いろいろご縁がある作品だが未読だったので、文庫に入っているのに気づいて、読んでみた。
う~ん、翻訳がよろしくない。学生に下請けでやらせたのか、という感じ。したがって、作品の魅力を味わうという気分に至らなかったのは残念。三つめの「ピエール・グラス-」だけはちょっと面白かったが。
こういうのを読むと、仕事を頑張らないとなぁという励みになる(笑)
これは率直に言って期待外れ。
AIに関する論考で、知性(あるいは知能)=人間の知性ということを無反省に前提してしまっているものは、たいていつまらないように思う。
つまり、AIを研究するなかで「では、そもそも知性とは何なのか」と問い続けているかどうか、ということ。その観点がない論考は、この本の言葉を借りれば、AIについて語っているのではなく、AI技術について語っているにすぎない。著者は「真のAIはまだ存在していない、AI技術があるだけだ」と言うが、それは結局のところ、著者に語れるのはAI技術だけだと白状しているように読めてしまう。
後半は「教科書が読めない子どもたち」に関する調査・考察がメイン。読解力スキル検査というツールを開発して問題を可視化したのは大きな功績だし、どんどん発展させていくべきだと思うけど、どの教科であれ「教科書を読んで理解できるような言語能力」がすべての基礎であるという結論は、個人的には30年くらい前にはすでに実感していたことなので、あまり新鮮味はないなぁ。
ラグビー観戦仲間からのお勧めで家人がだいぶ前に読んでいたので、遅ればせながら便乗。
途中まではさほどとも思えなかったのだけど、読み終わってみると、これ、けっこう面白いかも。
(なるべくボカしてはいるけど、以下、ネタバレ注意)
昔の(恐らく10~20年前だろうか)事件と、現在進行形の事件。どちらも、全体像や具体的なあれこれ(いわゆる5W1H)についてはほとんど明らかにされないので、「事件」とカギカッコ付きで書きたくなる。たとえば私(「ソフィー」)とマシューがいま何歳なのか(「ソフィー」とマシューの年齢差は分かっているが)、職業は何なのか、どのような経緯でいまそのような状況に至ったのかは、最後まで分からない。現在進行形の事件はもちろん、過去の事件についても、たとえば被害者(?)が厳密に何人だったのかということは明示されず、推測するしかない。この小説が幕を閉じた後、「私」とマシューがいったいどうなったのかも、読者の想像に任されている。
ではこの小説に何が書かれているのかというと、古典的な普通のミステリであれば、探偵役が「実はこういうことだったんです」と、客観的に、裏付けとなる証拠を示しつつ、明晰判明な事実として説明する部分(のさらに一部)を、徹底して当事者による記憶と対話を通じて、したがって主観的な偏りや曖昧さを持ちつつ、偏執的に細かく描写していく感じ。背景となる全体像が与えられないまま細部をルーペで拡大しながら見ていくような感じなので、けっこうグロテスクな印象も与える。
好き嫌いはあるだろうけど、「最後になってすべてが判明して大団円」のミステリが不自然だと感じることのある人は、けっこう気に入るのではないかと思う。まぁ繰り返してやっても二番煎じになるだけなので、あくまでもこれ一作の趣向と言ってしまえばそれまでだけど。
何かのきっかけで知って図書館で予約したのだが、2017年12月刊行と新しい本なのでだいぶ待たされるかと思ったら、そうでもなかった(でも私の後には予約が14件入っている……)。
我々ホモ・サピエンスの出現前、アジアには実に多様な「人類」がいたことがわかってきた。そして「彼ら」は、我々の祖先と共存する「隣人」だったかもしれない!(本書裏表紙の惹句より)
と、あるのだけど、そこにロマンを追い求めるのも分からなくはないが、そういう捉え方自体は、現代の視点に囚われた大いなる勘違いだよな、という気がする。数万年にわたる歳月のあいだ、中国に北京原人、ジャワ島にジャワ原人、フローレス島にフローレス原人がいたところで、それは実は少しも現代的な意味合いで言う「多様性」ではないし「共存」もしていない。
ただ、実績ある著者だけあって、ロマンに浮かれつつも(笑)、そのへんについては、終盤の「どこにでも行ける人類」~「均質化の未来」(この節は大変よい)である程度は意識されているし、そこから「宇宙への拡散」に転じるところは、さすがとしか言いようがない。
まぁそういう理屈っぽい話はさておき、やはりもう少し文明寄りのテーマの方が楽しめるなぁ、というのが正直なところ。それを言っては身も蓋もないのだけど。
2/12読了。
※ これから読む人を考慮して、ネタバレ&先入観回避のため、感想は画像の後で……。
(以下、ネタバレ多数)
だいぶ前に読んだ『わたしを離さないで』、先日の『日の名残り』に続いて、カズオ・イシグロを読むのは3作目。『日の名残り』以上に、評価に悩む作品。背表紙の作品紹介を読んでも、Amazonのレビューをいくつか読んでも(これはもともとあまり信用していないが)、わりと語られているとおりの物語として受け止めているようなのだが……。
どうも読んでいて、「信頼できない語り手」(→Wikipedia)の一つの典型のように思えてくる。つまり、かなりの部分(特に舞台が上海に移ってからの部分)は主人公の妄想なのではないか、と。あるいは、『わたしを離さないで』同様にSF的な設定というか、架空の世界・架空の歴史に基づいているのではないか、と(もちろんフィクションはすべて架空の世界であるといえばそのとおりなのだが)。
だって、第二次世界大戦直前の世界情勢において、問題の根源は欧州ではなくアジア、それも主人公が少年時代を過ごした上海にあって、世界を(恐らく大戦という)災厄から救う可能性が、敏腕とはいえ一介の私立探偵=主人公に委ねられていて、決定的な鍵となるのが探偵の少年時代に謎の失踪を遂げた両親を発見・救出することであり、十数年前に拉致・誘拐された(と主人公は思っているが身代金なり何なりの要求は一切ない)両親がまだ生きてどこかに幽閉されていて(と主人公は信じている)、そして発見・救出に向かう危険な道行きの過程で、さしたる伏線もなく幼馴染に再会し、共に冒険を続ける……これって、妄想以外ありえないのでは? というか、まさに件の幼馴染と繰り返し遊んでいたという「救出ごっこ」なのでは?
途中から「これ、いわゆる『夢落ち』以外に収束しようがないけど、それはあんまりだよなぁ」と思いながら読んでいたのだけど、特にそういう収束には至らなかった。失踪した両親の真実については、もっと現実的かつ残酷な説明がなされるのだけど、それが主人公の妄想と対置した意味での「現実」であるとして、ではその妄想と現実の境目は、特にどこといって明示されるわけでもない……。
不思議な、そして繰り返しになるけど、評価に悩む作品。
どうも、フィクションに対する自分の受け止め方が歪んでいるような気もする。プルーストの悪影響なのかもしれない(なんてね)。
翻訳はまぁ悪くないが、ところどころ気になる部分もあり、『日の名残り』の土屋政雄氏の方が優っている。編集者が気づいてあげるべきでは、と思う誤変換も2カ所(債権→債券、対面→体面)。
仕事でもわりとこの話題がよく出てくるようになったし、諸々の記事からの聞きかじり(読みかじり?)だけでなく、何か一冊読んでおいた方がいいかなと思って、取っつきやすそうな本書を。
しかし、読みやすくするためのQ&A方式がむしろ仇になった感じで「あ~もう、そういう新聞の日曜版みたいな話はどうでもいいから、もっと理論的なベースの部分を先にやってくれよ」という苛立ちが募った。最終的には、全部読んだらまぁ何となく全体像はつかめたのだけど。
取っつきやすさを基準に本を選んだのが間違いなのだけど、でも『人工知能の核心』みたいに、ものすごく一般向けの啓蒙書なのに、タイトル通り「核心」に触れちゃっている本もあるからなぁ……。
ところで、仮想通貨に留まらず、ブロックチェーンという技術がもたらす未来像については、著者はやや楽観的すぎるというか、少し前世代なのかなという印象を受けたが、どうなのだろう。「成長戦略」みたいな言葉を使っちゃう時点で何となく世界観にややズレを感じてしまう、こちら側の要因が大きいのかもしれないけど。
う~む、残りあとこれくらいか。これでは物語の収拾がつかないよな……ある程度含みを持たせて、やはり続編第3部があるのか……。
と思って読んでいたら、あれよあれよの急展開で収束してしまった。さすがにこれは強引なのではないか。気に入っていた連載が途中打ち切りになったような印象。
作中、「この作品は未完成のように見えるけど、これ以上手を加えてはならない」という趣旨の描写がいくつか出てくるので(主人公が描く絵について)、それと重ね合わせて受け止めるべきなのかとも思うが、ひとまずこの小説は完結した格好にはなっているのだよね……。
それとも、急展開で収束したように見える、ここから続編へとつながっていくのか……それはそれで強引な気がするが……。
前作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、何だかアンチ春樹派に向かって「おらおら、君たちこういうのが嫌いなんだろ、ほれほれ」みたいに、まるで自己パロディといわんばかりの雰囲気が感じられた(って、作者自身にはそんな気は毛頭ないのかもしれないけど)。
この新作(といってもちょうど1年前か)にはそこまで露悪的(?)な雰囲気はなく、正統派・純・ムラカミワールドという感じ。
・妻に捨てられる主人公 ・でも新しいガールフレンドと簡単にセックスまで漕ぎつける主人公 ・口座の残高を見るとしばらくは仕事をしないでも暮らしていけそうで、元から生活にお金がかかる方ではない主人公 ・ちょっと不思議な雰囲気のあるローティーンの美少女 ・パーフェクトに見えて弱さのある成功した富裕な男性 ・その男性のクルマは高級外車だけど主人公のクルマは中古の国産大衆車 ・分かる人には分かるロックの名曲 ・分かる人には分かるクラシックの名曲 ・地下の狭い空間 ・理不尽な暴力 ・物語に影を落とす戦前~戦中の出来事
そしてもちろん、現実と異世界のあいだの揺れ動く境界(これが無いとね、やっぱり)
つまり、ラーメンで言えば「全部乗せ」。
と書くとまるでこの作品を揶揄しているようだけど、いちおう私は村上春樹の熱心な読者である(ファンという言葉は使いたくない)。その立場からすれば「おおお、本格長編来た!」と言わざるをえない。
いろいろ正当な批判はあろうかと思うし、批判される要素を入れなければ彼の作品が成立しえないのか、というと、必ずしもそんなことはないと思う。
まぁしかし、そういう点を差し引いても、面白い。
なんとなく「ご縁」というか、奇妙な符合を感じることがときどきある。しばらく前に翻訳原稿のなかで出てきて「何だろう?」と思った言葉が、作品のなかで印象的に使われていたりとか、そういう、たいして重要でないことなのだけど。まぁ要はうまく乗せられているんだろうな。
引き続き、第2部へ。「上下」になっていないことから、続きがあるんじゃないかという話も耳にしたけど……?
『日の名残り』の流れで、イギリスの上層階級の邸宅における執事という存在に興味が湧き、家にあったこの本を読んでみた。駅前の本屋でたまたま見かけて家人が買って読んだ本であるはず。こういう本が「たまたま」置いてあるところが、面白い「駅前の本屋」なのだ(隣駅の書店には規模の点で負けるけど)。
で、この本はたいへん面白かった。『日の名残り』(土屋政雄訳)で「女中頭」と訳されているのは、この本ではハウスキーパーと呼ばれるポジションかな。『日の名残り』における執事の描写とは細かい違いがあるけど(副執事というポジションがあるとか、銀器磨きが誰の仕事か、みたいな点とか)、まぁそのへんは時代や各家庭での違いもあるのだろう。
基本的には、歴史的・実証的な研究というよりは、文学作品を中心とした文献のなかで、執事やハウスキーパー、従僕、メイド、料理人、乳母、下男といった使用人がどのようなイメージで認識されていたか、という研究(そういえば冒頭に近い箇所で列挙されていた使用人の区分には「御者」があったのに、これについて論じた章はなかった)。
したがって、もちろん『日の名残り』も含めて、多くの文学作品への言及・引用があり、いろんな本を読みたくなる危険な読書ガイド、と言えるかもしれない。
文章もかなり読みやすい。
ただ、まったくのゼロからこの本を読んでも「お勉強」になってしまい面白くないかもしれない(一般向けだとは思うけど、研究者が書いた本ではあるので)。何かしら、そういう使用人の登場する(できれば活躍する)英文学の作品(漫画でもいい)を読んでからだと、興味深く読めると思う。クリスティのミステリでもメアリー・ポピンズでも、もちろん時節柄『日の名残り』でもいい。