読んだ本」カテゴリーアーカイブ

ロバート・B・パーカー『初秋』(ハヤカワ・ミステリ文庫)

少し前に、8年ぶりに再読。前回は図書館で借りて読んだのだが、今回は思うところあって購入した。

内容や翻訳に古めかしさを感じる部分はあるものの、やはり秀作。

解説の郷原宏は、ネオ・ハードボイルドの主人公らと対比したスペンサーの特徴として、「饒舌である」「お節介である」「生活が健全である」の3点に加えて、「熱烈な男性誇示主義者(マチズモ)」である点を挙げているが、ここはスペンサー自身の台詞を借りて、「半ば正しいな」と言うべきだろう。確かにスペンサーは筋トレ大好きだし、相手を殴りつけて話をつけるし、「立派な男とはどういうものか」ということをいつも気にしているようだし、一方で恋人に対する態度はどうかと思うところがあるけど、その反面、さすがに1980年代の作品としてふさわしい程度には現代的である。

8年ぶり、と書いた。

スペンサーシリーズにはご縁がなかったのだけど、何がキッカケだったか、震災の直後、ふと読もうと思った。なぜだか、とても救われる思いがした。

以前から折に触れて思うのだけど、哲学、自然科学、歴史、経済、社会、政治、何でもいいのだが、どれほど優れた「賢くなる」本を読み、刺激を受け、自分の頭を使って考えていても、そればかり続けていると、だんだん頭が悪くなってくる気がする。それは個人的体験として実際にそうなのであって、知識や洞察は増えても、なんだか頭の回転が鈍くなってくるのだ。

そこで、ときどきは、こういうきちんとしたストーリーのある小説を読むことが必要になってくる。そうすると、頭の中がスムーズに「流れる」ようになってくる。頭の回転数が上がる。

短編集では十分に「流れ」ができないのでダメだが、逆に、長すぎて独自の世界が脳内に構築されてしまうような作品でもダメ。この『初秋』のように、特に難解ではなくスムーズに読める中編程度の「物語」がよいようだ。

震災直後も、いろいろ情報を吸収して考えることで、頭が悪くなっていたのだろう。そこを救ってくれた、思い出深い本である。

もちろん、作品自体としても優れているので、そういう時期でなく読んでいたとしても気に入っていたとは思うのだけど。

 

 

大木毅『独ソ戦-絶滅戦争の惨禍』(岩波新書)

『ヒトラーとナチ・ドイツ』『ヒトラーに抵抗した人々』に続いて、やはりこれも読んでおかないと、という感じで。

通常の戦争(だから良いというものではないが)に対して、収奪戦争・絶滅戦争という特質を帯びたことによって、独ソ戦が凄惨な様相を呈することになった経緯を中心とする論考。

第二次世界大戦においてソ連(当時)の死者数が突出して多いのは、戦勝国であることを思えば不思議なくらいなのだが、そのような経緯を知れば、なるほどと思う。

やっぱり人種的・民族的な偏見がかくも大きな「悪」を生み出すのだなぁ。

あと、戦後に流布した、独ソ戦の推移をヒトラーの個人的な責任に帰してドイツ国防軍を免責するような言説を、最新の研究に基づいて否定しているのも、この本の意義。

 

深緑野分『戦場のコックたち』(創元推理文庫)

各所で評判のいい作品。

ただ、私にはちょっと物足りないというか…描かれている状況の厳しさやテーマの重さに比べて、文体が軽すぎるのがしっくり来ない。そのせいか「謎解き」の部分がどうも取ってつけたように思えて、登場人物の1人の台詞にもあるのだが、お前らそんなことやっている場合かよ、という印象が拭えない。

まぁ、こういう拵えにしないと、なかなか読んでもらえないのかもしれないが…。

 

谷岡一郎『データはウソをつく―科学的な社会調査の方法』(ちくまプリマー新書)

「相関関係と因果関係をごっちゃにするな」「特定部分を誇張するグラフ表現に騙されるな」「質問の表現には気をつけろ」などなど、そういうリテラシーが必要であることは言うまでもないし、そのわりにはあまり理解されていないので、もちろん、この種の本は有益ではある。

有益ではあるのだが…あまりオススメできない。そういう、有益な知見(個人的には分かっていることばかりで今更感があるのだが)も含まれてはいるのだけど(そのための本なのだから当然だが)、それ以外に、著者の主観や思い込みで語っている部分がたくさんあるのが気になる。で、そのたびに「この本に書いてあることも鵜呑みにしちゃダメですよ、練習問題として突っ込みを入れてみてください」みたいな予防線を張っているのが、またいかにも姑息な印象。だったら無駄話は止めて必要十分なリテラシーに絞ればいいのに、と思う。

この新書シリーズは若い(高校生くらい?)をメインターゲットにしていると思うのだが、そういう新書にふさわしい著者なのだろうか、という疑問が湧く。

厳しい言い方をしてしまえば、卑しさを感じてしまう著作である。学ぶべき内容はあるだけに、もったいない。

 

佐藤勝彦監修『「量子論」を楽しむ本』(PHP文庫)

『~宇宙の話』シリーズの佐藤勝彦さんが書く量子論の本ならさぞかし面白かろうと思って借りてみたのだけど、よく見たら、「監修」という位置づけだった。そして、実際の執筆者は明示されていない?(探し方が甘いだけかも)

とはいえ、それにもかかわらず、「さすが佐藤勝彦」(実際には違うにせよ・笑)と思わせる卓抜な説明が随所にあって、面白い。観測した瞬間に位置が定まるというのを「だるまさんがころんだ」に喩えるとか、観測という行為そのものが対象に影響を与えてしまうというのを、小さな水滴の水温を普通サイズの温度計で測る行為に喩えるとか。

ただ、こういう本の常で、数式や理論的な説明は極力排するというスタイルなのだけど、もう少し難解になってもいいから、もう少し入れてもいいんじゃないかな、という気もする。

 

吉賀憲夫・編『ウェールズを知るための60章(エリア・スタディーズ)』(明石書店)

図書館で本を借りるときは、たいていは何かで知った本をネットで予約して近所の図書館で受け取るのだけど、それ以外にも、「新着図書」の棚で目についた本をつい借りてしまうことも多い。今年8月に出たばかりの本書も、当然ながら借りてしまう。

さまざまなテーマについての60章立て、面白く読ませるというよりは教科書的な記述も多いので、さすがに退屈する部分もあるのだけど、何と言ってもラグビーその他のご縁で興味深い地域なので、完読。「ウェールズは唄の国」とされる経緯や、言語を中心とする伝統が破壊&再創造される過程はとても印象に残る。

ラグビーへの言及は1章のみ。やや物足りない(笑)

 

高松晃子『スコットランド 旅する人々と音楽』(音楽之友社)

家人がスコットランド音楽に魅了されているようなので、何か良い本はないかと探してみたら、これが見つかったので図書館で借りて、先に読んでしまった。

う~ん、民謡の世界だ! それぞれの一族に伝わる「バラッド」は「大きい唄」と呼ばれるという。なんかそんな言葉をこちらの世界でも聞いたことがある。返し…じゃない、リフレインの部分を同席した皆で唱和することでコミュニティとしての一体感を確認しつつ、メインの唄の部分についてはそれぞれの家に伝わる歌い方を披露し、個性と先祖との系譜を承認し合う…。

そして、コミュニティのなかで歌い継がれてきた唄が「発見」され、商業化されたステージの世界に進出していき(あるいは取り込まれ)、コミュニティは変質していく…。

音階(旋法)の説明など、音楽の知識が必要な箇所も少しばかりあるが、9割方は、そのような知識なしに楽しめる本。いま家人が読んでいるのだけど、戻ってきたら、紹介されているミュージシャンを手がかりに音源を探してみよう。

羽生善治・梅原猛・尾本恵一『教養としての将棋 おとなのための「盤外講座」』(講談社現代新書)

少し前に読んだのに書くのを忘れていた。

「観る将」(自分は指さないが、観るだけの将棋ファン)を視野に入れた、文化としての将棋をいろんな側面から語る本。

冒頭の羽生・梅原の対談はやや散漫な気もするし、羽生の話については他でも語られていることがけっこう多いのだけど、プロ棋士はAIには勝てないということがもはや当然の前提として語られていることはさすがに感慨深いし(本書は2019年6月刊)、やや唐突に飛び出る梅原の靖国神社考なども、ほほうと思わせる。考古学的なアプローチ(原則として出土品に裏付けられない主張は慎む)から見た日本将棋の誕生に関する考察や、「駒」という点から一点集中的に将棋を考える章も面白い。

Amazonのレビューには「やっぱり少しは指せる人でないとこの本は楽しめないのではないか」という意見もあったが、駒の動かし方を知っている(忘れているかもしれない)程度の家人も楽しく読んだようなので、その心配はなさそう。

 

 

對島達夫『ヒトラーに抵抗した人々 – 反ナチ市民の勇気とは何か 』(中公新書)

『ヒトラーとナチ・ドイツ』を読んで、では、そうした体制・社会に対する抵抗はどのように可能/不可能なのか、と思って、これに進む。

抵抗そのものの難しさについて思うところはいろいろあるのだけど、それにしても、戦後(1950年代)の西独で、ヒトラー/ナチに抵抗した人たちが依然として(全面的にではないにせよ)「裏切り者」扱いを受けており、復権には時間を要したという点に衝撃を受ける。その意味で、ドイツの敗戦は日本の敗戦とはだいぶ違う。

それと、戦後~現代のドイツにおいて「キリスト教」を正面から名乗る政党(ドイツキリスト教民主同盟=CDUと地方政党・キリスト教社会同盟=CSU)が、常にではないにせよ政権を握っていることについて「現代の民主政国家なのに政教分離はどうなっているんだ?」という疑問を以前から漠然と抱いていたのだけど、この本では、直接的にCDU・CSUに言及してはいないものの、その点についての興味深い解説がなされていた。要は、世俗国家の暴走を阻む上位の審級としての宗教倫理、という観点。

 

石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)

このテーマに関しては池内紀や舛添要一の近著が話題になっているようなのだけど、「基本的にはこのあたり(つまり本書と、もう一冊何か挙げられていたはず)をお勧めしたいというのは変わっていない」と誰かが書いているのを読んで、手に取ってみた。

ヒトラー/ナチが民主的な手段により政権を握ったという俗説があるけど、実際の経緯を知ると、とうていそんな穏やかな話ではないことが分かる。

何はともあれ、民主的な社会と基本的人権は石にかじりついてでも守らないとこういう流れになってしまうのだな、ということはよく分かる。経済や外交でいくら美味しい話があっても、その部分で妥協しては絶対にダメなのだ、と。

なおヒトラーの経済政策が成功したことで国民の心をつかんだという話もあるけど、その一例とされる失業問題の解決については、なんだそりゃという感じ。確かに街中で見かける失業者は減ったのだろうけど、そのことをもって「失業問題を解決した」と称するのは、それはいくら何でもあんまりだろうという印象。

たとえば昨今の経緯によって、もはや日ロ間に北方領土問題というのは存在しなくなったと言っても、少なくとも当面のあいだは大きな間違いはなかろうけど、それをもって「安倍政権が北方領土問題を解決した」と胸を張れるのか、というような話。

宣伝の恐ろしさというものを感じる。