自分の説明を読者は分かってくれるのだろうか」という疑問、突き詰めれば「自分の言葉は通じないかもしれない」という恐怖を(無意識にせよ)抱いていない人が書くものというのは、多かれ少なかれ(この本では「多かれ」)独善的である。

これもまた、高度で難解ではあっても素朴(ナイーブ)である一例かもしれない。

その点、『眠れなくなる宇宙の話』シリーズの佐藤勝彦や、先日読んだ森田邦久、それから『素粒子論はなぜわかりにくいのか』の吉田伸夫といった著者は、書き手として優れている。『フェルマーの最終定理』のサイモン・シンも良い。「自分の言葉は通じないかもしれない、だが…」というところから出発しているように見えるからだ。

そういえば、図やイラストを多用して「想像」させるという意味では、だいぶ前に読んだニュートンムックの『次元とは何か』はなかなか優れていたように思う。

 

 

 

 

岡田暁生『西洋音楽史~「クラシック」の黄昏』(中公新書)

年末に『メサイア』を聴いていて、こんな本を読みたくなった。

最初に「俗に『クラシック』と呼ばれている芸術音楽」を、「楽譜として残された知的エリート階級の音楽」と定義し、以下その歴史を、中世~ルネサンス~バロック~ウィーン古典派~ロマン派~世紀末~二〇世紀と、その折々の政治的な情勢と絡めつつ、通史的に検証していくという作り。

けっこう著者の主観が入っている(著者自身、そのように書くと宣言もしている)ので、特定の音楽家に思い入れのある人が読むとけっこう反発を感じる部分もあるのかもしれないが、私としては、馴染みのない作曲家や時代はあっても、特に偏愛する対象はないので、その点は問題なかった。もちろん、そういう馴染みのない作曲家の作品を聴いてみようという動機は十分に与えられる。

子どもの頃に少しピアノを習っていた身としては、ハノンやツェルニーが「西洋音楽史」のなかに確固たる意味を持つ存在として位置付けられているのが興味深い。

図書館で借りたのだけど、いずれ再読したいので電子書籍で買うかも。

 

森田邦久『量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性』(講談社現代新書)

2019年最後に読み終わったのはこの本ということになった。

かなり読み進むまでは、今ひとつ哲学的な探求(反省)が感じられず、「いや、だからある物理量が実在するかしないかって、実在、存在の意味を問わなきゃ哲学とは言えないでしょ」などと文句を言っていたのだけど、終盤に差し掛かるにつれて、ああ、この著者はなるべく哲学的なタームを使わずに哲学的な内容に触れようとしているのかだなぁということが感じられるようになった。「未来が現在に影響を及ぼす」論に関して(いかにもスピリチュアル系の人が「量子力学で証明されています」みたいな形で持ち出しそうな話だけど、これはもっと真面目な文脈である、もちろん・笑)、因果関係が時系列に拘束されるというのは人間の思考の枠組みがそうなっているというだけであって(表現はこのとおりではなかったと思うけど)……というあたりは、まさに「哲学」の本領発揮という感じ。

面白い本だった。

結局、物理学もこの段階に至るとメタ物理学(metaphysics)を論じることなしには、自然科学の素朴性という限界を超えられないのだろうなぁ、という印象。結局、いくら高度で難解であっても、素朴なものは素朴なままなのだ。

 

プルースト『失われた時を求めて(14)』(吉川一義訳、岩波文庫)

というわけで、完読。

読み始めたのが2015年11月末くらいなので、4年間。2018年1月にこの新訳の刊行に追いついて、その後は続刊が出るたびに買って読む、という感じ。

この読書記録用ブログ「冬の日の図書室」では「プルースト」というタグを作り、関連書も含めてまとめてあるのだが(→URL)、順に追っていくと、だんだん感想の量が増えていく様子が分かる。つまり、それだけ作品の世界にハマっていっている、ということ。だいたい8巻くらいから、「もう一度最初から読み返す」という考えがちらちら浮かんできているようだ。そして恐ろしいことに、というか予想通りというべきか、私はこの最終巻を読んで、「遠くない将来に、必ずもう一度読み返そう」と決意しているのである(笑)

この作品を読めば、人生は確実に変わる(恐らく&願わくば、少し有意義な方向に)。その意味で、名作であることに疑いはない。しかしもちろん、それだけの時間を費やすべきかどうかは、まぁ人によって違うとは思うのだけど。

この巻は、最終章「見いだされた時」の後半とあって、前巻をさらに発展させた感じで、「老い」というテーマが圧倒的な中心。「死」の影もけっこう重要。ところが最後の最後に出てくる比喩が、滑稽とまでは言わないが、なんとなく可笑しみがあって、ひょっとするとここには人生の喜劇的な悲しさが現れているのかもしれないが、しかし訳注で紹介されている図版に、またちょっと微笑を誘われてしまうのだ…。

 

 

 

ミカエル・ニエミ『世界の果てのビートルズ』(新潮クレストブックス)

ラグ友が購入した数冊の本の書影をSNSにアップしていたのだが、そのなかで気になった本を図書館で借りて読む。

スウェーデンのなかでも限りなくフィンランドに近い僻村で暮らす主人公の就学前から十代くらいまでを描いた、いわゆるビルドゥングスロマン。ユーモアには富んでいるのだけど、取り立てて甘美でも痛快でもない。その分、リアリティが深い。現実と幻想とのあいだをわりと簡単に往来してしまうのが、徐々に、「あれを飲まされたから、こんな幻想に陥った」みたいに因果を把握できるようになっていくのが「成長」だろうか。

この作品に限った話ではないのだけど、このところ、いまの世の中(日本社会と言ってもいいのだが日本だけではあるまい)にひどく不足しているのは、「文学作品を味わう人」だろうと思うようになっている。人間の社会、それも小規模な部族社会ではない、ある程度の大きさとまとまりを持った社会を成立させている、唯一ではないにせよ恐らく最も大切な仕組みは、「文学」なのだろうとさえ思う。

それは要するに、社会を社会として成り立たせるのは、「自分と違う人生を歩む他者」についての想像力である、ということだ。そして、そういう想像力を育むために不可欠なのが、「文学」である、という意味で。ここで言う「文学」といってもかなり広い意味であって、詩歌や戯曲や小説は言うまでもなく、音楽や舞台表現、映画、もちろんマンガなども含まれる可能性があるのだが。

そのような他者についての想像力を育むという点では、身内の狭いサークルでウンウンと頷き合っているような作品(私が読んだなかでは『永遠の0』あたりが該当する)は効果に乏しいように思う。

だからこの『世界の果てのビートルズ』のように、自分がいま属している社会や時代とはかなりの程度隔絶した状況を描いた作品というのは、「文学」として大いに読むに値するような気がする。

 

メレディス・ブルサード『AIには何ができないか: データジャーナリストが現場で考える』(北村京子・訳、作品社)

何かのきっかけで知って、図書館に予約を入れてあったのだけどだいぶ待たされた(私の後ろにもだいぶ予約が入っている)。

で、たまたま例の大澤昇平の一件を考えるに良いタイミングで読むことに。大澤は、自身の下劣さを隠すためにAIに言及しているだけのように見えるが、この本を読むと、それは彼の個人的な資質ではなく、AI(というかSTEM=Scicence, Technology, Engineering and Mathematics)分野の社会的・歴史的な特性なのではないか、という視野が得られる。つまり、ジェンダーや人種・民族に関する差別意識やリバタリアニズムとの親和性、ということだが。

この本では、汎用型AIと特化型AIについて「想像」と「現実」を区別する必要を強調したうえで、「現実」である後者について、それがなぜ、どのように人間の介入を必要としているのかを説明していくのけど、技術的な部分よりも、社会的・歴史的な文脈に分け入っていく部分の方が面白く有益であるように思う。具体的には、第6章「人間の問題」と、第9章「『ポピュラー』は『よい』ではない」かな。

「当然知っているはずなのに、そこに触れないのはどうなの?」と思う部分はあるけど(コンピューターの歴史のなかでライプニッツに言及しつつ彼が2進法の元祖であることに触れないとか)、まぁ大きな傷にはなっていない。

特化型AIだけに絞って書かれたものなので、哲学的な考察がほぼ皆無なのが物足りないといえば物足りないけど、いまの社会が陥りがちな技術至上主義(テクノショービニズム)に対する批判という位置づけでは、良書だと思う。

ジャーナリストの筆になる本だけあって、読みやすい。訳も悪くないと思う(「ローンチ」の多用はどうかと思うけど、まぁ時代的に許されるか)。

【追記】あ、あと索引がしっかりしているのが有り難い。

 

ホルクハイマー、アドルノ『啓蒙の弁証法-哲学的断想』(徳永恂訳、岩波文庫)

先に読んだ『シンメトリーの地図帳』は一般向けとはいえ分野としてはかなり専門的な数学なのでわけが分からなかったけど、これは自分の領分である哲学・思想系なのだから行けるだろう…と思っていたら、かなり難渋した。なかなか進まず、二週間以上かかった(笑) 最近この手のものを読んでいなかったからかなぁ。

とはいえ、難解だと思いつつもゴリゴリ読み進めていけば、しだいに著者の世界に頭が馴染んでいくもので、訳者あとがきを読む頃には、「うんうん、そういう内容だったなぁ」と思えるくらいには理解できたような気がする。

晦渋ななかにも、なるほどと膝を打つ指摘はあちこちにあって、一つだけ紹介しておくならば、

「言うまでもなく被支配者たちは、上から与えられたモラルを、支配者自身よりももっと真面目に受けとるものだが、それと同じく欺かれた大衆は、今日では、成功した者たちよりはるかに成功神話に陥っている」(本書p276)

あと、「反ユダヤ主義の諸要素」の章は、いまの日本で見られる諸々のヘイトスピーチを考えるうえでも、もちろん大いに参考になる。

図書館で借りたのだけど、買うべきか…。

いずれにせよ、他の読書へとつながっていく本というのは嬉しいもので、来年は『イーリアス』『オデュッセイア』を読むことになるような予感。