2022年に読んだ本」タグアーカイブ

近藤康太郎『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)

以前、何かのきっかけで同じ著者の『おいしい資本主義』を非常に面白く読んで、甥やもう1人他の誰かにもプレゼントするために購入した覚えがある。自分は図書館で借りて読んだきり買っていなかったので、自分用にも買っておこうと思ったら、版元品切れ…。

で、続編に当たる本書を読むことにした。

これまた実に面白い。

思想的な部分は、少しばかり冷静に読む必要がある。たとえば、

頭でっかちの平和主義者の非戦の声も、軽く、実体がない。平和主義者こそ銃を取れ。

という一節があるのだけど、アジテーションとしては一流なのだが、文字通りに受け止めるとナンセンスなことになってしまう。「銃を取れ」は、別に「自衛隊に入ろう」ということではなく、猟をやって生き物の命を奪う経験をしてみろということなのだけど、世の平和主義者が皆、一時的な体験であれ猟銃を手にしたら、国内の猟場は荒廃してしまうだろうし、逆に言えば、国内の猟場が受け入れられる猟師の数より何桁も多い人間が非戦を唱えなければ、そもそも戦争など防げるはずもない。

こういう部分は、一種の思考実験を強いる挑発と受け止めておくのが妥当であるように思う。

「貨幣の物神性から逃れる唯一の武器」として提示される、「人と人がつながる」「無償贈与による交換形式」にしても、そもそも都会的な消費生活こそ、逆にそういう「人と人とのつながり」から解き放たれるための希望だったことも否定できない。だから著者自身、それですべてをひっくり返す革命を志向しているわけでは全然なく、そこで「経済活動の二、三%」を置き換えてみてはどうか、という示唆に至る。

というわけで、そういう刺激的・挑発的な部分については注意深く咀嚼する必要があるようには思うけど、それはともかく、めっちゃ面白いのですよ、この本は。

序盤の「堤」探しのあたりから(ネット地図を駆使するあたりが現代的で非常に面白い)、「完全人力田植え」のあたりなど、とにかく「あの本に書いてあったんだけどさぁ」と人に話したくなるネタの宝庫なのだ。

おすすめである。図書館で借りた上でkindleで買っちゃったけど、これは紙で買い直してもいいかもしれない。

 

宇野重規『保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで』(中公新書kindle版)

前から気になっていた本だが、今回手に取ったキッカケは何だったかな…。

ふだん、今日のこの社会における自分のスタンスは「リベラル左派」なのだろうと思っているのだけど、そうなると、いわゆる「保守主義」の人とは程度の差こそあれ対立することになると予想される。「敵を知り」は大切だから、保守主義とは何かを知っておく必要が出てくる。

ところが…。

この本は、保守主義の源流を18世紀のイギリスの政治家・思想家であるエドマンド・バークに求め、ほぼ時代順に、「フランス革命との戦い」「社会主義との戦い」「『大きな政府』との戦い」という保守主義の変遷を追い、視点を転じて「日本の保守主義」という側面から論じる、という構成なのだけど、読んでいると、少なくともバーク的な意味では「なんだ、オレ、保守じゃん」ということになる(笑)

結局、今の日本社会において「保守」を名乗る資格があるとすれば、それはいわゆる護憲派であって、そういえば立憲民主党を立ち上げたときの枝野文男は「私は保守です」と宣言していたなぁ、と思い出すのである。

 

 

サリンジャー『フラニーとズーイ』(村上春樹・訳、新潮文庫)

竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』(新潮選書)、小林秀雄賞受賞記念…というわけでもないのだが、昨年、同書を読んでやはり読み直したくなって買っておいたサリンジャーを読む(『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア・序章』も買ってある)。

たぶん大学生の頃に一度読んだきりで、当時はそれほどインパクトがなかったのは、訳者の村上春樹が書いている印象と似ている。

若者を主人公にしているものの、それなりに年を重ねないと理解できない作品なのかもしれない。とはいえ、残念ながらというべきか、それともそうではないのか、何らかの理解を得られたと思ったときにはすでに遅いというか、いくぶん苦い後悔のようなものを抱かざるをえない。もちろん世の中には、もっと若い時分にこの作品から多くを得ることのできる優れた人もいるのだろうけど。

ま、もっと早く読み直していればという気はしつつも、これから何年生きるか分からないけど、それでも今読んだ意味はあるはずだ。

それにしても、Amazonの惹句にある「ズーイは才気とユーモアに富む渾身の言葉で、自分の殻に閉じこもる妹を救い出す」というのは、ずいぶんシンプルな解釈だなぁという気がする。そういう話ではない。

 

高木和子『「源氏物語」を読む』(岩波新書)

前書きによれば、これを読んで「『源氏物語』を読んでみよう」という気持ちになってほしい、というスタンスで書かれているようだが、Amazonの惹句だと、「何度も通読した愛好家にも、初めて挑戦する読者にも、新たなヒントが詰まった一冊」とされている。

いちおう原文通読は果たしたので、まとめと言うか、復習というか。

何しろ岩波文庫版の注釈や解説が詳しかったので、この本を読むことで、個別に「なるほど、あそこはそういうことだったのか」と謎が明かされるという部分はそれほど多くないのだけど、それ以上に、「え、この物語って、実は全部○○だったのでは?」という、ある種の妄想を思いついてしまい、そこから逃れられなくなってしまった(笑)

それはさておき、この後、現代語訳(与謝野晶子訳ならば青空文庫で読める)や『あさきゆめみし』あたりも読んでみたいと考えているのだから、『源氏物語』の、いわば中毒性は相当なものだなと思ってしまう。

 

『源氏物語(九)蜻蛉~夢の浮橋』(岩波文庫)

最終九巻は半分くらいが年表や和歌一覧、人物索引なので、本編は短い。浮舟が横川の僧都に拾われるあたりが説話っぽくて何だか馴染みやすくスラスラ読めるので、そのせいもあって、この巻はあっというまだった。

2020年8月中旬に読み始めたので、ちょうど2年で読破したことになる。高校3年の冬に中断して以来、37年ぶり、か。

何にせよ、叙事詩でもない、これほどの長編が1000年も前に書かれ、今も読み継がれているということ自体が素晴らしいことなのだけど、読めば分かるように、この作品自体が、漢籍にせよ和歌にせよ物語にせよ、それ以前に成立していた豊かな文学的伝統に立脚して書かれているという、その分厚さに心を打たれるものがある。

これほどの作品なので、もちろん読み方はいろいろあるのだろうが、やはり時代や地域を超えた普遍的な要素は、男女の仲であり、生と死の無常さだよな、という気がしてならない。

ところで、全編を読み終わっての結論なのだけど、この岩波文庫版は、けっこうおすすめである。対訳ではないのだけど、ほとんど対訳と言ってもいいくらい注釈が親切なので(各帖の冒頭にはかなり詳しいあらすじも付いている)、むしろ、左側のページ(注釈)ばかり追って右側のページ(原文)を飛ばしてしまわないように心がけなければならないほど。最初のうちは、「え、なんでこの文については注釈がないの?」などと思うのだけど、読み進むにつれて、そういうところは注釈がなくても分かるようになってしまうところが面白い。

読み始めて、やはり古語辞典が必要かと思い、実家から高校時代に使っていたものを回収してきたのだけど、この『源氏物語』を読む中で調べたい言葉を引くと、まさに気になった当の一節が例文として引かれている場合が非常に多く、なるほど、日本の古典というのはこの作品を軸にしているのだな、ということが痛感される。まぁそんなわけで、次第に「この作品が理解できればいいか」と思って、辞典を引くことも疎かになってしまったのだけど。

いくつもある現代語訳を読むというのも一つの道だし、今さらながら興味がなくもないけど、原文で通読した後、あえて読むのであれば、むしろ大和和紀『あさきゆめみし』かなぁ。

それにしても、この先、世の中がどれほどひどくなっていくとしても、あるいは自分が不遇を託つことになるとしても、こういう本を読む喜びがある限り、なにがしかの救いは常にあるような気がしてくる。

 

『源氏物語(八)早蕨~浮舟』(岩波文庫)

宇治十帖に限らず全編に共通することだが、もちろんこの作品がすべてを物語っているわけではないにせよ、この時代の女性は一人前の人間として扱われていなかったのだなぁという思いを強くする本巻である。

それにしても、薫というのはひどい奴だね。こいつがすべて悪いんじゃないかと思えてくる。そんな評価をされることはないのかもしれないし、そもそも作中でも悪く描かれているわけではないのだが。

さて、いよいよ最終九巻へ。

 

へレーン・ハンフ編・著『チャリング・クロス街84番地』増補版(江藤淳・訳、中公文庫)

本好きのあいだでわりと評判がいいようなので、買ってみた。直接のキッカケは、この記事だったかな。

古書店に行きたくなるし、本を買いたくなるし、手紙のやり取りをしたくなるが、残念ながら最後の一つについては、自分の場合はもう電子的な手段によるメールやメッセージのやり取りになってしまうだろうなぁ……。

私も含めてたいていの読者は、著者であり手紙のやり取りの一方であるへレーン・ハンフの視点で読むのが自然なのだろうが、ロンドン側の視点で読み直すのも面白いかもしれない。

ドラマではないので、特にこれといった出来事が起きるわけではないのだけど、いろいろ思うところの多い本。

へレーンの言葉がいろいろと面白い。「読んでいない本は買わない」(図書館で読んで、好きになった本を買う)とか、「書き込みがあると、前の持ち主とつながれる気がして嬉しくなる」とか。

あと、第二次世界大戦が終ってしばらくは、アメリカよりもイギリスの方が圧倒的に貧しいというか、食料を始めとする物資が欠乏していたのだな、というのは、当たり前のことなのだけど今さらながら感銘を受けた。そして、そうやって貧しくても、文化(この場合は古書)の面で新興の富裕国の心ある人にとって憧憬の対象になっている存在というのは、なかなか良いポジションであるように思う。

ちなみに私はこの本を読んで「乾燥卵」なるものの存在を初めて知った。

翻訳は江藤淳。評論家、保守派の論客という印象だったけど、翻訳もやっているのだな。「洋服」とか「お釈迦様でもご存知ない」とかいう表現が出てきて、いかにも昔の翻訳だなぁという印象は拭えない…。

 

 

ダシール・ハメット『血の収穫』(田口俊樹・訳、創元推理文庫)

義妹のパートナーのFacebook投稿に「椿三十郎」への言及があり、そこから芋づる式に辿っていって、そういえば有名な作品なのに読んでいなかった、とこれを手に取る。

新訳なのに「おまえさん」などという二人称が出てきて、今どきそれはないだろうと思ったけど、考えてみたら、この作品の舞台となっている時代だったら、日本でもそういう言葉を使う人はいくらでもいたはずで、その意味では、新訳だろうと今どきの言葉遣いにする必要は必ずしもないのである。

そういえば、この本を読む前にYouTubeで『用心棒』や『椿三十郎』のシーンなどを少し観ていたのだけど、どうも雰囲気がそのあたりの三船敏郎に似ている知人がいて、その知人だったら「おまえさん」という二人称を使っていても不思議はない気がしてきた…。

ま、そういう細かい点は措くとして、作品自体はどうかというと、登場人物一覧には名が挙がっているのに、ろくに登場することなく殺されてしまう領袖がいたり、ちょっと対立関係をややこしくしすぎているような印象もある。銃撃戦が多い分、策略の部分が弱い。そのへんのバランスが、『用心棒』では絶妙だった気がするのだが。

斉藤健仁『ラグビー日本代表1301日間の回顧録』(カンゼン)

ラグビー関連の執筆者の中で以前からわりと好印象だった著者なのだけど、あるファンがこの人の著作で良かったものの一冊としてこれを挙げていたので、読んでみた。

RWC2015までの軌跡を追ったものなので、RWC2023を来年に控えた今となっては昔話の感もあるのだけど、個人的には一番熱心に代表を追っていた時期とも言えるので、「そうそう、そんな試合もあった」と懐かしく思い出したり、「あの試合、全然ダメだと思っていたけど、そうでもなかったのか…」みたいな今さらの発見もあり。

高橋尚司『ゼロベースランニング 走りの常識を変える! フォームをリセットする!』(実業之日本社)

この手のノウハウ本は記録しないことも多いのだが、いちおう。

私も一時試していたランニング足袋「MUTEKI」の開発にも関わった著者ということで、興味を惹かれて読んでみた。

もちろん私などとは全然レベルの違うランナーなのだが、”BORN TO RUN”に刺激を受け、理想の走りを求めてベアフットランを試したところ、繰り返しふくらはぎを傷め…という経緯がまさに私の体験と一致しているので興味深く読んだ。

私がフルマラソンなど本格的なランニングの境地に戻ることはあまり考えられず、せいぜい5kmくらいをまた気持ちよく走れるようになれればいいなぁ、程度の思いなのだけど、その際にはこの本の教えが参考になるような気がする。

レースに向けてこんなトレーニングをしましょうとか、こんなウェアやシューズを選びましょう、みたいな話を求めている人には向いていないが、良い本である。