読んだ本」カテゴリーアーカイブ

シェイクスピア『ソネット集』(岩波文庫)

まぁ憂鬱なことの多い世の中なので、それに合わせた問題意識で本を読んでいると、今ひとつ楽しい読書にならない。そこで、たまには浮き世離れした本を読んでみる。

もともと、4月にアガサ・クリスティーの『春にして君を離れ』を読んだときに、タイトルの出典である(小説中でも言及されている)シェイクスピアのソネットって全然読んだことないなぁ、一度くらい読んでみてもいいかなぁ、と思ったのがきっかけ。kindleだと原書は無料で入手できるので、必要に応じて参照することにして、岩波文庫版を購入。

浮き世離れした読書をしたいという目的は完全に満たされます。

まぁ何かの折にこれを引用して、などという洒落たことをする機会はまず来ないだろうけど(笑)、うん、やはり古典はよいですね。時空を超えている。

愛する者の美しさを自分の詩という形で永遠に残すのだ、彼の命はもちろん失われ、建物が朽ち果て、墓碑銘も消え去っても、詩の形で残せば残るのだ、と大言壮語をかましたシェイクスピアは、本当に数百年後にも自分の詩が、遠くジパングの地でも読まれると想像していただろうか。「数百年? 私のいう永遠には、それでは遠く及ばない」と言い捨てるかもしれない…。

翻訳は、もちろん体裁は整えつつも、意味がしっかり伝わることを旨としているものなので、雅趣のある韻文に仕立て上げられているわけでもなく、その点では物足りないと言えば物足りない。この訳文を記憶に刻むという種類のものではない。その意味で、もっと古い(坪内逍遙とまではいかずとも)訳詩を読んでみたい気もするのだが、この訳ももう30年以上前のものなのだなぁ…。

 

 

山崎雅弘『歴史戦と思想戦~歴史問題の読み解き方』(集英社新書)kindle版

「南京大虐殺」論争とか従軍慰安婦問題については、これまでもそれなりに勉強はしてきたので、そういう意味では特に新しい知見は得られなかったのだけど、そういう個々のトピックのレベルはさておき(もちろんその部分も有益ではある)、歴史問題全体に関する大局的な視点を提示するという点で、よい本である。

特に、「日本」という言葉が、ある文脈において(そして特に「自分にとって」)具体的には何を意味しているのか、という把握。これについては鴻上尚史さんが連載コラムで実に的確にまとめているので、ひとまずそれだけでも読んでいただきたい。

「日本の悪口を言う奴は反日だ」と叫ぶ人たちが取り違えていること/鴻上尚史

(これを紹介するとこの本が売れなくなっちゃうかもしれないけど…)

もう一つこの本で面白いのは、「歴史戦」を展開している産経/日本会議系の論客が、いかに「外からどう見られるか」に無頓着なままに論を張っているか、という指摘。「外からどう見られるか」ってプレゼンの基本だと思うのだけど、まぁ日本にはそういう伝統はないからねぇ…。

内田樹『困難な成熟』(夜間飛行)

考えてみれば、ウチダ先生の単著を読むのはずいぶん久しぶりである。申し訳ないが、だいたいいつも「同じ話」なので、しばらく飽きていた、というのが正直なところかもしれない。

これも出版されたのはだいぶ前(私が読んだkindle版だと2015年9月になっている)なのだが、どうにもやはり、この日本の社会がだんだん奇妙なことになりつつあるせいなのか、ああ、そういうことなのかと膝を打つところがいくつかあった。

特に「贈与の訓練としてのサンタクロース」と「寿命の設定が短縮された」の部分かな~。

変な言い方だが、「愛や夢や希望みたいなことを語るための、『そういうことにしておく』ドライな割り切り方」について書かれた本なのではないか、という思いがする。

 

ジュリオ・トノーニ、マルチェッロ・マッスィミーニ『意識はいつ生まれるのか』(花本知子・訳、亜紀書房)

少し前に読了。

その前に読んだスターンバーグの著作に比べると、だいぶ得るところは多い。ただ、意識を生み出す脳の状態(多様性と統合)という、いわば意識を成立させる物理的な条件についてはかなりの程度踏み込んでいるのだけど、ではそもそも意識とは何なのかという本質については、「ああ、もうちょっとなのに」という示唆はそこここに見られるものの、「届いていない」感がある。

やはりそのためには、哲学的な考察はさておき、新生児から成人への発達とか、もっと単純な構造の動物から進化していくとか、そういう発生論的なアプローチが必要なのだろうと思う。

その意味で『タコの心身問題』は(今年になって読んだばかりではあるが)再読する必要があるかもしれない(この本にも頭足類への言及はあり、学術書ではなく一般向けの科学啓発本という著者自身のポジショニングからこの本では出典・参考文献が示されていないのだが、恐らく『タコの心身問題』も踏まえているのではないかと想像される)。

結局のところ、この問題を考えるうえでは、「意味」と(したがって)「関係」という観点から切り込んでいくしかないのではないか、と思っている。

野尻抱影『新星座巡礼』(中公文庫BIBLIO)

5月に京都の書店を何軒か訪れた際に家人が購入したのを借りて読む。

古風で端正な文章で綴られる星座・星談義は魅力的なのだけど、何より「これほどの星々を自分が目にする機会はこれから先あまり無いのだろうなぁ」と思ってしまうのが悲しい。いやまぁ、星を観ようと思えば、そういう環境に足を運べばいいのだけど、なかなかね……。

ところでこの本、古書として購入したのだけど、ところどころに書き込みがある。図書館の本なら「けしからん」と言うべきところだが、誰かが保有していたものなのだから、しかたがない(私自身は自ら保有する本でさえ書き込みをしないタイプなのだけど、自分の本なら人それぞれである)。

が、その書き込みが一つ一つ、細かい字で丹念にこの本の誤りを訂正する内容なのだ。単に誤記・誤植の類と思われるものが多く、訂正は的確であるように見える。いわば校正で赤を入れたような感じ(普通の鉛筆のようだが)。

奥付の上には、蔵書印こそないものの、購入した日付・場所と読了した日が、本文中の書き込みと同じ筆跡で記してある。この文庫版は、2002年11月25日に発行されているのだが、この読者は、同月29日に購入し、その日のうちに読了している。何カ所も校正を入れつつ、そのペースで読めるというのは、恐らく、この読者もひとかどの星の専門家なのではないかと想像する。

坂井豊貴『多数決を疑う』(岩波新書)

今般の参議院議員選挙の結果について、個人的には大きな不満や落胆があるわけではないのだけど、それにしても、特に小選挙区制(参院選であれば1人区)ではもう少し優れた選挙方法があるのではないか、とは常々思っている。

というわけで、義父が勧めていたこの本を読む(と思ったのだけど、彼のブログでは本書に言及している箇所が見つからない。しかし書棚にあったことは確かだ)。

実に面白い。

単純多数決に代わるボルダ・ルールや中位投票者定理など、技術的な集計ルールの考え方も面白いのだけど、それ以上に、ルソー『社会契約論』を軸とした、民主的な意志決定そのものについて考察する章が重要であるように思う。本書を読めば、いくつかの条件が満たされれば、多数決で得られる結論が正しい確率は限りなく100%に近づくことは理解できるのだが、現実の(そして特に今日の日本の)国会においては、その条件がいずれも満たされておらず、当面、満たされる可能性も低いことが痛感される。多数決に従うことが民主主義なのではない。それ以前にまず、多数決が民主主義の理念を満たさなければ話にならない。

図書館で借りたが、これは買うべきかもしれない。

これを読むと、必然的に『社会契約論』を再読しないといかんなぁという気になってくる(読んだのはいつだろう。高校? 大学?)

エリエザー・スターンバーグ『<わたし>は脳に操られているのか 意識がアルゴリズムで解けないわけ』(大田直子・訳、インターシフト))

従姉のパートナーがFacebookで紹介していて気になった本。というか、まぁ哲学科出身の私としては専門分野と言えなくもない。

神経脳科学の発展をベースに、それでは人間には「自由意志」はあるのか、人間に道徳的な主体性を問うことはできるのか、という問題に答えを出そうとする本。

面白い本ではあるが、著者は最終的に「自由意志」の存在を肯定する結論、というより展望を示すのだけど、それならばもう少し優れた説明のしかたがあるようにも思うし(などと書くと偉そうだが)、「そこは検証なしに言い切ってしまっていいの?」という疑問が生じる部分もある。

そして結局のところ、物理学にせよ脳科学にせよ、過去に哲学が提示してきた問題をいっそう精緻・厳密にすることには貢献しても、その答えを導くには至っていないのだなぁという諦めのような思いを抱く(まぁ構造的にしかたがないのだけど)。

 

 

近藤史恵『キアズマ』(新潮文庫)

必然的な流れで、これも。すべて再読なので、それほど時間を要さず一連の作品を読破。他の4作品がプロの自転車ロードレースを舞台にしていたのに対して、こちらは大学の学生スポーツとしての自転車ロードレース。さわやかな青春小説でもあるのだけど、苦くて痛い過去もあるのは、この作者の作品の常か。自転車というハードウェアそのものへの愛情は、この作品が一番前面に出ているように思う。

これも続編を期待できそうな流れである。

 

近藤史恵『サヴァイヴ』(新潮文庫)

「白石誓」を一人称の主人公とするロードレース連作からスピンアウトした格好の短編集。同じく白石の視点から描かれるエピソードもあるけど、メインは、彼がデビューしたときのチームの先輩であった「赤城」視点の3本。

「一生ゴールを目指さず走り続ける選手の気持ち」という言葉が、赤城/白石という「アシスト」の立場からサイクルロードレースを描くという、作者の選んだ視点をうまく象徴している。

そして、出色は、J Sportsのサイクルロードレース番組で解説者(時に実況も)としてよく知られる栗村修による解説。作品に対する手放しの絶賛であるにもかかわらず、こうした作品を支えているのが現実の選手たちが展開する競技や喜怒哀楽なのだということを痛感させるという点で、ある意味、作品本体を凌駕する印象を与える解説である。

近藤史恵『スティグマータ』(新潮文庫)

というわけで、サイクルロードレースものの長編第三作。

第一作『サクリファイス』についても言えるのだが、登場人物がめぐらす策謀(プロット)が、やや作為的にすぎる気がする。いや、策謀なのだから作為的なのは当たり前なのだけど、ヒネりすぎて無理があるように思う。

具体的には(以下ネタバレ注意)、登場人物の一人が序盤で主人公にある依頼をするのだが、むしろその依頼は、その登場人物がめざすもの達成を妨げてしまう結果になっていないか。全体的に、目標の設定と、そのために選択する手段のバランスが取れていないようにも思う。

それとも、主人公の推理が「考えすぎ」だったのか。こちらの方が可能性は高いように思うけど、そうするとこの小説のプロットが死んでしまう。う~む。

というわけで、やはりこの連作、ミステリとしては今ひとつのような気がするのだ(笑)

(追記:『エデン』はよく出来ている。人の生死に関わる部分はとてもパーソナルな話なので「謎」としては小粒であり「ミステリ」と呼ぶにはふさわしくないかもしれないけど、感情の機微をうまく描いている)

とはいえステージレースの展開は前作同様に面白いし、主人公の人格描写という点で、いよいよ彫啄が進んできたようだ。つまり、彼にとって自転車で走るとはどういうことなのか、という哲学めいた問いへの答えが、作を重ねるごとに鮮明になりつつあるように思える。そして、私としては、このシリーズのそういった部分がとても好きだ。