読んだ本」カテゴリーアーカイブ

相島敏夫・丹羽小弥太『こんなことがまだわからない』(講談社ブルーバックス)

子どもの頃、といってもさすがに中学生にはなっていたかと思うのだが、その頃読んだブルーバックスとして思い出深いのが、この本。刊行が1964年だから、私が生まれる前。私が読んだのは第何刷だったのだろうか。

本書で、科学における未解明の謎として紹介されているもののうち、私が初めて読んだ時点でも恐らくかなりの程度解明されていたものはあったのかもしれない。いわんや、初版から半世紀以上も経った今この本を読むと、ほとんどの項目について「こんなことはもうわかっているのでは?」と感じることになる。

つまり科学はそれだけ進歩したのだ。

ブルーバックス編集部には、『あの「謎」は解けたのか-こんなことがまだわからない・答え合わせ編』みたいな本(あるいはウェブサイトでもいい)を是非出してもらいたいものだ。

とはいえ、そういう時代遅れの内容であっても、この本を読んでいると、何というか「科学の営み」とでも呼ぶべきものを感じることになる。

それは結局のところ、

科学は一つ問題を解くと、また一つ新しい問題を発見します。かくて科学は永久に「未知への挑戦」をつづけていくのではないでしょうか。(本書159ページ)

ということなのだ。

なお、今回あとがきを読んで知ったのだが、本書の元になったのは、「暮しの手帖」「婦人画報」の連載とのこと。なるほど、「暮しの手帖」か。

 

庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』

ふと、この本のどこかに書いてあった何かを無性に確かめたくなったのだけど、実家に残してあると思ったので、ついkindleで買ってしまった。が、家に戻ってみたら、実家から回収済みであった。そして、何を確かめたかったのかはまったく覚えていない…。

せっかくだから、苅部直さんの解説が付された新しい版を読みたかったのだけど、kindleに入っているのは残念ながらその前の版であるようだ。

とはいえ、暇を見つけて、再読。

ちょいと古いなと思わせるところは多々あるのだけど、それでも、現代でも少しの留保もなしに通用する普遍的な要素が垣間見られるのは、さすが(恐らくイオニア派の時代にも通用したのかもしれない)。

そういえばこの作品には、主人公らが対峙する、厭うべき空疎なバカ騒ぎの代名詞として「阿波踊り」という言葉が使われていて、高円寺でしばらく暮らしていた者としては少なからず腹が立つところなのだけど、考えてみたら高円寺阿波踊りも最初は「バカ踊り」と称して開催されていたらしいから、無理もない話なのかもしれない。そのあたりは、まぁ「あまり理解されていなかったのだねぇ」と笑ってやり過ごすところだろう。

Wikipediaのこの作品の項には、サリンジャーのThe Catcher In The Ryeとの類似(ありていにいえばパクり)をめぐる論争(?)の経緯が紹介されているのだが、そんな類似が取り沙汰されていたというのであれば、当時の文学評論の世界はずいぶん貧しかったのだなぁと不遜なことを思ってしまう。

この論争において庄司薫は、

「ぼくは、このような意見に対しては、ただぼくの作品を読んでいただきたい、というほかないと思います」と宣言

したというが、同時に、そうした評者はThe Catcher in the Ryeもしっかり読み直すべきだったのではないか、とも思う。

要するに、優劣はさておき、この二つはテーマも設定も大きく異なる、当たり前だが別々の作品ということであって、表面的な文体の類似に引きずられてそれを読み取れないのは、ちょっとどうかしているんじゃないか、と思うのだ。

 

小松左京『日本沈没(上)(下)』(角川文庫、kindle版)

映画も両方観たし(2006年版は俳優が幼すぎて観るに堪えないが)、一色登希彦による『日本沈没』が好きなのだが、そういえば原作は読んでいなかったので、藤岡換太郎の著書を2冊読んだのをキッカケに手に取った。

漫画や映画に比べてスペクタクル性には乏しく、淡々として理屈っぽくなるのは当然だが、それでもさすがに読ませる。難民救出のための空港・港湾施設が軒並み使えなくなるという経緯は真に迫っている。日本難民の海外移住をめぐるあれこれ、特にナミビア関連の状況などが丁寧に描かれているのも印象的。一方で、映画はともかく、一色版に比べて女性の登場人物の比重がゼロに等しいのは、やはり時代かなぁ。また、「沈没」を防ぐための科学技術による抵抗がほとんど描かれないのも大きな違いか。

「世の中」が、どこかでうまくいかなくなりはじめているのではないか、何か、決定的に具合の悪いことが起こりはじめているのではないか、という不吉な予感(第五章「沈み行く国」)

という表現は、今の状況に照らすと、示唆的という以上のものがあるように思う。

そして、この作品も「第一部 完」という形で終っていることを初めて知った。第二部を読むかどうかは思案中。

藤岡換太郎『天変地異の地球学 巨大地震、異常気象から大量絶滅まで』(講談社ブルーバックス)

というわけで、本来気になっていたこちらも読む。

これも面白いのだけど、ちょっと手を広げすぎて散漫になっている印象がある。前著『見えない絶景』の方がテーマが絞られていて分かりやすかった。もっとも、入り口としては話題が多彩なこちらの方が入りやすいかな?

藤岡換太郎『見えない絶景 深海底巨大地形』(講談社ブルーバックス)

図書館の新着図書のところに同じ著者の『天変地異の地球学』があって面白そうだったのだが、その前著が本書であるとのこと。図書館の書棚でこちらを見つけて、パラパラとめくっていたところ、日本海溝で人間の生首(実際にはマネキンの頭部)が目撃されるという、一色登希彦の『日本沈没』(小松左京原作によるコミック)に出てくるエピソードが実話であることが分かり、ビックリ。というわけで、こちらを先に読むことにした。

前半は岩手県宮古を出航したヴァーチャル潜航艇が、深海(ときどき空中)を辿って地球を一周する過程で遭遇する海底の巨大地形を観察し、後半はその巨大地形が生まれた謎を想像を交えて考えていく、という構成。当然、話は人類どころか生物さえ存在していない時期にまで遡り、ビッグバンから太陽系の生成にまで及んでいく。

「想像を交えて」というところがけっこうポイントで、その意味ではこの本に書かれている内容の一部は著者独自の仮説にすぎないのだが、そもそもこの分野では想像力を駆使するしかない領域がたくさんあるのだ。それでもコンピューターによるシミュレーションを頼りにできるようになって、かなり変わってきたようではあるけど。

ブルーバックスの常で図版はけっこうあるのだけど、こういう時代なのだから、内容に即したCG動画をYouTubeで観られたりすると面白いのだけどなぁ。

引き続き、『天変地異の地球学』へ。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(5)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

というわけで、年内に読了。

この巻は、作品そのものはエピローグだけなので短い。その後は、訳者によるドストエフスキーの生涯と本作品についての解題。

印象的なのは、この小説は未完である、という点。むろん著者自身が冒頭で、これは今から13年前の事件を描く「第一の小説」であって、本当に大切なのは「第二の小説」である云々と断っているので、この先があるなという感覚は当然なのだけど、とはいえ、これを完結した「第一の小説」として扱っていいのかとさえ思うほど、ラストの「放り出され」感は強い。だからこそ、いろいろ解釈の余地のある作品として名を残しているのかもしれないが。

賛否の分かれる新訳ということで、訳者・亀山郁夫の解釈を押しつけすぎというレビューも目にしたが(「妄想」とまで断じる見解もある)、私としては(もちろんロシア語は分からないのだけど)特に文句はない。「解題」も、なるほどと思わせる部分は多々あるし、何より、他のドストエフスキー作品も読んでみたいと思わせるところが優れている(危険とも言う…)。もっとも個人的には、いくつもの愛称が錯綜するロシアの小説でよくある状況は苦にならないし、そもそも海外小説の翻訳そのものに抵抗がないので、まぁ以前の訳でも問題はなかったかもしれないけど。

まぁ端的に言って実に面白い小説だし、再読は必至なので、恐らくこの訳を購入することになると思う。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(4)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

そういえば追加していなかった。

というわけで佳境の第4巻。この後にエピローグ(5巻)が続くわけだが、ひとまず大団円という感じ。「事件の真相」はもちろん、その後の「悪魔」との対話、巻の後半を占める法廷劇など、おなかいっぱいという感じである。

亡母が文句を言っていたとおり、全編を通じて、やはり皆、怒鳴り散らし、叫びまくっていが、この第4巻の法廷劇はまさにその最高潮という感じである。スメルジャコフの癲癇はもちろん、女性陣のヒステリーも含めて、メンタルが不安定なのは民族的な背景があるのだろうか。

引き続き最終の第5巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(3)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

物語が激しく進行する部分なので、一気に読む(実はこれを書いているのはこの巻を読了してしばらく経っており、すでに4巻も半分くらいまで読んでいる)。

しかし、改めて思ったのだが、たぶんこの作品、高校くらいのときに最初に読んで、その後1回くらい再読したかもしれないと思っていたが、たぶん再読はしていないのだな。だって、話を全然覚えていない。「兄弟」がどういう構成で、作中で誰が死に、誰が殺されるかは覚えているし、この巻冒頭のゾシマ長老の死去に伴う、いわば「逆・奇跡」については記憶があったが、「事件」に至る経緯や男女関係とかはまったく記憶にない…。

というわけで、「ある程度の予備知識はあるけどストーリーはほぼ知らない」という、恵まれた状態で読み進めております。

 

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(2)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

件の大学時代の同級生によれば、この第2巻に含まれる「大審問官」と「ゾシマ長老」はこの作品の最大の難所とのこと。確かに「大審問官」の部分は、中断せずに一気に読み通さないと、またその節の冒頭に戻って読み直すことになるような気がする。とはいえ、何がテーマになっているかは明確なので、そこまで読むのに苦労はしないかな…。

ところで、主役級の1人である、「兄弟」の父フョードル。もう老人なのに女の尻を追いかけ回し、道化じみた無礼きわまりない振る舞いでひんしゅくを買う好色爺、みたいな設定なのだが…。

年齢の設定は、なんと55歳。私と同じか、数え年だろうから私より若い。

まぁ『サザエさん』の磯野波平が54歳とか、もうその手の話には事欠かないのだけど。

それにしても、年末恒例の『メサイア』を控えて、こういうキリスト教が重要な主題になっている作品を読むというのは、なかなか味わい深い。せめて福音書くらいは読み返さないといかんよなぁという気になってくる。

とりあえず、勢いをつけて、第3巻へ。

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟(1)』(亀山郁夫・訳、光文社古典新訳文庫)

たぶん最初は高校生の頃に読み、大学に入ってからか、その後の20代の時分に一度は再読しているのだが、そろそろちゃんと読み返さないと、と思っていた作品。

誰の訳で読もうか迷ったのだが、この作品が世界最高の傑作であると主張する大学時代の同級生が、とりあえず亀山訳で読んでおけと言うので、この新訳への賛否は分かれているようだが、アドバイスに従う(彼は複数の訳を読み比べているはず)。

かつて読んだのは江川卓訳のように思っていたが、新潮文庫だったという記憶もあるので原卓也だったかもしれない。家には旧仮名遣いの古いものもあったはずだが、それは米川正夫かな?

亡母が「ドストエフスキーは登場人物がみな叫んだり怒鳴ったりしてばかりで読んでいて疲れる」と悪口を言っていたのを懐かしく思い出す(本人の専門はチェーホフ)。まぁ、確かに(笑)

で、やはり再読して正解と思える面白さ。この第1巻から、さっそく歯応えのある宗教論的な部分があるにはあるが、そういう部分も味わい深く読めてしまうのは、やはり読者としてもそれなりに馬齢を重ねてきた効果なのだろうか。どの訳にするか迷っていたこともあって図書館で借りて読み始めてしまったのだけど、これは買い直すかな(しかしそうすると、どの訳を買うかでまた迷う)。

昨今の情勢を理解するうえで有効かどうかはともかく、「ロシア的」という概念に注意しつつ読み進めていきたい。

勢いがつきはじめると読むのは速いので、すでに2巻に進み、それもそろそろ終わりが見えてきた…。