2/12読了。
※ これから読む人を考慮して、ネタバレ&先入観回避のため、感想は画像の後で……。
(以下、ネタバレ多数)
だいぶ前に読んだ『わたしを離さないで』、先日の『日の名残り』に続いて、カズオ・イシグロを読むのは3作目。『日の名残り』以上に、評価に悩む作品。背表紙の作品紹介を読んでも、Amazonのレビューをいくつか読んでも(これはもともとあまり信用していないが)、わりと語られているとおりの物語として受け止めているようなのだが……。
どうも読んでいて、「信頼できない語り手」(→Wikipedia)の一つの典型のように思えてくる。つまり、かなりの部分(特に舞台が上海に移ってからの部分)は主人公の妄想なのではないか、と。あるいは、『わたしを離さないで』同様にSF的な設定というか、架空の世界・架空の歴史に基づいているのではないか、と(もちろんフィクションはすべて架空の世界であるといえばそのとおりなのだが)。
だって、第二次世界大戦直前の世界情勢において、問題の根源は欧州ではなくアジア、それも主人公が少年時代を過ごした上海にあって、世界を(恐らく大戦という)災厄から救う可能性が、敏腕とはいえ一介の私立探偵=主人公に委ねられていて、決定的な鍵となるのが探偵の少年時代に謎の失踪を遂げた両親を発見・救出することであり、十数年前に拉致・誘拐された(と主人公は思っているが身代金なり何なりの要求は一切ない)両親がまだ生きてどこかに幽閉されていて(と主人公は信じている)、そして発見・救出に向かう危険な道行きの過程で、さしたる伏線もなく幼馴染に再会し、共に冒険を続ける……これって、妄想以外ありえないのでは? というか、まさに件の幼馴染と繰り返し遊んでいたという「救出ごっこ」なのでは?
途中から「これ、いわゆる『夢落ち』以外に収束しようがないけど、それはあんまりだよなぁ」と思いながら読んでいたのだけど、特にそういう収束には至らなかった。失踪した両親の真実については、もっと現実的かつ残酷な説明がなされるのだけど、それが主人公の妄想と対置した意味での「現実」であるとして、ではその妄想と現実の境目は、特にどこといって明示されるわけでもない……。
不思議な、そして繰り返しになるけど、評価に悩む作品。
どうも、フィクションに対する自分の受け止め方が歪んでいるような気もする。プルーストの悪影響なのかもしれない(なんてね)。
翻訳はまぁ悪くないが、ところどころ気になる部分もあり、『日の名残り』の土屋政雄氏の方が優っている。編集者が気づいてあげるべきでは、と思う誤変換も2カ所(債権→債券、対面→体面)。
日本語Wikipediaにはこの作品の独立した項目はないのだけど、英語Wikipediaにはあった。
私と似たような読み方をする人もいるようだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/When_We_Were_Orphans
The impression is given that if he solves this case, a world catastrophe will be averted, but it is not apparent how. As Christopher pursues his investigation, the boundaries between life and imagination begin to evaporate.
彼がこの事件を解決すれば世界の破滅は回避されるかのような印象を受けるが、どのようにしてそうなるのかは定かではない。クリストファーが捜査を続けるにつれて、現実と想像の境界は消失していく。
Though the disappearances happened a quarter-century earlier, Christopher believes that his parents will be there, a notion supported by the present occupants of the home who assume Christopher’s family will be reunited in their home.
失踪が四半世紀も前であるにもかかわらず、クリストファーは両親がそこにいると信じている。この考えは、[かつての]家の現在の住人が、クリストファーの一家がその家でまた一つになると想定していることで補強される。
He meets an injured Japanese soldier who he believes is his childhood friend Akira.
彼は負傷した日本兵に会い、それが幼馴染のアキラであると考える。