2019年に読んだ本」タグアーカイブ

奈佐原顕郎『入門者のLinux』(講談社ブルーバックス)

会社では翻訳以外にも「なんちゃってシステム/サーバ管理者」の役割を担っているのだけど、1人だと何かと問題があるので後継者を育てなければいけない、というのが前々からの課題。とはいえ、自分で1から教えていくのは大変だから、「ひとまずこれ読んでおいて」と言えるような本がないかなぁと最近探し始めた。

そのなかで目に止まった1冊が本書。そういう趣旨なので、書いてある内容のほとんどは私としてはすでに分っていることなのだけど、それでも、習うより慣れろというか場当たり的に身につけてきてしまった部分などで「あ、そういうことだったのね」と今さらのように確認できた部分もあった。

会社のサーバではCentOSやScientific LinuxといったRH系を使っているのに対して、この本はDebian系のUbuntuを手許のPCにインストールして個人的にいじるという構えなので、後継者養成という私の目的にはややズレているかなぁと思うけど、なかなか悪くない本であった。

本の評価とは関係のない、単なる冗談的要素でしかないのだけど、著者がラグビーファンであることをちらりと窺わせる一節があるのも嬉しかった。

 

岡嶋裕史『ブロックチェーン 相互不信が実現する新しいセキュリティ』(講談社ブルーバックス))

ようやく分った、と言える良書。

ビットコインを代表格とする暗号資産(a.k.a. 仮想通貨)の世界で、「マイナー」と呼ばれる連中が膨大なコンピューター資源(と膨大な電力)を使って何やら必死に計算しているというのは知っていたのだけど、私は実のところ、彼らが何を計算していて、なぜそれほど大変なのか、という肝心の部分を理解していなかった。

本書は、「まえがき」と「終章」を除くと5章構成なのだが、第1章は「なぜ社会現象になったのか」と題して、流出事件や投機ブームなど、ビットコインなどの暗号資産が社会的話題を集めた経緯を語るごく短いもの。

本体と呼ぶべき残り4章のうち、実に2章分は、ハッシュ関数/ハッシュ値の話(プラス、公開鍵・秘密鍵ペア方式などの暗号化の話も)。これが実に分かりやすい。何しろ、Windowsのコマンドプロンプトを開いて(※)、短い(1文字の)テキストファイルのハッシュ値を求めるところから始まる。

「ブロックチェーン」というシステムの実質について語られるのは、わずかに第4章だけなのだ(この章、ページ数はそれなりにあるが)。でも、それで十分なのである。「ああ、さっき書いてあったことね。だからなのね」で済んでしまう。

なぜなら、ブロックチェーンというのは別に単体として新しい技術ではなく、「一つ一つは簡素で枯れた技術だが、それを工芸品のように組合わせて織り上げた」(本書p234)システムだからだ。

それが分っていれば、何でもかんでもブロックチェーンが解決するなんて景気のいい話があるわけないよ、という説明も納得がいく。先にも書いた「膨大なコンピューター資源&膨大な電力を消費する」点も含めて、その有効な用途はかなり限定されるような印象を受ける。

以前読んだ野口悠紀雄『入門ビットコインとブロックチェーン』あたりを100回読むよりも、こちらを1回読む方がはるかに優る。

この著者の本は以前、同じブルーバックスで『セキュリティはなぜ破られるのか』を読んで、やはり非常に得心がいった覚えがある。彼の説明のしかたは私にとって馴染みやすいようだ。

※ この部分で「???」になる読者には本書もちょっと厳しいのかもしれない。まぁコマンドプロンプトの起動のしかたもいちおう書いてはあるが…。

 

斎藤美奈子『文章読本さん江』(ちくま文庫)

いやぁ、面白かった。

谷崎潤一郎に始まり、三島由紀夫、丸谷才一(以上『文章読本』)、さらには清水幾太郎(『論文の書き方』)や本多勝一(『日本語の作文技術』)、井上ひさし(『自家製・文章読本』)……などなど、枚挙に暇がない「よい文章を書くには」系の手引き書について、メタな視点から論じる本。

途中、著者ならでは(?)の諧謔というか、『文章読本』の教えをパロディにするような書き方がややしつこいというか食傷する感はあるのだが、気になるのはそれくらいか。

この本で何より面白いのは、『文章読本』の分析をいったん離れて、明治以来の「作文(綴り方)教育」を俯瞰する部分ではないか(もちろん最終的には『文章読本』の話に収束するのだが)。「一瓢を携へ」のあたりについクスクス笑って家人に訝られるほど面白い(実はそういう教育を受けたかったと思う変人である)。いや真面目な話、このところ議論を呼んでいる国語教育改革を考える前提としても、非常に参考になるように思う。

むろん、2000年代の本なのでインターネット時代の「文章」をめぐる考察は文庫版への追補程度であり、それも2007年なので、ブログどまりでSNSには至っていないのだけど、それは時代の制約ゆえしかたない。この本に書かれていることを敷衍しつつ、それぞれが考えるべきことなのだろう。

ちなみに私が中学生の頃に我が家でも『文章読本』ブームがあり(例によって「親の都合」なので理由は分らない。子ども=我々の教育のためだったのかもしれないが…)、本書で「御三家」とされている谷崎・三島・丸谷の『文章読本』はすべて読んだ(川端康成のもあったが、これは本書によれば川端本人が書いたものではない剽窃本らしい)。この本を読んでいるあいだに実家を訪れて書棚にそれらを発見したのだけど、改めて読み直そうという気には……ちょっとならなかったなぁ(笑)

 

福永武彦『完全犯罪 加田伶太郎全集』(創元推理文庫)

Twitter上でのひょんなやり取りから、これも確か中学生の頃に読んだのを懐かしく思い出し、図書館で借りてみた。

短編集なのだが、いくつかは犯人(というかトリック)を覚えていたな。

しかしこの作品集に限った話ではないのだが、どうもこの種の「本格派」とされる推理小説も、多くは、恐怖心や暗示など人間の心理を中心に、偶然の要素に依存しすぎのような気がする。

たとえば有名なクリスティの『そして誰もいなくなった』にしても、「たぶん○○はこう行動するはずだ」という犯人の読み(というより実際には願望に近い)どおりに他の登場人物が動くからこそ、あの奇妙な状況が実現するのであって、そのうち一人でも「いやいや、ここは一つ落ち着いて」と冷静になってしまったり、ふと気まぐれな行動を取ったりすれば、犯人の描いた図式はガラガラと崩れてしまいそうである。

将棋にココセという言葉がある。語源は「相手がこう指してくれたら、こうなって、こうなって、うまくいくのになぁ」という願望→「ここに指せ」という念→縮めて「ここせ」…ということらしい。用法としては「ココセみたいな手を指して負けちゃったよ」みたいな感じ。相手の注文にスポンとハマってしまったということか。

つまり推理小説においても、「ココセ」頼みで成立している「完全犯罪」がけっこう多いような気がする。犯人に「プランB」がないところが物足りない。

逆に、犯人が意図したとおりに状況が進めばわりと簡単な事件だったはずなのに、思わぬ予定変更を強いられたせいで却って迷宮入り、みたいな推理小説があれば読んでみたいのだが。

まぁ有名な古典的作品を昔いろいろ読んだわりには忘れているので、読み返せば感心するようなものもあるのだろうけど。

 

結城浩『数学文章作法 基礎編』(ちくま学芸文庫)

そもそも数学に関する文章を書く機会はないのだけど、基礎編と銘打つだけあって、それ以外の文章にも通じる基本的な心構えという意味で役に立つかも。まぁ当たり前すぎる内容も多いけど、それでも「ほほう」と思う部分はあった(列挙の際の「、」と「・」の使い分けとか)。

あと、これまでの読書記録からも推察していただけると思うが、数学関係の啓蒙書的な本を読むのは嫌いではないので、読む側としても、なるほどこういう書き方だから自分はつまづいてしまうのか、みたいな視点が得られるかもしれない。

それはさておき、LaTeXについてたびたび言及されているのが、個人的には感慨深かった。この本じたいもLaTeXを使って書かれているのかな。

Windows95が普及する前、アウトラインフォントにはご縁のなかったMS-DOS時代。せっかくレーザープリンタを導入したのだし、何とかもっときれいな印字が得られないものかと、VZエディタ+LaTeXであれこれ苦労していたことを思い出す。日本語関連ではいろいろ面倒が多かったせいもあって、バージョンは忘れたけど一太郎にアウトラインフォントが採用されたことで、同僚に「一太郎の方が早い」と一蹴されて悲しく思ったものだ。もっとも、このLaTeX関連でオープンソース方面に触れたことが、その後につながったという気もする。

そういえば、確か中学生の頃、我が家で「文章読本」ブーム(?)が起きて、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、丸谷才一あたりを片っ端から読んだ記憶もある。本書もその系譜に連なる(ただしもっと実用的な)1冊なのかもしれない。斎藤実奈子が『文章読本さん江』という本を書いているのが気になるな…。

 

母里啓子『インフルエンザ・ワクチンは打たないで』(双葉社)

いつかは私も「インフルエンザ・ワクチンを打つ必要なんてない」と信じるようになるかもしれない。だが、それはこの本の影響ではない。

いつかは私も「インフルエンザ・ワクチン接種が叫ばれるのはワクチンメーカーの策略だ」と信じるようになるかもしれない。だが、それはこの本の影響ではない。

いつかは私も「インフルエンザに罹ることが免疫をつける最善の方法」と信じるようになるかもしれない。だが、それはこの本の影響ではない。

この本は、ゴミだ!

…いや、まぁそうではないかとは思っていたのですが、いちおうこの手の本のサンプルとして読んでみようかなと。『ヤマザキパンはなぜカビないか』と似たようなものかな。

そもそも情報が古い(本書は2007年の刊行で、その時点よりさらに四半世紀前の情報に基づいて書かれている部分も多い)という点で読む必要はないのかもしれませんが、それ以前に、著者の根本的な問題は「論理的な思考ができない」という点だろうと思います。せっかく医学を学んで研究に勤しんでも、その部分を身につけていないと、こうなってしまうのかな、と。数ページ前の主張と矛盾することを書いてしまうならまだしも、最悪の例では隣り合う段落が矛盾していたりするんですよ…(本書p97)。

個別の医学的知見の正否については私のような素人には判断できない部分もあります。が、矛盾していたり、論理が飛躍しているのは分る。

本書にも「なるほど」と納得できる部分はいくつもあるんですが、この人が書くと、むしろそれさえも間違っているんじゃないかという気になるくらいです。

ちなみに何年かに1回は確実にインフルに罹っている私としては、今季こそ予防接種を受けようかと思っていたのですが、時機を逸して、結局受けていません。

ロバート・A・ハインライン『月は無慈悲な夜の女王』(ハヤカワ文庫SF)

先日、短編集『地球の緑の丘』を読んだ流れで、有名なこの作品に手を出してみた。

う~ん、同じ矢野徹訳なのだけど、こちらは翻訳がよろしくないなぁ。元々の原文がかなり冗舌な感じなのもあまり気に入らないのだけど、その冗舌さが、こなれない訳のせいで、さらにゴチャゴチャしている印象。誤訳はないのだろうけど上手とは言えない。

それはさておき、あらかじめ承知して選んだわけではないのだが、これもまた「人工知能」モノだった。社会の中枢をコントロールしているコンピューターを味方につけてしまえば、そりゃずいぶん革命も楽になるだろうなと思うので物語として良い設定だったかどうかはさておき、けっこう感情移入できるAIである。ネタバレになるのは避けるが、結末でこのAIがどうなっているかという点もなかなか味わい深い。

あとがきで、日本では本作よりも『夏への扉』の方がずっと人気が高いが米本国では完全に逆という話が出てくるのが面白い。そしてもちろん私は(優れた新訳のおかげでもあるが)『夏への扉』の方がはるかに好きだ。

 

 

ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題~頭足類から考える意識の起源』(みすず書房)

タコやイカなど「頭足類」に分類される生物が、無脊椎動物であることや身体のサイズを考えると異様とも言えるほど発達した神経系を持っており、好奇心や遊戯、個体識別なども含めて、高いレベルの、ただし人間などの哺乳類とはずいぶん違うタイプの知能を備えている、という興味深い事実を中心に、主として進化という観点から「知能・知性はどのように生まれるのか」を考えていく本。

頭足類の生態については未解明の点も多いので、この本だけで何かの結論が出ているという種類の本ではないのだが、それでも非常に面白い。哲学というより生物学の比重が高いけど、たとえばAIについて考えるうえでも示唆に富んでいるように思う。何より、思わず人に話したくなるようなネタの宝庫。

翻訳も、ところどころ気になる部分はあったものの「まぁこう訳さざるをえないか」と思う程度で、全体としては読みやすくレベルは高い。訳者あとがきが、ウェルズ『宇宙戦争』に登場する火星人がタコ型だったことから語り起こしているのも面白い。

図書館で借りたけど、これは買ってもいいかも。

 

松田雄馬『人工知能はなぜ椅子に座れないのか:情報化社会における「知」と「生命」』(新潮選書)

「人工知能が人間の知能を越えることはあるのか」的な問いに、どちらかといえば懐疑的な方向で答えを出そうとしている本。

が、あまり納得できない。

人工知能を語るうえでは人間の(あるいは生物の)知能を深く理解することが重要である、というのは確かにそのとおりなのかもしれない。

しかし、よく言われるように「空を飛ぶために鳥を真似する必要はない」(あるいは「速く走るために四つ脚になる必要はない」でもいい)という点については本書でもしっかり言及しているにもかかわらず、なぜか著者は知能について語る際には「人間の(あるいは生物の)」知能に最後までこだわり続けるのだ。すると、人間の知能を越えるような人工知能は、少なくとも近い将来には実現しない、という結論になる。

でもこれは論の立て方としておかしい。「知能(あるいは知性)とは何か」という問いの答えが自明とされてしまっている(つまり、人間の知性のようなものが知性である)。確かに(今のところ)身体を持たない人工知能が、人間やそれ以外の生物と同じように世界を経験・認識することはできないかもしれない(人工知能は椅子に座れない)。でもそれは「認識している世界が違う」というだけの話であって、知能の優劣の問題ではない。

より根源的に考えるならば、「人間の(あるいは生物の)知性とは大きく異なる知性はありうるか。ありうるとすれば、それを人間が生み出す可能性はあるか。それが人間の知性を『越える』とすれば、何をもって『越えた』と見なすのか」という問いになるのではないか。

(というわけで、次、あるいは次の次に読むのは『タコの心身問題』の予定)

 

呉座勇一『陰謀の日本中世史』(角川新書)

「仮に……黒幕がいたとしても、その事実は後世に何の影響も与えない。……単独犯行か共犯者がいるのかといった議論は、謎解きとしては面白いかもしれないが、学問的にはあまり意味がない」

「しかしながら、人々が日本史の陰謀に心を惹かれている以上、学界の人間も研究対象として正面から取り上げる必要があるのではないだろうか」

「悪貨が良貨を駆逐するというか、自称『歴史研究家』が妄想を綴ったものが大半を占めていることも、また事実である。それらの愚劣な本を読んで『歴史の真実』を知ったと勘違いしてしまう読者が生まれてしまうのは、憂慮すべき事態である」(以上、本書「まえがき」より)

「イデオロギー対立と直接関係のない中世の陰謀を題材に陰謀論のパターンを論じれば、人びとが陰謀論への耐性をつける一助になるのではないか」(本書「あとがき」より)

……という動機のもとに書かれた、日本中世のさまざまな「陰謀」について諸説を検証する本。扱われているのは保元・平治の乱、源平合戦と頼朝・義経の対立、北条執権政治の成立に至る鎌倉幕府の混乱、足利尊氏を軸とした建武の新政~室町幕府の成立、応仁の乱、本能寺の変、関ヶ原の合戦、といったところ。

中学・高校の時期に日本史は履修したし、それ以前に子ども向けの軍記物などはそれなりに読んでいたけど、それでも「そういえばそんな事件もあったなぁ」くらいの知識・記憶に留まっているエピソードも多いので、勉強になる。

……正直なところ、退屈に感じる部分もけっこうある。が、結局のところ、地道な歴史研究というのは傍から見ればそういうものなのだろうし、だからこそ、いわゆる「陰謀論」は知的負荷が低く、一般受けするのだろう。実は本書でも「こういう説もあるが」と紹介されている陰謀論の部分が読みやすく面白かったりするのだが(笑)、それ以上に「これは陰謀論にありがちな……という思考パターン」という指摘の痛快さが優る。

だいぶ前に読んだ秦郁彦『陰謀史観』とも共通する要素があるが、むろん同書への言及もあるし、参考文献としてきちんと明示されている。

「自称『歴史研究家』が妄想を綴った」「愚劣な本」がよく売れる時代だからこそ、読まれるべき本だと思う。