小笠英志『高次元空間を見る方法~次元が増えるとどんな不思議が起こるのか』(講談社ブルーバックス)

Amazonで見かけて気になり、図書館の新着コーナーにあったので手に取ったのだが、これは期待外れ(ちなみに私の後に予約がたくさん入っている…)。

3次元ではほどけない結び目が4次元ではほどける、というところまではよく分かる(これはたぶん誰にでも分かる)。しかし、さらにその上の次元になると、著者の説明はとたんに乱暴になる。結局「直感力を働かせて気合いで想像してください」「想像を膨らませてください」というフレーズに頼るだけ。図は多用されているのだけど、「かなり気持ちを描いたものである」「かなり、気持ち重視で、…を描いた概念図」といった感じで、およそ参考にならない。

(もちろんこれは、著者が書いていることが間違っているとか無意味であるということではない。また、序盤の部分であまりにも重複が多く冗舌なのは編集者の責任だろう。)

どうしてこのようなことになってしまうのか、と考えると…。

著者は冒頭に近い部分で、「無定義語については語らない」旨を宣言している。そこで挙げられている無定義語の例は、「点」「直線」「2」「交わる」「大きさ」「位置」「もの」。その後のコラムで挙げられている「時間」も同じ。

そして、

定義が無い言葉があるのに、他人とそれらの言葉を使って意思疎通ができるのは、どうしてだろうか、と不思議に思う人もいるかもしれませんが、そういうことは数学や理論物理では考えません。真面目に数学や理論物理を研究している人達は、そんなことを考えるのは空虚なことだと思っています。そんなことよりも、たとえば、この本で紹介するような高次元の図形の形や動きについて考える方がずっと意味のあることです。(本書p18)

と言う。その後のコラム「時間について」でも、「『時間とはなにか?』というのは考える意義のない問いです」と断じている。

(「真面目に…理論物理を研究している人達」のなかにも、もちろん「そんなこと」を真剣に考えている人はいくらもいるので、その点においても見識が狭いようだけど、それはさておき。)

これは結局のところ、自分の学識の依って立つ根拠を問い直す姿勢がない、ということであって、端的に言えば非知性的である。念のため、頭がいいことと知性的であることは別ものであり、研究者としての能力とも(恐らくあまり)関係がない。知性がどうしても必要になるのは、まずもって「越境する」ときなのだ。

「自分の説明を読者は分かってくれるのだろうか」という疑問、突き詰めれば「自分の言葉は通じないかもしれない」という恐怖を(無意識にせよ)抱いていない人が書くものというのは、多かれ少なかれ(この本では「多かれ」)独善的である。

これもまた、高度で難解ではあっても素朴(ナイーブ)である一例かもしれない。

その点、『眠れなくなる宇宙の話』シリーズの佐藤勝彦や、先日読んだ森田邦久、それから『素粒子論はなぜわかりにくいのか』の吉田伸夫といった著者は、書き手として優れている。『フェルマーの最終定理』のサイモン・シンも良い。「自分の言葉は通じないかもしれない、だが…」というところから出発しているように見えるからだ。

そういえば、図やイラストを多用して「想像」させるという意味では、だいぶ前に読んだニュートンムックの『次元とは何か』はなかなか優れていたように思う。

 

 

 

 

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