ミカエル・ニエミ『世界の果てのビートルズ』(新潮クレストブックス)

ラグ友が購入した数冊の本の書影をSNSにアップしていたのだが、そのなかで気になった本を図書館で借りて読む。

スウェーデンのなかでも限りなくフィンランドに近い僻村で暮らす主人公の就学前から十代くらいまでを描いた、いわゆるビルドゥングスロマン。ユーモアには富んでいるのだけど、取り立てて甘美でも痛快でもない。その分、リアリティが深い。現実と幻想とのあいだをわりと簡単に往来してしまうのが、徐々に、「あれを飲まされたから、こんな幻想に陥った」みたいに因果を把握できるようになっていくのが「成長」だろうか。

この作品に限った話ではないのだけど、このところ、いまの世の中(日本社会と言ってもいいのだが日本だけではあるまい)にひどく不足しているのは、「文学作品を味わう人」だろうと思うようになっている。人間の社会、それも小規模な部族社会ではない、ある程度の大きさとまとまりを持った社会を成立させている、唯一ではないにせよ恐らく最も大切な仕組みは、「文学」なのだろうとさえ思う。

それは要するに、社会を社会として成り立たせるのは、「自分と違う人生を歩む他者」についての想像力である、ということだ。そして、そういう想像力を育むために不可欠なのが、「文学」である、という意味で。ここで言う「文学」といってもかなり広い意味であって、詩歌や戯曲や小説は言うまでもなく、音楽や舞台表現、映画、もちろんマンガなども含まれる可能性があるのだが。

そのような他者についての想像力を育むという点では、身内の狭いサークルでウンウンと頷き合っているような作品(私が読んだなかでは『永遠の0』あたりが該当する)は効果に乏しいように思う。

だからこの『世界の果てのビートルズ』のように、自分がいま属している社会や時代とはかなりの程度隔絶した状況を描いた作品というのは、「文学」として大いに読むに値するような気がする。

 

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